けじめ
息吹様の心のこもった告白に涙する成瀬さん。目の前で繰り広げられる甘酸っぱく微笑ましい……だけどもこれまでの経緯を知ると決してそれだけではない二人のやり取りに、計らずも私の中に熱いものが込み上げる。
十年間ずっと抱えてきた罪悪感という名の鎖が解けていくかのようだった。もちろん実際にあの罪を忘れ去っていいわけではないし、私の犯した過ちが消えるわけではない。それでも今はこの幸せを噛み締めていたい。長年、ずっと見守ってきた息吹さまが、在りし日の息吹様に戻られたこの瞬間を。
依千華様、見ておいでですか? 貴女の愛する息吹様はこんなにも立派に……。
不意に廊下を走るけたたましい足音が響く。それは社長室の前を通り過ぎたかと思うと、また戻って来て間髪入れずに勢い良くドアを開け放った。
「息吹が来ているというのは本当かッ!? む? お、おぉッ!!」
慌ただしく部屋に飛び込んできた老齢の人物は山中商事の会長職を努める息吹様の祖父であった。開口一番息吹様の来着を喜んだ会長は、最愛の孫が一人の女性の肩を抱き寄せる姿に驚嘆の声を上げた。すると現状を把握しようとしてか、視線を下げ思考に没入してぶつぶつと呟く始末。ややあって何かに納得すると「そ、そういう事であったか……。となれば善は急げだ、直ぐに全社員にアナウンスし……む、左京ではないか、お前も来ていたのか。うむ、仕事の早いお前に頼もう。準備を頼む」と口早に私に命じた。
「は、かしこまりました」
会長が言わんとするところを即座に理解し私は行動に移る。いやはや……息吹様にとっても成瀬さんにとっても迷惑な話かもしれないが、会長の指示を断る権利など私にはないからな。
◇◆◇◆◇◆◇
「それではぁ! 息吹と成瀬さん、若い二人の前途を祝してぇ……かんぱーい!!」
「かんぱーい!!!!!!」
「ふふ、会長ったら。まるで結婚式の披露宴のようですね、社長」
「まったく……。成瀬さんすまないね。元来がお祭り好きな上、息吹が初めて連れてきた女性ということで舞い上がっているのだ」
秘書である葛城の的を得た指摘に呆れ顔の社長は、困惑した笑みを浮かべる成瀬さんに申し訳なさそうに侘びた。
「あ、いえ、そんな。ただ……ちょっと恥ずかしいです」
「しかも突然こんな場を設けて無理矢理留まらせてしまって。親御さんにはこちらの葛城が連絡して帰りが遅くなる事を了承頂けた。なのでどうか、耄碌した爺さんの茶目っ気と思って勘弁してやってくれないかな?」
「勘弁だなんてそんな。賑やかでとても楽しいです。それに山中くんのおじいちゃん、一番はしゃいでて可愛いです」
屈託なく笑う成瀬さんに対して、社長はその心遣いに感謝しつつ苦笑いを浮かべた。おそらく自らの父親が晒す醜態に心底恥じている、そんな心境なのだろう。
「でも、突然こんなパーティーを始めてしまって大丈夫なんですか? その、私が心配するような事じゃないけど皆さんお仕事は……?」
「ご心配には及びませんよ。当社では各部署連携を密に取って急遽の人員配置を可能としています。各部のスペシャリストであると同時に急務の事態には部署関わらず全社一丸となって事に当たることができる」
飲み物を注いで回りつつ、私は成瀬さんの疑問に応えた。
「凄い……ですね」
「ええ、山中商事は烏合の衆に非ず。そんな誉れ高き会社に貢献する事こそ私の誇りです」
「左京さんらしくて、素敵ですね」にこりと微笑んだ成瀬さんの賛辞は親子ほども年の差があるにも関わらず何故かとても心に響くのだ。葛城が呆れ顔を浮かべていたのは少々気になるが。
賑やかな喧騒が会場に響き、各々程よくお酒も回ってきたようだ。そろそろ頃合いだろう……。息吹様は成瀬さんと穏やかに話をなさっている。会長は壇上で大いに盛り上がっている。社長も酒で赤らめた顔色で部下との談笑に興じている。
私は静かに席を立ち会場の外へ出た。
悔いはない。私は最高の仲間と上司、そして息子のように想い慕ってきた息吹様の心の成長を見守り、最良の結末を見届ける事ができたのだ。山中商事社員として、また息吹様の守役として、これほどの幸せを得られようとは思ってもみなかった。
エントランスを抜け自動ドアが開くと、びゅうと冷たい風が身体を包み込む。空からちらちらと舞う雪が、日が落ちた暗がりの世界にその白さを強調していた。
「どこへ行くのかしら?」
不意に掛けられた声に足を止める。建物の壁に身体を預け立っていたのは思わず目を見張る美女であったが、その顔はよく見知ったもの。社長秘書の葛城、彼女は私と同期であり年齢も同じはずだが、贔屓目なしに実年齢より遥かに若々しく美しい。その為に社内では年齢不詳の美魔女と特に男性社員から噂の的にされており、二十代にも見える容姿にも関わらず役員と対等に話す姿に密かに恐れられていたりする。
「お前こそなんでこんな所にいる?」
「質問の答えになってないわね……まぁいいわ。当ててみせようかしら。あなた、会社を去るつもりでしょう」
「社長に聞いたのか?」
「ええ、左京が辞表を提出したって」
「何が当ててみせようか、だ。答えを知っていただけじゃないか」
「そんな事はどうでもいいのよ。あなた、本当に辞めるつもり?」
私は葛城が背中を預ける壁際に寄ると、同じように背中を預けた。吐いた息は白煙をくゆらせ、すぐ消える。
「葛城、お前は社長の心の内を知っていたのか?」
「社長はあなたの辞表を受け取る気はないそうよ」
「会話の噛み合わないやつだな。……私はな、社長を理解できていなかった事を情けなく思うよ」
「あなたほどあの難解な社長を理解して頼られている人はいないと思うけど」
私は自嘲し首を振る。
「社長が息吹様を遠ざけられたのは疎まれての事だと思っていた。人格形成手術を受けさせるのもその延長だとな。だからこそ私は社長に反旗を翻し抗議したのだ。あの辞表はその決意表明だった」
「社長はあなたの思いを汲んでそれを受け取らないと言ったんじゃなくて? その決意を頑なにする意味はないわ」
「私が私を許せないんだよ。それ以上の理由はない」
納得がいかないと言わんばかりに葛城は首を左右に振る。憐れむような優し気な眼差しを向け諭すような口調で葛城は言葉を紡ぐ。
「本当にそれが理由なの? 私にはそうは思えない。責任感の強いあなたが例え社長に許し難いほどの無礼を働いたとしても息吹様の側を離れる筈がない。本当の理由は違うんでしょう? あなたが許せないのはあの日、息吹様を」
「葛城」
彼女の言葉を私は遮る。まったく鋭い同期だ。だが、それでいい。頼もしい限りじゃないか。私が去った後には彼女が息吹様を支えてくれる事だろう。
「らしくないじゃないか。去るものは追わずがお前の信念だった筈だが?」
葛城が呆れたように、そして諦めたようにため息を吐く。そして、この会社で私と長い付き合いのある者は必ず言うのだ。
「堅物左京には敵わないわね」
「ああ、そうだとも。それが私の信念だからな」
最後、葛城に微笑を向けると左京はその場を後にした。しんしんと雪が降りしきる中、その背中を追うものはもう誰もいなかった。




