壊したくない今
藤色のハンカチを丁寧に折り畳み、私はそのハンカチの匂いをすんと嗅いでみた。
昨夜山中くんに借りた時に香っていたラベンダーの匂いは柔軟剤のやや刺激の強い匂いに変わってしまい、残念に思う気持ちが胸を掠める。
それでも涙で汚したハンカチをそのまま返すわけにはいかない。小さくため息を吐き、セーラー服の内ポケットにそのお洒落で気品漂う刺繍入りのハンカチを忍ばせる。
泣き腫らした目元は今朝になっても腫れぼったさを残したままだが、これについてはもうどうしようもない。
お化粧が上手な子なら隠せるのかもしれないが、私には到底無理に思える。
そもそも化粧道具といったってベビーパウダーと色付きのリップくらいしか持っていないし、そんな紛い物の化粧道具でさえ施して行くには緊張する。色付きのリップは未だ未開封のまま机の引き出しで眠っている。
今日は極力他人と顔を合わせるのはやめよう。仲の良い友達ならどうとでも言い訳できる。
家を出るとそこに広がる風景は昨夜とはだいぶ変わったものになっていた。いつもは茶色い土が延々と広がる畑も、降り積もった雪で銀世界になっており、アスファルトにも薄っすら雪のカーペットが敷かれているようだった。
人通りの少ない田舎の朝なので、踏み荒らされていない白銀のカーペットがとても綺麗だ。
だけど、山中くんは降りしきる雪の中をわざわざこんな遠くから自宅まで帰ったことになる。山中くんが帰るとき雪がちらちらと舞ってきていたのは見たし、強さを増したのであろう雪の中を帰らせてしまったのかと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「山中くん……風邪引いてないといいけど」
普段よりやや通学に時間が掛かってしまったが、ホームルームの一五分前には学校に到着した。昨夜は遅くまで居た為か、教室のその場所に山中くんと二人だけでいた余韻のようなものが残っている気がした。
「あ、詩織おはよー! あれ? どうしたの、その目?」
明るい元気の良い挨拶をしてくれたのは仲の良い友達の一人である栗原里奈だった。
緩くふんわり巻かれた茶色がかった黒髪と、くりくりとした大きな瞳が印象的な可愛い女の子。髪の色は地毛で、よく先生には染めるなと叱られているが、その度に説明を余儀なくされている。
「おはよう。ああ……ゆうべ映画観てたら凄い泣けちゃって。目立つ、よね?」
「うーん、相当泣いたよね、それ。まあ、そんなに気にしなくて大丈夫だよ! ちなみに何の映画観たの?」
一瞬で目の事に気付いておいて大丈夫と言われても説得力がないけど……。と思いつつ、私は嘘の答えを頭の中に思い浮かべた。
「んー、ライオンの赤ちゃんが独り立ちするドキュメンタリーみたいなやつ」
「何それ? 変なの。面白そうだったら観ようと思ったのに」
「期待に添えなくてごめんね」
けらけらと笑う里奈。この子は表裏のない性格で、いつも明るい里奈との会話は私にとってほっとする大切な時間でとても落ち着く。
ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴り響く中、廊下からパタパタと上履き特有のゴム音を鳴らしながら駆け込んでくる足音が二つ。
「はぁ、はぁ間に合った。ギリギリセーフ」
「全く、はぁはぁ、待ち合わせ時間くらい守ってくれよ。皆勤賞が、はあ、はあ、終わる……」
息を切らせて飛び込んできたのは明日香と片桐くんだった。チクリ、と胸が傷んだがいつもと変わらない笑顔を浮かべるよう努める。
「詩織ぃ、里奈ぁ、おっはよー!」
「おはよう。遅刻ぎりぎりだよ?」
「えへへっ、昨夜は勉強のし過ぎで寝るのが遅くなり」
「はいはい、ただの寝坊でしょ」
「ちょっと、何よー? 里奈ぁー」
笑いがこみ上げる。
明日香と里奈。私にとってかけがえのない友達。彼女たちと過ごす時間は私にとってあまりにも大切で、幸せな時間だ。だからこそ私は、私の想いを心の奥に押し込んで、それがどんなに苦しくても、今を壊したくなかった。
ちらっと片桐くんを見やると走って来たからだろう。短めの爽やかなスポーツマンを思わせる髪型の下、額に汗がきらきらと光っている。
無邪気な笑顔を浮かべ、仲の良い友人とお喋りに興じるその姿に一瞬胸が高鳴るが、すぐに視線を外しときめきを最小限に押し留めた。
教室の扉がガラガラとけたたましい音を立てて開き、先生が入ってくる。静粛を求める先生の一喝に教室から談笑が消え、私はちらっと視線を動かす。
教室の中に空席はちらほらあるが、視線の先、山中くんはまだ来ていなかった。