ありのままで
「どこへ行くの? こっちにいらっしゃい」
呼び止めるその声は確かに俺へと投げ掛けられたものだった。ばかな……と思いつつも俺はその呼び掛けに応え、振り向く。
母親の眼差しは、俺を捉えていた。どうなっている? 呼び止められる事を俺は無意識に望んだのか? それが夢の出来事に反映されたのか? だが、だとしてもその先に答えはない。俺には母親が何と声をかけるのかわからない。かけて欲しい言葉すらわからない。だから、母親がこれ以上俺に言葉を掛けることはあり得ない、はずなのに。
「息吹……お母さんの側へいらっしゃい」
再三促す母親の言葉。優しさに満ちたその声に、俺の足はリクライニングベッドによし掛かる母の元へ誘われる。
見上げる母の視線と見下ろす俺の視線が交錯する。夢の中だというのに、まるで喉がカラカラに乾いているようだった。
「大きくなったわね。息吹に会えてお母さん嬉しいわ。成瀬さんっていったかしら? 優しそうで可愛くて素敵な子ね。それにとても芯の強い子、あの左京を叱りつけるなんて中々できる事じゃないわ」
相槌の一つも打てない俺に、母はクスクスと笑い楽しげに言葉を連ねる。
「お母さんとの約束、守ってくれたのね。息吹にとって成瀬さんが大切な存在だってわかるわ。お母さん、息吹の事をずっと見守っていたから」
「約束を、守ったわけではない」ようやく口を突いて出たのは母の言葉を否定するもの。
「約束を守る為にハンカチを渡したんじゃない。成瀬を好きだったから渡したんじゃない。俺はただ、真似たに過ぎないんだ」
そう、あの夜の学校で成瀬にハンカチを渡した時、俺の脳裏を過ぎったのは何時かの光景だった。リレーでバトンを落として泣いている女子生徒にハンカチを手渡している男子生徒。何をしているのかわからなかったしその行動に興味もなかったが、涙ぐむ成瀬を見た時、漠然とその時の光景を思い出したのだ。たったそれだけの理由。更に言えばあの時の台詞だってその時の男子生徒のものを引用しただけ。
楽しげだった母は俺の言葉を聞くと目を丸くした。しかしすぐに嬉しそうに目を歪曲させ「わぁー! 息吹の声聞けちゃったー! 声変わりもして格好良くなっちゃって」とはしゃぐ。
母のその反応は予想外だった。少なくとも明るい言葉が返ってくるとは思っていなかった。幻滅……するとしたら俺のような息子を見た時にするのではないだろうか? 魂の抜け殻が育ったような息子を見た時に。
もはや今の不可解な現象に対する疑問はどうでもよくなっていた。いずれにせよ母親と話せるという事、その方が重要な気がしたのだ。
「ふふ、だけど今はもう成瀬さんの事が好きなんでしょう?」
「……ああ」
「うんうん」
相変わらず楽しげな様子の母。その能天気にも見える姿ゆえか、はたまた何故か安心感を覚えるその存在になのか、俺の口からは捲し立てるように言葉が溢れた。
「だが、こんな俺が成瀬に相応しいと思うか? 感情のない化物のような俺があの成瀬の側に居ていいのか? 成瀬の気持ちに寄り添いあいつを泣かせる事がなくなるのなら俺は、俺でなくなったって構わない」
「だから、あの人の言う手術を受ける事にしたのね」
「そうだ。成瀬に少しでも相応しい存在になれるのなら……ッ!」俺を見つめる母の顔に思わず息を飲む。どこまでも慈愛に満ちた眼差しを俺に向けているが、なぜこの人はこんな俺をそんな目で見れるのか?
