セピア色の記憶
眼球を裏から潰されるような激痛に俺は思わず膝をついた。記憶の中を満たす澱を取り除こうとすれば、警告を促すかのように襲い来るこの頭痛。
思考を及ぼすことを止めればこの酷い頭痛が治まることを俺はわかっている。
今までの俺ならばそうしてきた。この痛みに伴い得るものなど何もないと思っていたから。
だが、今は違う。この耐え難い苦痛の中にいても、傍らで成瀬が必死に叫んでいるのがわかる。
頑張れ、と。負けるなと励ます声が聞こえる。
成瀬の言葉が真実かなどわかりはしない。この痛みの果てに本当に俺の望むものがあるかなどわからない。
しかしそんな事は関係ない。
俺は成瀬を信じると決めている。
たとえ脳を破壊されようと俺は成瀬の信じる道をともに行く。
「ぐうぅぅぅッ!」
今までに感じた事がないほどの痛覚が頭の中を満たした時だったーー。
瞬間的に暗転した意識。その直後、聞こえていた左京や父親、成瀬の声が一切聞こえなくなり、全くの無音の空間に俺はいた。あれ程の激痛をもたらした頭痛も鳴りを潜め、頭の中は妙に澄んでいる。
立ち上がり辺りを見渡すと、そこは今し方いた本社の一室ではなかった。全ての色が失われたセピア色の空間。長い通路の真ん中に俺はいた。
何が起きたのか理解が追い付かない。本当に脳が破壊されて死んだのでもなければ説明がつかない状況だ。
だがそれよりも……。この建物の構造、見覚えがある……。俺はこの場所に来たことがある。何時の記憶か定かではないが何故かそう感じた。
直感の赴くまま、まるで何かに引き寄せられるように歩を進めた俺は、ある部屋の前で足を止めた。
まさか、この部屋は。
胸がざわめく。今まで感じたことがないほどに。この部屋の中に俺の求めた何かがある気がして。
部屋のドアを開けようと手を伸ばしたが、俺の手は舟底引手に掛かる事はなくすり抜けてしまう。どうやら俺はこの空間において物理的な干渉はできないらしい。
しかし、目の前のドアは独りでに、ゆっくりと開け放たれた。
「母さん、もうすぐ元気になって退院できるんだよね? 動物園、楽しかったな。今度は母さんと水族館にも行きたいんだ。シャチってね凄いんだ。本当に頭が良くて、きっと狭い世界において人間と仲良くする事のメリットに気がついているんだろうね。ヒョウアザラシを見たかったんだけど、どうやら日本の水族館にはいないみたい。一筋縄じゃ飼育できないんだろうね」
ベッド脇のパイプ椅子に座って饒舌に話す子供。そして、リクライニングベッドの背凭れを起こした状態で穏やかな微笑みを湛える女の人。
ドクン──。
その女性から、俺は目を切ることができなかった。まるで吸い寄せられるように、その顔を凝視した。
穏やかに見える表情に隠された僅かに漏れでる荒い呼気。必死に隠そうとしているようだが、かなり苦しいはずだ。直ぐにでも医師を呼び身体を休めた方がいい。
しかし、隣には未だ饒舌に話す子供。愚かしいその姿に俺の中に煮え滾る何かが膨らみ大きくなるのを感じる。
何を呑気に話している? お前には目の前で苦しそうにしている姿が見えないのか? 無理をして話を聞いている事に気付かないのか?
「ねえ、息吹」ベッドに腰掛ける女性が俺の名を呼ぶ。すると「なに、母さん?」と傍らにいた子どもが答えた。俺はやはり、と思う。あれは幼き日の俺だ。そして、あの女性こそが……。
「お母さんのこと、好き?」と問うた。
「そんなの当たり前じゃないか。世界で一番好きだよ」
「ふふふ、ありがとう。でもね、いつか息吹にもお母さん以外に大好きになる女の子が現れると思うの。そしたらね」
傍らのサイドテーブルの上にきれいに畳まれ置かれていた藤色のハンカチを、母は幼い俺に差し出す。
「このハンカチをその子にあげて欲しいの。いつか息吹にとって、そうだな……お母さんより好きな人に出会ったら」
「このハンカチは?」
「昔、お父さんがお母さんにくれたものよ。お母さんの宝物。その宝物をお母さんの一番大切な宝物の息吹にあげる」
父親からの贈り物と聞いた幼き日の俺は、唇を尖らせ俄に不機嫌そうな表情を見せた。しかし母親からのお願いというのが大きく、不満気ながらそれを受け取った。
「ありがとう母さん。だけど、母さんより好きな人に出会うなんてあるはずないから、ごめんねだけど、これを誰かに渡す事はなさそうだよ」
「ふふっ、そうね。あんまり早くにそれを誰かに渡しちゃったらお母さん悲しいから、息吹が大きくなったらがいいわね」と、にこにこと笑った。
ああ、そうだ……。
思い出した。あのハンカチは、死んだ母親が、いつか俺に好きな人ができたら渡して欲しいと願った物だったのだ。何故か手放してはいけない気がして、常に手元に置いていた。
そして俺は図らずも母の望み通り、成瀬にそれを渡していた。しかし、それはたまたまに過ぎない偶然だった。
あのハンカチを成瀬に渡した時、俺は過去に目撃した光景を思い出し真似ただけ。
成瀬に好意を抱いたのも後付けであり、そもそも成瀬の事をどの程度好いているのか俺自身わかっていない。他人からすれば、俺が成瀬に寄せる想いなど取るに足らぬものかもしれない。好きと例える事すら烏滸がましいのかもしれないのだ。
どうすればわかる? 俺の感情の答えを一体誰ならば導き出せるのだ?
「息吹、こっちに、お母さんの側にいらっしゃい」
聞こえてきたその優しい響きは、俺の疑問を払拭してくれるような気がした。弾かれたように顔を上げた俺は思わず一歩病室に足を踏み入れようとして、止まった。視線の先には幼い俺が母親に抱かれ、その頭を撫でる慈愛に満ちた母の表情。
何を期待している……。愚かしい。これは俺の記憶の出来事。記憶の底に埋れていたものをすくい上げ見ているに過ぎない、云わば夢のようなもの。眠りながらも夢を夢と認識するのはごくありふれた事だ。間もなく、俺の意識も覚醒するだろう。
踏み出そうとした足を逆に一歩引き、俺は病室の母子に背を向けた。




