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『心の温もり』~約束の藤色のハンカチ~  作者: 風花 香


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人格形成手術

挿絵(By みてみん)





「人格形成手術ですって……?」


 その言葉の悍ましさに毛虫が這うような悪寒が私を襲った。

 人格形成手術とはパーソナリティ障害に悩み苦しむ人々を助ける為に施される脳外科手術だと聞いたことがある。

 人格形成手術と聞いて真っ先に思い浮かんだのが、あの悪名高きロボトミー手術だ。もちろん既に手術による副作用は周知の事実である為、現在では執行されない手術ではあるのだが。


『そう驚くな。人格形成手術というと聞こえは悪いが、何もロボトミー手術のような非人道的手術を行うと言ったわけではないぞ?』


 私の考えを見透かしたように機先を制する社長。


「はい。もちろん、それは理解しておりますが」

『まだまだ医学界でも希少な分野ではあるが、ドイツでは感情を喪失した患者に対して執行した事例が少なからずある。良好な結果も報告されているし当然副作用もなしだ』

「お言葉ですが、息吹様は感情を失ってなどいません」


 きっぱりと告げた。社長といえど、息吹様の実父であろうとその言葉だけは真っ向から否定させていただく。


『…………そうだな。しかし、息吹の症状の原因は究明されていない。間違いなく息吹の症状は稀有なものだ。医学の発展の為にも、息吹の今後の為にも悪い話ではない』


 医学の発展の為……? 二の次のように息吹様の為だと? 相手が相手とはいえ胸の奥から抑えようのない怒りが込み上げる。なんとかその怒りが喉元を通るまでには最低限沈静化するが、抑えきれない部分が声を震わせた。


「社長、どうかお考え直し下さい。息吹様は徐々にではありますが感情を発露される場面が多々見受けられます。長年間近で見守って参りましたので、その変化は確かでございます」

『左京、お前は息吹をどの程度の土俵に上げて話をしている?』

「は?」

『嬉しい、楽しい、悲しい。その程度の猿でも抱く低次元のレベルでは困るのだ。息吹にはいずれ会社を背負って貰わねばならない。あの子は天才だ。私の跡を継いで山中商事を今以上の繁栄に導いてくれると確信している。だが、社会の荒波を生き抜く為には臨機応変に変化できる人間でなければならない』

「それは承知しております」

『人格形成手術では、それらを高水準高次元でこなせる人格を形成できるのだ。一流経営者の脳と同じ考え方ができるような人格にな』

「ですが、それは息吹様という一人の人間を踏み躙る事と同義と捉えます! 臨機応変を求めるならば私たち社員が一丸となって息吹様を支えればよろしいのではないですか!? 山中商事は烏合の衆にあらず、全社一丸となってそれができる誉れ高き会社だと自負しております!」


 社長に対してここまでの無礼を働いたのは初めてであるが、私は決して一時の感情で意見申し上げているのではない。社長がしようとしていることは社長の為にも会社の為にも、そしてもちろん息吹様の為にもならないと確信しているのだ。


 電話の先の無言から大きなため息が漏れ出した。諦めや呆れ、態度の軟化が多分に含まれているのを感じる。


『やれやれ、堅物左京は相変わらずか。山室も苦労しているのだろうな』

「お言葉ですが、苦労しているのは私です」

『はっはっは。そうだな、あの適当人間の手綱はすぐに抜けるからな。わかった、息吹の件はもう一度検討しよう。遅くにすまなかったな』

「いえ、私こそ不遜な物言い、お詫びの言葉もございません」

『よい。お前の息吹を思えばこその気持ちはわかっている。ではな』

「はい。おやすみなさいませ」


 ブツッと無機質な音が鳴り、通話の切れた携帯をテーブルの上に置く。緊張を解いて胸の奥から大きく息を吐き出し、社長とのやり取りを今一度思い返す。

 人格形成手術などというあまりに突飛な内容に私も些か冷静さを欠いてしまったが、最終的には社長が思い止まってくださった事には心底安堵した。

 そう、息吹様は今まさに心を育まれている最中なのだ。あの事故以来、一切の感情を表に出す事がなかった息吹様が変わりつつある。成瀬様の存在が息吹様に大きな影響を与えて下さり、このまま良好な関係を築いていってくれれば自ずと最良の帰結を迎えるはずだ。


「無粋ではあるが、成瀬さんに最近の息吹様の様子を伺ってみるか」

 

 息吹様を今一番よく知る人物からの言葉を聞いて安心したい気持ちが芽生え、置いた携帯に再び手を伸ばした。

 明日は土曜日。不謹慎な時間帯ではあるが成瀬さんにはお許し頂けるだろうか。窓から見える暗い空を眺め、こんな夜更けに不躾に申し訳ないな。と思いつつ、硬質なそれを耳にあてがった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 明るい東京の空を高層階の一室から静かに眺める初老の男は、誰もいない空間で一人呟いた。


「許せ、左京。息吹から全てを奪ってしまった私は、せめて息吹に何か一つでも取り戻してやりたいのだ。こうすることが先の長い息吹の為なのだ」


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