誰も知らない優しさ
その男子生徒は読んでいた本を閉じた。私は斜め後ろから顔を覗き見る。
「あれ……? 山中くん?」
私は控え目に彼と思しきその人物に声を掛けた。チラと眉を動かし、振り向いたその顔はやっぱり山中くん。いつもと変わらない無表情で、シャープな輪郭に長い睫毛と二重瞼の切れ長な目が印象的だった。その美しい容姿は歌舞伎の女形の化粧を施したら一層映えるんじゃないかと思える。
一瞬私が手にしている本に山中くんの双眸が落ち、すぐにそのミステリアスな瞳で私を見据えた。
「成瀬か」
風邪を引いて休んだものとばかり思っていた私は、とりあえず山中くんが学校に来ていたことにホッとする。
「今日は山中くんお休みかと思ってた。学校来てたんだね。それで、あの、具合は大丈夫?」
「具合?」
「うん、昨日寒い中私を送ってくれて、そのせいで雪が降ってきちゃったじゃない? 私、傘を貸すこともしなくて。山中くん風邪引いちゃったんじゃないかと思って」
「いや、問題ない。大丈夫だ」
私の心配をよそに、山中くんは呆気なく返答する。
「本当に? でも、元気そうでよかった。あ、これ……」
セーラー服のポケットに忍ばせておいた、私には不釣り合いな美しい刺繍が刻まれた高級そうな藤色のハンカチ。それを取り出して、私は両手で差し出す。
「昨日は本当にありがとう。私の話を聞いてくれたことも、ハンカチを貸してくれたことも、送ってくれたことも、全部とても嬉しかった」
「別に構わない。……目が腫れているな」
淡々とした山中くんの返答の中で、唐突に指摘を受ける目の腫れ。あっ! と思ったがもう遅い。私の顔を見る山中くんの整いすぎた顔が余計に恥ずかしさを増大させる。
「やっぱり目立つよね。里奈にもすぐに指摘されたわ。ただでさえ可愛くないのに。……あれ?」
手ぐしで前髪を撫でて目元が隠れるように持ってくるが、そんなことで恥ずかしさは消えない。何か違う話題を見つけたくて彷徨わせた視線に、テーブルの上に置かれた三冊の本が映った。一冊は『子猫の飼い方』という題名だとわかる。
「山中くん、猫飼ってるの?」
山中くんは本を一瞥する。
「ああ、飼ってるというよりは飼うことにしたんだ。昨日」
「昨日?」
「帰り道に捨てられているのを見つけてな」
「そうだったんだ」
酷いことをする……。昨日みたいな寒い日に外に放置されたら、生後間もない子猫なら間違いなく死んでしまう。猫を捨てた知らない人に憤りを覚えるが、だけど、それよりも山中くんの優しさに胸が温まる。
「でもその猫ちゃんはよかったね。山中くんみたいな優しい人が助けてくれて。動物に手を差し伸べられるなんて、山中くんはやっぱり優しいね」
「飼うことにしたから成瀬は俺を優しいと思う、そういうことか?」
私の言葉に山中くんは間髪入れずにそんな質問を返してくる。
「え? うん。猫が捨てられているのを見つけたからって、誰も彼もが助けようと飼う決心がつくものじゃないと思うの。それにね」
胸を温めた山中くんの優しさが微笑ましさに変わり、思わず笑みがこぼれてしまう。一言謝り。
「わざわざ図書室に足を運んで猫の育て方とか、猫の行動と気持ちを理解しようとするところとか、やっぱり優しいと思うわ」と続けた。
「そうか」
山中くんの決まり返事だ。そうか、は。山中くんとこうやって話すのは二回目だけど、この返事は山中くんの口癖じゃないかな?って思っている。
山中くんは本を手に取ると席を立ち、本棚の隙間に消えていった。私も手にしている本を元あった場所に戻し終えると、入口で山中くんが来るのを待つ。山中くんはすぐに来た。
「もし猫ちゃんの面倒のことでわからないことがあったら訊いて? 今はいないけど、昔私も猫を飼ってたから少しはアドバイスできると思うの」
「ああ」
「あ、じゃあまたね」
扉を開けさっさと歩いていってしまう山中くん。少しは仲良くなれたのかな、と思っていたが、正直よくわからない。私だけが仲良くなった気でいる、そんな風にも思えるのだ。
そんな思いを抱きながら山中くんの後ろ姿を目で追っていると。
「詩織帰ろー。あれって山中くん?」
背後から里奈の声。待たせすぎてしまって図書室まで迎えに来てくれたようだ。
「詩織、山中くんと仲良かったんだっけ?」
今度は明日香が訊ねてくる。返答に困り、私は曖昧に「最近ちょっとね」とだけ言った。
山中くんは廊下の角を曲がり見えなくなっていた。
「なんで山中くんと仲良くなったの?」
曖昧な返事では納得しない里奈が訝しげな表情を浮かべている。疚しいことはないんだけど、話すようになったきっかけを言うのは憚られた。
「前にハンカチを借りて、今日はそれを返してたの」
里奈の質問に対する答えになっていないかもしれないが、私は事実の一部分だけを掻い摘んだ。案の定、里奈は腑に落ちないと言わんばかりに口を尖らせる。
「まあ、詳しい理由はいいんだけどさ。詩織、山中くんと仲良くするのはやめたほうがいいかもよ」
「……どうして?」
里奈は辺りを見渡した。誰もいない事を確認し、尚且つ声を顰めて、囁くようなトーンで言う。
「山中くんって何か怖いんだよね。何を考えてるかわからないっていうか、こんな言い方駄目なのはわかってるけど……不気味っていうか。心がないんじゃないかなって思うんだよね」
私は黙って聞いていた。否定したい気持ちが喉のすぐ後ろまで来ていたが、それをぐっと飲み込んで。里奈は陰口や誹謗中傷を言うような子じゃない。そんな里奈が心配するくらい、山中くんとは掴み所がない男の子なのだ。
私の顔を心配そうに覗き込みながら里奈は付け足した。
「私は詩織を心配して言ってるだけよ。山中くんがどんな男の子なのか私には分からなくて、それが心配で。だけど、私の言うことは強制でも何でもない。後は詩織が決めることだから」
「……うん」
何が、うんなのか、やっぱり私は曖昧な返事しかできなくて、ちらっと見た明日香の顔は私を気遣うような優しい目をしていた。
「さっ! ケーキ食べ行こー!」
一気に切り替えた里奈が腕を突き上げて歩き出す。明日香がそれに続き、私も後を追う。
みんな誤解してるだけで山中くんはとっても優しい人なんだよ。……その一言が、言えなかった。