おや心
『もしもし?』
コール音から程なくして電話の先から可憐な声が聞こえてくる。耳に心地良いその声色に、胸の中を覆った靄が洗われるようだ。
「こんばんは、成瀬さん。夜分遅くに申し訳ございません。突然ではありますが少しお時間大丈夫ですか?」
『あ、はい。あの、どうしたん……ですか?』
こんな時間に私からの突然の電話だ。不安げに身構える様子が電話越しにも伝わり、安心して頂けるように計らう。
「いえいえ、別段何かあったわけではありませんので、そう心配なさらないでください。……成瀬さん、先日は私どもの不手際で怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。その後、体調等に変化はありませんか?」
『あ、はい。大丈夫です。あの、その件については左京さんたちのせいじゃないので、もう謝らないでください。私はもう大丈夫ですから』
「そう仰っていただけると私の心も救われる思いです。ところで、成瀬さんに是非お聞きしたいのですが、最近息吹様の様子に何か変化はありませんか?」
『えっ? や、山中くんの様子が、な、何ですか?』
はて? 明らかに動揺する成瀬さんに違和感を覚えつつ、もう一度やんわり問いかけてみる。
「成瀬さんのおかげで最近の息吹様は随分多感になられたように思います。成瀬さんの前では私どもの知らない一面を覗かせることもあるのでしょうね」
『い、いえ、私の前だからってそんな、特別変な事なんて、何も』
「変な事?」
『えっ!? あ、いや何言ってんだろ私……えと、山中くんは、あの、いい意味で、変わってきているなって、そう思います……』
これは……私は本当に無粋な真似をしてしまったようだ。この様子だとお二人は既に恋人同士の仲であり、私などが立ち入ってはいけなかった。しかし、まさかあの息吹様が、なんと喜ばしい事だろう。
社長とのやり取りで抱いた不安も杞憂に過ぎないと改めて確信することができた。……それにしても、成瀬さんのなんと純真で可愛らしいことだろうか。彼女は嘘や隠し事ができない、人として素晴らしい資質をごく自然体で有している。それ故に悪い大人に騙されないかという心配は過るが、きっと息吹様もそんな成瀬さんの心の美しさに大きく惹かれたのだろう。
「ふふ……」
微笑ましさに思わず笑いがこぼれてしまった。全く、失礼な話だ。
『あの、左京さん?』
「ああ、いえ。そうですか、成瀬さんから見ても息吹様は良い方向に変わっていると感じますか。長年息吹様をお近くで見守ってきた私としましては、最近の息吹様の変化は嬉しくて。子どものいない私に分かるはずないのですが、子を見守る親とはこんな気持ちなのかと。いや、烏滸がましい話です」
私如きが息吹様に対して抱いていい感情ではない。ましてや相手は次期社長となられる御方なのだから。
自重せねばと気を引き締め直す。すると。
『あの、左京さん。烏滸がましくなんか、ないと思いますよ』
成瀬さんは遠慮がちにそう言うと、続けて。
『左京さんが山中くんを大切に想う気持ちは私が両親から貰っている愛情と変わらないと思います。左京さんにとって山中くんは社長さんの息子で、いずれ上司になる人なのかもしれないけど、その気持ちは山中くんにもきっと伝わっていると思います』
と、言ってくれた。
真心のこもった成瀬さんの言葉は本当に心を穏やかに、温かな気持ちにさせてくれる。
あの時、息吹様のお側にいながら救う事ができなかった私の罪は未来永劫許されるものではない。息吹様が私に対して最後に示した感情。騙していたんだと憎悪を向けたあの感情のまま、息吹様の私に対する思いは固まってしまっていると思っていた。
しかし……成瀬さんの言葉を信じてみてもいいだろうか? もう一度、息吹様が私に笑顔を向けてくれる日が来ると信じても。
私の半分も生きていないというのに成瀬さんもまた、凄い方だ。
「私には勿体ないお言葉です。……これもまた私が言う事ではありませんが、これからもどうか息吹様と素敵な時間を育んでいってください」
『え、素敵な時間? ええと、はい……そうですね。そ、それにしても山中くんの立場ってやっぱり大変そうですよね。まだ学生なのにとても忙しそうで』
「忙しそう?」
やや気に掛かる言葉だった。成瀬さんの口ぶり的に学業がというニュアンスではなさそうだ。
『はい。会社の都合でドイツに行くって言ってましたよ?』
私が絶句したのは言うまでもない。




