負けないで
私と山中くんの視線が交わる。
なぜここにいる?って訊きたそうな山中くん。でも、そんな当たり前な問いは必要ない。もちろん私からもどうして手術を受ける事にしたの?なんて問い掛けたりしない。
山中くんの思いはわかっている。それは自惚れなんかじゃなく、山中くんが大好きで、あなたを理解しようとする気持ちが導き出した確かな自信だから。
「山中くん、こっちに来て」
扉の前で動きを止めていた山中くんに笑顔を向け促した。ゆっくりと入室した山中くんはそれに応えて私の側まで歩を進める。山中くんの視線は私だけをじっと見据えて離さない。
「ねえ、山中くん」
私を見下ろす山中くんの深淵な瞳には感情の起伏は見られない。その瞳が怖いと思ってしまった時期もあったな、と不意に思い出しクスと笑けてしまう。
表情を正し問い掛ける。
「私の事、好きかな?」
殆ど表情に変化のない山中くんだけど、ほんの少しだけ綺麗なその顔に影が落ちるのを見た。
「ああ、今の俺は……少しはその感情がわかるつもりだ。だが、それならば俺の心は何故こんなにも凪いでいる? 成瀬の事を強く想うならばこの胸はなぜ高鳴らない? 俺の心は……やはり壊れているのか」
珍しく捲し立てる山中くん。今の反応を見てもわかる。やっぱり山中くんが悩んでいるのは自身の感情の変化があまりに小さいこと。
それでもそこに悩める事こそが山中くんの心の変化であり、心の成長の証だ。悲観する必要なんて一切ない。
「壊れてなんか、ないよ」
一言だけ、そう山中くんに告げる。そして私は懐に忍ばせていた藤色のハンカチをそっと取り出した。
「山中くん、コレ何かわかるよね」
視認した山中くんが小さく顎を引く。ちらりとお父さんを見やると、驚いたように目を見開きハンカチを凝視していた。
その反応に、私は少しほっとする。
お父さんにとっても、このハンカチは思い入れのある物なんだね。
「実は左京さんにこのハンカチの事を聞いているの。山中くんにとってとても、とても大切なもの」
僅かに首を傾げる山中くん。おそらく山中くんは何のことはない、ただ何となく日頃から持ち歩いていただけの感覚なのだろう。だけどそう思うという事はやっぱり大切な事を忘れてしまっている。
そして鍵となるのは間違いなく、山中くんにとって一番大切な人。
「このハンカチは山中くんの、あなたのお母さんがくれたものなんだよ」
「俺の、母親?」
「そう。山中くんがその存在を知らないなんてあり得ない、あなたが大好きだった人。だから、あなたは常にそのハンカチを持ち歩いていた」
山中くんの目が遠く思い出せないお母さんの記憶を引き出そうとして細まる。が、途端に山中くんの表情が苦しそうに歪んだ。男性にしてはほっそりとした靭やかな指で側頭部を押さえ、頭痛を堪えている。
「うっ! ぐぅぅ」
山中くんが呻く。相当酷い頭痛なのだろう、あの山中くんが膝をつき顔を歪めているのだから。
今まで見た事ないその姿に胸が締め付けられる思いだった。
「息吹!」山中くんのお父さんが狼狽と心配の声を上げる。
「息吹様!」蹲る山中くんに素早く寄り添い、その背中を擦る左京さん。
しかし私は――。
「山中くん、頑張って! あなたならきっと大丈夫、負けないで!」
苦しむ山中くんの背中を押した。こんなにも苦しんでいる山中くんの背中を押した。
とても辛いに違いない。あなたがそんな表情を浮かべるのだから。それでも頑張って欲しい、思い出して欲しい。あなたにとって大切な過去を。大切な人を。大切な人との記憶を!
山中くんが苦しむその時間は私にとっても、とても、とても長く感じられた。




