あの日の問いに
あの日からというもの、私と山中くんの関係は少なからず変わった。
『ミュウも喜ぶだろう。またいつでも来てくれ』
山中くんがあの日そう計らってくれて、私は今日もミュウの側にいる。ミュウはティッシュ箱にビー玉を入れたおもちゃが好きで、中で動くビー玉を不器用な前足でコロコロと夢中で転がしている。その姿がとても可愛くて、私は時間も忘れてミュウとずっと遊んでいた。
山中くんはといえば私から話しかけた時に応じてくれるくらいで、大抵は静かに本を読んでいる事が多い。
それでも今の山中くんからは私を避ける雰囲気は感じられず、私にとってこの三人でいられる空間はとても居心地が良かった。
窓から見える景色が夕闇に染まり、遥か下に見える町並みにぽつぽつと街灯が点いた頃、私はいつものようにそろそろ帰ろうかと時計をちらと見る。
その時。
パタン――。
と、本の閉じる小気味良い音に次いで。
「成瀬」
珍しく山中くんが私を呼んだ。
「なに?」
アーロンチェアに腰掛け私を見据える山中くん。
「聞いてくれるかな?」
山中くんにしてはらしくない、改まった切り出し方。普段とは違う雰囲気に少し緊張してしまう。
「うん」
やや沈黙を挟み山中くんは語りだす。
「前に聞いたことがあったな。好きになるとはどういう感じなのかと」
それは初めて山中くんと話したあの夜の教室での会話。
胸が自然と高鳴るのがわかった。
「うん」
「胸が暖かくなる。そしてたまに苦しくもなると、成瀬は教えてくれたな」
「私の個人的な意見だけど、うん」
山中くんは手を胸に当て、視線を僅かに下に逸した。
「成瀬の俺に向けられた笑顔を見た時。そして、ミュウと遊ぶ穏やかな顔を見ている時、瞬間的ではあるが、やはり熱を帯びるんだ。そして何より」
再び私に向けられるその涼し気で奥深い視線に、徐々に心拍数を上げていた心臓が急速にピッチを上げた。
山中くんの胸に当てられていた手が、今度は側頭部の辺りを触れる。
「成瀬の悲しむ表情や涙を見た時、ここが疼くんだ。これが一体何なのか、俺にはやはりわからない。ただ一つわかったことがある」
私は山中くんの目を見つめたまま小さくあごを引いた。
「この二つの変化は相反するものだということ。前者はずっと見ていたいと思えるもの。後者は見たくないと思うもの。この二つは成瀬の言う好きと類似しているようにも思う。だが、前に成瀬はこれは好きとは違うんじゃないかとそう言ったな」
「山中くん」
私は山中くんを遮った。口を閉ざす山中くん。
私はアーロンチェアに座る山中くんの正面に立ち、そしてしゃがみこむ。
私の喉がごくりと鳴った。両手で山中くんの右手を包み込むように握る。
しなやかで長い綺麗な指。ひんやりと冷たく固いその手を、私は自分の高鳴る胸に押し当てた。
「ドキドキしてるの、わかる?」
山中くんの双眸が一瞬私の顔を捉え、逸らされたその目は私の胸の辺りを見つめる。
「ああ、全力で走った後のように心拍数が上がっているな。それに、顔も赤くなっている」
「顔は……いいの。だけど私は全力疾走なんてしてないよ。なんでこんなにドキドキしてるかわかる?」
この問いに山中くんは首を傾げた。
「これはね、山中くんがさせてるんだよ」
山中くんの瞳が再び私の顔を捉えた。
「私の中でどんどん大きな存在になっていく山中くんを想うと自然に胸が高鳴るの。そしてこれは」
山中くんの目をしっかりと見つめる。
「私の中で、好きがもう始まっている証なんだ」
私の初めての告白。付き合ってくださいとか、そういう事ではないけれど、生まれて初めて男の人に好きだと伝えた。
だけどまだ、私が本当に山中くんに伝えたいことはまだある。
「それから、前に山中くんの問いに対して私は好きとは違うと言ったわ。ごめんなさい、あの時は言えなかった私が思う本当の答えを今言わせて」
胸にゆっくりと酸素を送り込む。正直とても恥ずかしい、他の誰かが聞けばきっと自惚れだと嘲笑うだろう。
だけどきっと山中くんの心も、山中くん自身も求めている答えだと、そう信じて。
「山中くんのそれは好きの始まり。山中くんの、私への恋の始まりかもしれないね」
山中くんのいつだって涼し気な目が、僅かに見開いた。と、思ったが直ぐにその目は閉じられてしまい、私の気のせいだったのかな? と思う。
スッと開いた目はやはりいつもと変わっていない。
「そうか」
だけど、口癖を呟くその口元が僅かに綻んでいた。
ほんの僅かだけれど間違いなく、それは初めて見る山中くんの笑顔だった。




