エピローグ 心の温もり
夜中。ふと目が覚めてしまい、私はベッドの上で体を起こした。東京から帰ってきて睡魔に誘われるまま眠ってしまったのだが、目覚まし時計に目を凝らすと時刻は四時。体は疲れているはずなのに頭の中は妙に冴えている感覚で、こうなってしまうともう一度目を閉じようという気にならず、自然と思考が巡り出す。
山中くんと出会って二ヶ月足らずの間に色々な事があった。とてもあり得ない、非日常的な夜の学校で初めて話をしたあの日、恋と友情の板挟みで悩む私に自然体で接してくれて、私に好きとは何かを訊いた山中くん。ミステリアスで淡々としていて、だけども優しさが垣間見える彼の事が気になった。心が真っ白過ぎるが故に放つ残酷な言葉に恐怖した事もあった。私が迂闊で危ない目に遭った時には息を切らせて駆け付けてくれた。私の想いを汲んでくれて、ミュウの生命を大切に考えて行動し、助けてくれた。初めて抱きしめ合った時は心臓の音が重なり合って、まるでお互いの心が溶けて交り合うようだった。
「山中くん」
真っ暗な部屋に小さく呟いたつもりの声は大きく響いて鼓膜を震わせた。私の手を取って大好きだと伝えてくれた時を思い、頬が熱くなる。本当の意味で両想いになれたはずだけど、どうしても私の胸には不安が付き纏う。
どんどん変わっていく山中くん。そんな彼に私は相応しい存在なのだろうか?
整頓された勉強机に目をやり、じっと見つめる。引き出しの中にある物の存在を思い出し、小さな決意を抱いて私はその前に座った。手を伸ばし開けると、そこには未開封のピンク色のリップが。出番も無くたっぷり机の中で眠っていたソレを思い切って開封した。
◇◆◇
時計を見ると既に六時を回っていた。外は白み始め、手元にはまだ未使用のままのリップ。二時間もの間塗るか塗らないかで葛藤を繰り返してしまった。たったこれだけの事にと、自分が情けなくなる。里奈や明日香はファンデーションやチークやつけまつ毛だって当たり前にしている。あの子達は自分を磨く為に努力しているんだ。だからこそ可愛い。
何事も先ずは実行に移さなきゃ駄目! 大丈夫、少しだけ、少し塗るだけだから。と鏡を覗き込み慎重にほんの少しだけリップをなぞる。ドキドキしながら見つめると艶っぽい光沢を得た口唇に胸が高鳴った。
よし、学校に行こう。早めに行って目立たないようにしておこう。別に誰も私の顔をそんなジロジロ見ないし、自意識過剰でバカみたいだけど。……でも、もしかしたら、山中くん気付いてくれるかな。いやいや、たったこれっぽっちの変化に気付いてもらうなんて図々しいよね。超難問だよコレ。
そんな事を考えつつ階段を下りリビングに顔を出すと、お母さんに「あら? 今日は早いわね。もう行くの?」と声をかけられた。
「うん、ちょっと今日は早めに行こうかなって」
「朝ごはんは? 食べるわよね?」
あ、朝ごはんの事をすっかり失念していた。
「ううん、今日はいらないかな、ありがとう」
ピンポーン、とこんな早朝に珍しくインターホンが鳴らされた。訝しんだお母さんが玄関の姿見の前で身なりを整える私に「詩織ちょっと待ちなさい」と言い、来訪者の確認をする。
ややあってお母さんはにこにこと笑顔で「詩織、山中くんが迎えに来たわよ」と予想外な人物の名を告げた。
「えっ!? 山中くんのお家逆方向だよ? 学校通り過ぎちゃってる」
「あら、そうなの? 詩織と一緒に登校したいんじゃない? ほら、早くいったいった」
揶揄うようなお母さんの口調に文句の一つも言いたかったけど、そんな事をしている場合じゃない。寝癖とかお粗末なところがないか最低限チェックし、履き慣れたローファーを素早く履いて玄関のドアを開ける。
「おはよう」
「山中くん、おはよう」
まだ薄っすらと仄暗い外にあって山中くんの笑顔が眩しかった。私の中の山中くんがまだまだ追い付いていなくて、ついつい雰囲気に押され気味になってしまう。
「成瀬と一緒に登校したくて来てしまったが、迷惑じゃなかったか?」
「そんな、迷惑な事なんてないよ」こういうドキッとする台詞をごく自然に言えちゃうし。
「そうか、それならよかった」
二人並んで歩きながら、山中くんが他愛のない話を振ってくれるが、私はといえば相槌こそ打つものの、顔を山中くんに向けるのが妙に恥ずかしくてずっと俯いていた。すると。
「成瀬?」
「わ!」
突然、山中くんが屈み込み私の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫か? 具合が悪いんじゃないか?」
「ううん、大丈夫。心配しないで」
私はつい顔を逸して早口になってしまう。
「……そうか」
それから暫く山中くんは私に気を遣ってか無言でゆっくり歩調を合わせてくれていた。ヤバイ、態度悪い愛想の無い女になっちゃってる。山中くん、気を悪くしてないかな? チラッと見上げた山中くんは口元に薄っすらと笑みを湛え、くっきりとした二重瞼の下の瞳もやや眩しそうに細められとても穏やかな表情を浮かべていた。背が高くて顔も格好良くて頭も良くて、それに……今の山中くんはとても社交的で誰からも好かれそうで。駄目だ、なんか嫌な感情が湧いてきちゃってる。
「成瀬は、今までの俺の方が良かったかな?」
「えっ!?」
唐突な問いに思わず素っ頓狂な声が飛び出してしまった。
「俺の口数が多くて煩わしく思っているんじゃないか?」
「そ、そんな事ないよ」
「そうか、ならいいんだが」
「や、山中くんこそ」
やば……。口走ってから、しまったと思う。やっぱりこんな女々しいの嫌だよ……。山中くんが聞き逃しているはずもなく、足を止め私に向き直っている。他には誰もいない田んぼの畦道、唯一佇むお地蔵様だけが私達を見つめていた。
「なんだい?」山中くんが聞き返す。こうなったら言うしかない。
「わ、私なんかのどこがいいのかなって……。ごめんなさい、山中くんは何度も伝えてくれているのに、私、どうしても自分に自信もてなくって」
そう。どう考えたって、誰が見たって私と山中くんは釣り合っていない。これから先、山中くんの前には素敵な女性が数多現れるに違いない。その時、山中くんの隣に私なんかがいていいの?