「あなたは……俺はどうするべきだと思う? 考えを聞かせて欲しい」俺は強請った。いつもとは違う、聞くのも悪くないという気持ちではなくこの人の言葉が欲しかった。
「いいんじゃない、そのまんまの息吹で」
あっけらかんと言う母の言葉には重みを感じられず、納得できるものではなかった。
母は言葉を続ける。
「私は息吹の事を信じているから。ありのままの息吹がお母さんは大好き。確かに飾らない自分を受け入れてもらうのはとても難しい事よ。息吹だけじゃない、誰だって少なからず自分を飾り立てて、世間に溶け込んでいたい、よく見られたいって思うもの。うッ!」
「大丈夫か!」胸を抑え苦痛に顔を歪める母の背中を咄嗟に擦ろうとした。が、俺の手は母に触れる事なく、すり抜けてしまう。気休めにもなれない自分がもどかしかった。
額に汗を浮かべ、苦しげに息を整えながら母は笑った。
「ふふ、やっぱり息吹は優しいね。ごめんね、さっきの続き。ありのままの自分を見せる事ってとても勇気がいることなのよ。だって怖いもの、そんな自分を好きになってもらえないかもって。でもね、息吹はありのままの自分でいられているの。そしてもっと大事なこと……息吹のありのままを受け止めてくれる女性がもういるのよ」
「成瀬が……そうだと?」脳裏に懸命に俺を励ます成瀬の姿が過ぎる。母はゆっくりとそして大きく頷いた。
「お母さん、成瀬さんに感謝しているの。私のせいで心を閉ざしてしまった息吹を導いてくれて。あなたはもうあなたが思う自分じゃない。自分に自信を持ちなさい、あなたが選ぶ未来に希望を持ちなさい。大丈夫。あなたには素敵な女性がいる、頼れる先達がいる、不器用でもあなたを愛する父がいる、そして……天国からお母さんが見守っている」
「かあ……さん」
こんな俺がようやく母を呼ぶ事ができたその時、その身体が淡い光の膜に包まれていることに気が付いた。光に包まれる母は透き通るようにぼやけていき、ああ……この人と話せる時間はもう幾許も残されていないのだと悟った。幼き日の俺が母に抱きつき、その姿も消えゆこうとしている。その目は俺を睨めるように見上げており「母さんをこれ以上心配させたら僕は僕を許さないからな」と言った。
不思議な台詞だ。この子が俺に向けて放った言葉は未来の自分への言葉だ。もうこれ以上情けない俺でいてくれるなと、そう言うんだな。
「ああ、もう大丈夫だ。…………ここに来れて良かった」
「あっ! それからね」母さんが慌てて思い出したように切り出す。
「あの人を、お父さんを嫌わないであげて」寄り添う幼い俺が不機嫌そうに表情を歪めるのを見て、その頭を優しく撫でる母。
「私にもしもの時があったとしても、会社にあなたが必要ならそっちを優先してって私がお願いしたの。そして、正に会社の分水嶺と言える時に私の天命は尽きてしまった。あの人は自らの責務を果たし、私との約束を守っただけ。今のあなたなら、分かるわね?」
俺の中に、あの日の記憶が呼び起こされる。
そうか……そうだったのか。そこで不機嫌そうにしている幼き日の俺には理解できなかった。自らの一番大切な人が死んでしまうかもしれないのに、会社を優先した父の判断が。しかしその裏には母さんとの約束があったのだ。
今になって思えば、あの時の父の苦悩に塗れた表情は母さんのもとにすぐにでも駆けつけたい思いと、自らの責務を果たさねばならない思いの板挟みに苦しむものだったのかもしれない。
「ね、息吹。お願い」
「ああ、わかった」
俺の返事を聞くと母さんは嬉しそうに目を細め、何か口にした。その言葉はもう聞こえなくなっており、母を包む光は一層強さを増していく。
最後、目に焼き付けようと見つめた母の姿は光に包まれ優しく微笑み、まるで天女のようであった。そうだ、俺は母さんが大好きだった。優しくて、美しくて、包み込むような愛をくれる母さんが大好きだった。
やがてこの空間そのものが発光し、視界一面が白一色に染まってしまう。だけどまだきっとそこにいる母に向かって俺は最後の一言を呟いた。これだけは伝えたい、俺の想いを。
「愛している、母さん」




