あなただからいいの
「成瀬」
山中くんは私の手を掴むとそのまま自らの方へと引き寄せた。
え? と思った時には私の手が山中くんの胸に触れていて、ドキッとして反射的にその薄くて硬い胸板から手を離そうとしたが、山中くんは更に強く押し付ける。
「わかるか?」
この時、山中くんの変わらない表情が心なしか嬉しそうに見えた。今しがた私が触れさせたように胸の高鳴りを聞かせようとしているのだとわかり、私は目を閉じて意識を集中する。
とく、とく、とく、とく……と、決してそこまで慌しくなっていないリズムだったが、私は山中くんが感じることができたということが嬉しかった。
「うん……感じるよ。山中くんの心」
「ああ」
山中くんの両手が私の肩を掴んだ。
男性に、しかも好きな人にそんな事をされたものだから、ドキリとしないわけがない。
「成瀬、もっと。もっと感じさせてくれ」
山中くんの言葉にいちいち私の心臓は反応してしまう。感じさせてくれという台詞の明確な意思はわからないが、その深い瞳を見つめていると心が吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
「成瀬をもっと感じたいんだ」
そんな表情でそんな意味深な言い方されたら、免疫のない私なんてすぐにドキドキしちゃうよ。でも、山中くんに言葉以外の他意はないはず。
そっと優しく、山中くんのほっそりとした大きな体が私を抱きしめた。
シャツの胸元に私の頬が触れると、ふわりと香るとても良い匂いがする。
だけど、おかしい――。
山中くんに抱きしめられて嬉しいはずなのに、自分の体が震えている。心なしか息も苦しくなり、冷たい汗が噴き出してくる。
山中くんの胸元が遠ざかった。
「怖いのか?」
「……違うの。私、男の人と触れ合うのなんて初めてだし、凄く緊張しちゃって」
「本当にそれだけか?」
確認する山中くんの問いに、心の内を見透かされたような気がして驚いた。
山中くんは続けて。
「先日の恐怖が、まだ成瀬の中に棲み着いているんじゃないか?」
と、核心を突く。
心臓が大きく波打ったが、それは甘い感情からくるそれではない。
暗い工場跡地で目の前に仁王立ちする男の幻影が頭の中にちらつく。にやりと笑ったその顔が私の心を締め付ける。
だけど。
「そんなこと、ない」
私はその恐怖を振り払いたかった。だって、今抱きしめてくれているのは山中くんであって、それ以外の誰でもない。
私の中に、私と山中くんの中にそんな感情入れさせたくない!
「でも震えている」
「山中くんだから、大丈夫」
目の前の胸に顔をうずめる。
山中くんが先程より更に優しく抱きしめてくれたが、震えは止まらない。
……止まってよ。
山中くんは悪くないのに、私の体が震えることで要らぬ心配をかけてしまうのが嫌だった。
体に止まれと念じながら私は山中くんの腰に両腕を回した。
「ねえ、もっと、もっときつく抱きしめて」
「いいのか?」
「うん」
山中くんが少し腰を落として前屈みになると、その硬い胸板が私の胸骨を圧迫した。
思わず口から呻くような呼気が漏れ出してしまうと、山中くんは両腕に込めていた力を抜いた。
「離さないで」
そのままがよかった。きつく抱きしめられて心地良い苦しさを感じていると、その方が震えが止まるような気がするから。
「もっときつく抱きしめて」
「ああ」
さっきよりも強く抱きしめてくれる山中くん。不可抗力で吐息を吐いてしまったが、今度は力を緩めることなく抱きしめ続けてくれた。
止まって、止まって……。お願いだから止まってよ!
制御の効かない感情と体に苛立ちを覚え、唇を噛み目をぎゅっと瞑った。
不意に頭にぽんぽんと優しくあやすような感触。
次いで。
「無理を、しなくていい」
という山中くんの言葉。
なんてことない一言。だけど、山中くんの純粋で優しい心が紡いでくれたその一言。
そうだ――。そうだよね。今私を抱きしめてくれている山中くんをただ感じればいい。
無意識に感じる恐怖なんて、今ある山中くんを感じて上塗りすればいい。
山中くんの穏やかな心音を全身で感じていると、私の心臓がシンクロしていくような気がする。
暖かくて温かくて、とても心地良い。
「ねえ、山中くん」
「なんだ?」
「心臓の音が、聴こえるね」
「ああ、そうだな」
「まるで、私と山中くんの心が、溶けて交わってるみたいだね」
「ああ、そうだな」
「もう暫く、このままでいさせて」
無言で私を抱きしめ続けてくれる山中くん。
身体の震えはもう止まっていた。