じっと私を見下ろしているのがわかる。対して私はその顔を見られなくて山中くんのおへその辺りに視線をやっていた。
すると。
「ふふ……」と、微かに山中くんが笑った。女々しく問い質すから呆れられたのだと、そう思った。
「なんだか、とても嬉しいな」
…………嬉しい? どういう事? 予想外な一言に頭の中には疑問符が湧く。
「俺もだよ、成瀬」そっと視線を山中くんの顔へ向ける。「成瀬の側に俺なんかが居ていいわけがないと思っていた。今だって俺の方が不安で不安で堪らない。成瀬に嫌われるんじゃないかって、ずっと不安に思ってる。胸が苦しくなっていても立ってもいられないくらいだ。だから、つい成瀬の家まで押しかけてしまった」
恥ずかしそうに視線を逸らす山中くん。「ありのままの俺でなんて、いられるわけないじゃないか。あんなんじゃいつか絶対に嫌われてしまう」
自嘲するその言葉は誰かに向けられているようだった。
「成瀬と同じ気持ちになれて俺はとても嬉しいよ。だけどね、きみが不安に思う必要なんてない。俺は成瀬詩織という人間をとても尊敬している。そして大好きなんだ。怪物のような俺に真っ向から向かい合ってくれて、もう一度光を与えてくれて。そんな成瀬を……好きじゃなくなるなんてあり得ない」
また山中くんは真っ直ぐに想いを伝えてくれた。いや、私が言わせてしまった。
ああ、私って本当に駄目だなぁ。自分だけが不安だと思って、何度も何度も山中くんを困らせて。山中くんは何でも平気だって心の何処かで思っているのは私自身じゃない。山中くんも不安な気持ちの中で勇気を振り絞ってくれているんだ。行動してくれているんだ。山中くんも、もう同じなんだ。
澱んだ感情が剥がれ落ちていくようだ。本当に山中くんは、出会った時から何をすべきかを明確に示してくれる。例え本人にその気がなくても、私を前へ前へと導いてくれる。
「ありがとう。山中くん、でも私やっぱりこのままでいい」小首を傾げるその顔を私はじっと見つめた。
「不安だけど、山中くんにずっと好きでいてもらいたいから、頑張ろうって思える。これから先、後ろ向きな気持ちになっちゃう事も絶対あるけど、でも、大好きな山中くんにもっともっと好きになってもらえるように精一杯頑張ります」
山中くんが僅かに口を開き目を丸く見開いた。その驚いた表情がとても新鮮で。一度目を閉じ、目を開けた山中くんはとても優しい顔をしていた。その口元がぼそり、と動く。
なんて言ったのか聞こえなかったけど、たぶん「やっぱり綺麗だ」と言ったと思う。
そっと私に歩み寄る山中くん、その両腕が私の身体を優しく包む。
「どこまで成瀬の事を好きにさせるつもりなんだ」心地良い声色が鼓膜に優しく、その温もりにただ身を委ねる。
「今日の成瀬は何時にも増して綺麗だね」
ドキッと心臓が跳ねた。具体的に言及されたわけじゃないけど、きっと気づいてくれたんだと思う。
「山中くんに、綺麗だって思われたいから」恥ずかしいけど、思い切って言った。
「思っているさ」
「もっと、思われたい」
この感覚……。心臓の音が溶けて交り合って、私と山中くんの心が一つになるような。
「心臓の音が、聴こえるな」山中くんも同じ事を思ってた。
「……うん、そうだね」
「まるで、成瀬と俺の心が溶けて一つになっていくみたいだ」
「うん、温かいね」
「ああ、とても……温かい」
お互いに身を委ねながらもうしばらく、私達は心の温もりに包まれていた。
end
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