後付けの約束
深淵を漂っている感覚の中、遠くから俺を呼ぶ声が聞こえる。
成瀬だ……成瀬が俺に頑張れと、負けるなと励ましている声。求めて意識がその声へ引き寄せられ覚醒していくが、よく聞くと違うことに気が付く。その声は励ましている声ではなく、まるて悲痛な叫びのようだ。一体何があった? 今起きるから、そんな辛そうな声で呼ぶな。
薄っすらと開けた視界にまず入ったのは塵一つない灰色の絨毯。横転した視界に、俺は倒れているのだとわかる。
「山中くん!」
「息吹!」
「息吹さま!」
次いで三様に俺を呼ぶ声が降りかかり、体を起こしてそれぞれの顔を見渡す。成瀬は涙ぐみながら俺の手を取り、左京と父は安堵のため息を漏らしていた。
「俺は気を失っていたのか」
「うん……ッ……苦しそうに呻いた後、突然倒れ込んじゃって。良かった……目を覚ましてくれて、本当に」
そう言って成瀬は肩を震わせ泣きじゃくった。頬を伝った生暖かい雫が成瀬の手と重ねられた俺の手に落ちる。
「心配をかけたな」俺の言葉に成瀬は激しく首を横に振った。
「息吹、動かずにいなさい。救急車を呼んでいる」
「いや、大丈夫だ。それより」
◇◆◇
それより……山中くんがそこで言葉を切った。涙でぼやける視界の中、高い位置にある山中くんの顔を覗くと、私を見下ろす視線と目があう。山中くんの深く真っ黒だった瞳に四角いハイライトが煌めいており、決して笑っているわけではないけれど、どこか朗らかな、慈しみ深い表情は今までの山中くんにはなかったもの。ゆっくりと唇が動いた。
「母と……母さんと話をしてきた」
「え?」
「色々と思い出すことができたんだ」私の手に握られていた藤色のハンカチをそっと取る山中くん。
「母さんがこれを俺にくれた時、掛けてくれた言葉……約束がある」
左京さんと初めて会った日にこのハンカチが山中くんにとって特別なものである事、亡くなったお母さんから貰い受けた物だと言う事は聞いていた。だけど山中くんが託されたその願いは、私はもちろんおそらくお父さんや左京さんも知らない、山中くんとお母さんとの秘密の約束だったのではないだろうか。
もはや山中くんが気を失っていた間にお母さんと会ったという突飛な話を誰も疑わない。あの山中くんが自ら語る事、それだけで十分な信頼があるから。
「いつか母さんより愛する人ができたなら、その人に渡して欲しいと託された。成瀬すまない」
謝罪の言葉に内心凄くドキリとした。記憶を取り戻した山中くんにとって、私はそのハンカチに相応しい人じゃなかった? 確かに記憶を無くし感情のコントロールを失っていた山中くんにとって、私はちょっと特別な存在だったかもしれない。だけど、それらを取り戻した山中くんが変わらない想いを私に向けてくれるとは限らない。よくよく考えればそうなる可能性があった事を私は失念していた……。
「これを成瀬に渡した時、俺の中に母さんとの約束は消えてしまっていた。母さんより愛せる人ができたなら渡して欲しいという約束を俺は果たせていなかったんだ」
今までの山中くんとは違う穏やかな語り口。だけど山中くんらしい淡々と発するその言葉は私の中に冷たく広がっていく。し、仕方ないよね。振られちゃったとしても、私は山中くんからの見返りを求めて今の行動を起こしたわけじゃないもの。山中くんがお母さんの事を思い出せて、自然に微笑む山中くんになれて、その事に私はとても誇らしく思う。だから、その、大丈夫、大丈夫……。
「だが、その約束こそ今となっては後付けだな」
ぼそりと呟かれたその言葉の意味はわからなかったけれど、次に山中くんの発する言葉が怖くて、私は山中くんの顔を見つめていられなかった。きょろきょろと彷徨う視線の先、左京さんとお父さんがとても柔和な笑みを浮かべているのが印象的だった。
「成瀬」
「は、はい!」私が目線を合わせようとしないからか、山中くんが一層私に顔を近づける。切れ長な目の中、その瞳に見つめられて今度こそ視線を外す事ができない。
「君が好きだ。どうしようもなく、たまらなく、成瀬の事が好きだ」
え?
思考が止まる。悪いイメージばかりに囚われていた私の頭にその言葉はすんなり入ってこなかった。うまく働かない頭で山中くんが言った言葉を必死に咀嚼する。
なに? 山中くん、今私の事好きって言った? 本当にそう言ってくれた? それって……。
思考が纏まらないでいると、山中くんの手が私の手をそっと開かせ、その上に乗せたハンカチごと私の手を握りしめた。
「受け取ってくれないか?」
正直……………………。しばらく感情が追い付いてこなかった。
やっと山中くんの告白を理解できた時、私の中に芽生えたのは嬉しさとか安心した気持ちじゃなくて、振られてしまう、拒絶されてしまうという恐怖や絶望が弾けたもので。その波は私の緩い涙腺をあっさり突破してしまう。
「ば、ばか……山中くんのばか。謝らないでよ……ヒクッ、忘れちゃってたのは仕方ないじゃない……。それに、それに、思い出した山中くんが私の事好きじゃくたって仕方ないし。でも、そう言われちゃうのは凄く嫌だったし、怖かったし……。山中くんに、山中くんに」
「成瀬を好きじゃなくなるなんてありえない。今までもこれからも、君の事だけを見つめていたい」
支離滅裂な私の感情の全てを受け止めてくれる山中くん。受けとめてくれるほどに決壊した感情が山中くんに強くぶつかるのだけど、この堤防はとても高くて分厚いみたい。優しく、それでいて正面から包み込むように堰き止めてくれるのだ。いつも飾り立てない山中くん。それは変わらない、記憶を取り戻したって飾り立てない山中くん。だけど今の山中くんは熱くて真っ直ぐで、急に私が言えない事まで言えるようになっちゃってて。
ずるいよ。私だって、伝えたい気持ちがあるのに、とてもそれを伝えられそうにない。こんなに掻き乱されちゃったら、伝えきれない。だから、だったらせめてこれだけは。
「わ、私も……ッ、山中くんが大好きです」




