決意の談判
山中商事本社、高層階の一室。
重厚感ある木目調のエグゼクティブデスクは綺麗に整頓され、全面クリアガラスの大窓からは澄み切った冬の晴天も、喧騒な東京の町並みも一望することができる。
そんな風景を眺め、手を後ろに組み高級なスーツを着こなす初老の男、山中商事の代表取締役社長、山中 開道は柄にもなく緊張していた。
海千山千のこの男にとって一人の来客にこれほど神経を使うなど久方振りである。しかもそれが実の息子というのだから滑稽な話だ。だが、この親子の関係性からいえばそれも無理からぬ事と言える。
開道は思った。
息吹とまともに言葉を交わすなどいつ以来だろうか? 少なくとも息吹を広島へ送るより以前。亡き妻が病床にて危篤だと、会議の場に息吹が血相を変えて訴えに来た時以来か。
そこまで考えて開道は自嘲して鼻を鳴らした。
あの会話を息子とまともに言葉を交した最後などと認める辺り、自分の父親としての感覚は十分に狂っている。見舞いに来て母さんを励ましてという必死の訴えを突っぱねたあの会話を。
息吹と直接言葉を交したのはあれ以来、だが心はそれより以前から通ってなどいなかった。
そんな思考を切り裂くように、デスクに設置された電話が鳴った。内線を知らせるこのコール音は、先に人払いしておいた秘書が息吹の到着を知らせる為のものだろう。
開道は受話器を耳に当てた。
「私だ」
『社長、招かれざる客が参りました』
受話器を通して聞こえてきた声は常に冷静沈着な秘書のもの。神経質そうに眼鏡を持ち上げる癖が目に浮かぶ。
「招かれざる客?」開道は眉を顰めた。
『はい、止める間もなく向かわれてしまったので、直ぐにそちらに到着されるかと』
「わかった」
今日このタイミングで予定にない者の来訪? 開道はまさか、と思ったがチラと時計を見やり物理的にあり得ないと小さく首を振った。
程なくして無遠慮に扉をノックする音が室内に響く。
「入りたまえ」
「失礼致します」
扉を開けて現れた人物を見て開道の目が僅かに見開かれた。あり得ないと思った人物がそこに現れたからだ。
しかし頭のどこかであいつならばと思っていた為か動揺も僅か、開道は落ち着いた動作でアーロンチェアを引くと深く腰掛ける。
開道としてはもう一人の息吹と同年代と思しき制服姿の女子学生が気にかかる所ではあったが。
「左京か……。驚いたぞ、昨晩は広島にいるお前に電話をかけたつもりだったが、はて。いつの間にこちらに来ていた?」
「ええ、八時間程かけて今し方こちらに参りました。その理由はお察しとは思いますが」
塵一つないグレーの絨毯を真っ直ぐに突き進む左京。その足取りからは憤りが滲み出ているのが見て取れる。軽くとぼけてみせた開道などお構いなしだ。
デスクを介して交わる視線。
左京はおもむろに懐から真っ白な封筒を取り出した。デスクに置かれたそれには「辞表」の文字。一瞥した開道の視線が再び持ち上がり左京を見据えた。
「どういうつもりだ?」
「私の山中商事社員としての意見は昨晩申し上げた通りです。本日は部下としてではなく、息吹様を一番間近で見守ってきた者として抗議しに参りました」
断固たる決意が左京の双眸に煌々と燃えているのを見た開道は、深くため息を吐いた。手強い男が来たものだと言わんばかりに。そして左京と真っ向から立ち向かうべく開道も覚悟を決める。
「……聞こう」
「息吹様を、貴方の息子を信じてください」
力強く切り出した左京。
「人格形成手術などせずとも息吹様は心を育み感情を発露し立派に成長されているのです。それをどうしてそんな手術に頼らなければならないのですか?」
開道は真っ直ぐ左京を見据え口を閉ざしている。左京は更に言葉を連ねた。
「息吹様からずっと目を逸らし続けてきた貴方がなぜそのような独断を下すのか。なぜずっと見守ってきた私の言葉を聞こうともしないのか。なぜ息吹様に真摯に向き合わないのか! 会社の今後も医学の発展も息吹様が自ら切り開こうとする未来に比べれば瑣末事に過ぎません! 貴方はそれを奪おうとしているのです!」
「会社の今後? 医学の発展の為だと?」
威圧感ある低音な声が場の空気を震わせる。
「左京、お前は勘違いしている。私がそんなものの為に人格形成手術に踏み切ったと思っているのか? 断じて違う! あの子から全てを奪った私はあの子の人生を取り戻してやらねばならぬのだ! お前の言う希望的観測で息吹の今後を潰す事になっても、本望だと言うのか? あの事故以来一切の感情を失い、未だに原因も判明しない状況で僅かな希望に縋る事が本当に息吹の為になるか?」
「一切の感情を失いですって? だから貴方は分かっていないと言うのだ!!」
激昂した左京の怒声にさしもの開道も口を噤んだ。
息吹を侮辱されること。左京にとってそれは何よりも許せないことなのだ。
「何度も申し上げています。息吹様は感情を失ってなどいません! これ以上息吹様を愚弄することは実の親といえど断じて許せません!」
気迫の籠った左京の言葉に暫し閉口していた開道であったが、ゆっくりと口を開いた。
「わかった、先の言葉は詫びよう。息吹の感情が失われたなどと二度と言わん。だがな左京、お前も息吹をわかったつもりでいるだけではないのか?」
開道の左京を見据える双眸がギラリと光る。
「どういう意味です?」
「お前は今、人格形成手術には私の独断で踏み切ったと言ったな? 私が息吹に手術の話を隠していると、そう思っているのだろう? それがそもそもの間違いなのだ。私は息吹に手術の概要を説明しているよ」
左京の目が僅かに見開かれる。その狼狽を察した開道が言葉を連ねる。
「無論私は手術を受ける事を強要していない。私は手術のメリットを伝えたに過ぎず、受ける決断を下したのは息吹自身。お前の言う息吹の感情が決めたのだ。長年息吹を見守ってくれたお前の気持ちはわかる。だがな、息吹が望んでいるのだとしたらそれはお前にとっても本望なのではないか?」
最後の方は諭すような口調に変わっていた。
左京は何も言い返せない。が、本望なはずがない、だが息吹の事を真に理解しているとは言い切れないことが左京から反論する術を奪っている。
開道は更に態度を軟化させ、提出された辞表の紙を手に取った。
「左京、私とお前の息吹を想う気持ちは過程は違くとも終着点は同じと信じている。この様な真似は不要だ。お前にはこれからも息吹と共にこの山中商事を支えて欲しいと切に願っている」




