絆
一抹の寂しさと不安を抱きながらも、左京の心の内の大部分を占めていたのは心の底からの安堵だったに違いない。自らの無力さを何度呪った事か、息吹の心がもう戻ってこないのではと半ば諦めかけていたのは左京自身だったかもしれない。だが、息吹は戻って来た。成瀬詩織という一人の女性が、連れ戻してくれたのだ。奇跡のようなその出来事に左京は柄にも無く神に感謝せずにはいられなかった。
カードキーで解錠しなければ開かない裏門にはこの時間守衛はいない。裏門から出ようするのは極力その去る姿を見せない為だ。葛城の待ち伏せにこそあったものの、それ以外に出会す事はないだろう。その様に高を括っていた左京だったが。
「左京」
誰もいないと思われたそこから左京を呼ぶ声。一瞬驚いたものの、やはり。と妙に納得する自分がそこにいるのを左京は感じた。
声がした方向に顔を向ければそこには息吹の姿が。背にしている針葉樹には雪が降り積もっており、さながらそれは綿で装飾されたクリスマスツリーのようである。
「これは、息吹様。主役が会場を抜け出しこのような所に」
「出て行くのが見えてな」
「そうでしたか……。息吹様がいないと成瀬さんが心細いでしょう。早く戻られねば」
聡明な息吹はおそらくなぜ左京がここにいるのか察しているのだろう。しかし息吹からその点について問答はなく、ただ独白するように言葉を紡ぐ。
「俺はな、記憶が戻る前の俺の事もよく覚えているんだ。できれば忘れてしまいたいくらいだが」
「……はい」
「まったく、情けなく恥ずべき姿だった。善悪の区別もつかず、他人の気持ちに共感する事すらできず、挙句自らの行動に責任すら取れない有様だったのだから」
「それは、致し方ない事です」
「俺は一体どれほど周りに、左京に迷惑を掛け続けてきたのだろうな」
「迷惑などと……私は思った事もありません」
「こんな俺に愛想を尽かす事なく、側にずっといてくれたな」
「当然です。それが私の」
私の……なんだ? 与えられた責務? はたまた息吹様に抱く情愛?
どちらもそうでありどちらもそうではない。それが私の……贖罪なのだ。
呑み込んだ言葉を吐き出す前に、息吹が口を開いた。
「左京でなければとうに俺なんかは見捨てられていたに違いない。なのに、俺は只の一度も左京に感謝した事がなかった。これほどまでに尽くしてきてくれたというのに……。今更だが左京、今まで本当に」
「やめてください! そんな台詞を受け取る資格が私にあろう筈もない! それは私の罪なのです。感謝される事など何一つない。私は、私はずっとあなたに、謝りたかった!」
あまりにも珍しい左京の叫びに息吹は閉口してその姿を見つめる。俯き肩で息をする左京は固く目を閉じ、強く歯を食いしばっている。暫しの沈黙がその場を支配する中、二人を濡らす雪が強さを増した。
「左京のせいなんかじゃ、ない」
唐突なその台詞に左京は目を見開き絶句した。それは正に左京が抱き続けた罪科の念に対する応えに違いなかったのだ。わずかに開いた口がわなわなと震える。
「息吹、様……」
「そんな事はわかっていたんだ。だが、俺は感情を抑えきれなかった。そして……そして俺は十年もの間、左京にその事を謝る事ができなかった。左京!!」
息吹が突然、跪き両手を地面に着けた。頭を低く低く下げるその様は最早地面に擦り付けるほど。
「お前がどれほど苦しんできたのか、俺なんかでは想像すらできない! だがせめて、せめて謝らせてくれ! 今までずっと、苦しい思いをさせて、本当にすまなかった!!」
唖然と立ち竦んでいた左京だったが、息吹のその姿に我を取り戻すと慌てて側に駆け寄った。自らも薄っすらと積もる雪の絨毯に跪き、息吹を立ち上がらせようとする。
「あなたほどの方がその様な格好をするものではありません。どうかお立ち上がり下さい」
「いいやこのまま聞いてくれ。まだ左京に……お願いがある。左京、俺はお前に謝ってほしくなんかないんだ。罪滅ぼしのつもりで俺を見てほしくない。どうか俺を! こんな俺だが、息子のように想い、これからも側にいてくれないか!」
その言葉を聞いた瞬間、鼻の奥にツンとした仄かな痛みが走る。ほぼ同時に自らの目から溢れる熱い液体が頬を伝い落ちた。
昨日の電話を思い出す。
『烏滸がましくなんかないと思います。左京さんが山中くんを大切に想う気持ちは私が両親から貰っている愛情と変わらないと思います。左京さんにとって山中くんは社長さんの息子で、いずれ上司になる人なのかもしれないけど、その気持ちは山中くんにもきっと伝わっていると思います』
もうそこに言葉は必要なかった。
「顔を……お上げになってください」
二人の視線が噛み合い、左京本来の柔和な笑みがその顔に広がっていた。
「息吹様の願いだというのならこの左京、身命を賭してお仕えする所存です」
「まったく、堅いな左京」返す息吹の顔にも微笑が走る。
「やれやれ、息吹様にまで言われてしまうとは」釣られて笑う左京。
些細に過ぎないこんなやり取りこそ、左京が十年間待ち侘びた瞬間であった。




