名前
誰かいる!?
物音に驚いた私はキッチンを見据えたまま後ずさった。鼓動が一気に速くなり、体中の毛穴から汗が吹き出す。
意識をそちらに集中していた私は背後の何かにぶつかり顔を上げた。ドアを開けた事にも気が付かなかったが、そこには私を受け止める山中くんの不思議そうに首を傾げた顔があった。
「どうした?」
「山中くん、キッチンの方から物音が……って、え? ちょっ!」
キッチンを指差したのも束の間、視界に映った山中くんの腕に抱えられている物を見て顔が一気に熱くなる。
洗濯していてくれた制服、それはいい。だけどその上に無造作に乗せられているのはブラジャーとショーツだった。山中くんの腕から慌ててふんだくり、両腕で抱え込む。
「乾いたから持ってきたんだが」
「あ、ありがとう……でもね! 山中くん! 持ってくるなら一言言って! そしたら自分で取りに行くから」
「そうか、それで何かあったのか」
山中くんの問いかけにハッとした私は振り返りキッチンを見た。
え?
フローリングの上をとことこと歩く白い猫がそこにはいた。呆気にとられる私の横を通り、山中くんの足に自らの体を擦り付ける猫。
「この子は……」
「前に成瀬に話した猫だ」
「だ、だって山中くん、この子のこと……その」
殺すという単語は喉につかえて出てこなかったが、山中くんは理解してくれたようだった。
「成瀬に言われて俺なりに考えたんだ。どっちでもいい、だけどどっちの方がいいのか、と」
しゃがんだ山中くんはすり寄る猫の頭を撫でる。それだけで、私の中に温かな気持ちがじんわりと広がるのがわかった。
「どうせならよく調べてもらうのも悪くないとそう思ったんだ。だから、東京に有名な動物病院があると知ってそこへ向かった」
淡々と言葉を連ねる山中くん。私の中で山中くんの不可解な行動が一つに繋がった。急に姿を消したその理由、それは。
「検査の結果、こいつはFIPではなかったよ。風邪の一種だったようで、もう心配ないそうだ」
この子を助けるために、山中くんは自らそうする行動を選んだんだ。
今日だけで何度目か分からない、緩んだ涙腺はあっさりと涙を滲ませた。私は山中くんに甘える白くふわふわな毛並みをしたその子を撫でる。
「良かった。本当に、良かったね」
「成瀬のおかげだ」
予期せぬ一言に私は少し狼狽えた。私のおかげ? 何もしていないのに、どうして?
「あの時成瀬が諭してくれなければ、俺はこいつと向き合うことをせず間違いなく死なせていた」
「それは違うわ。その子を助けたのは山中くんだよ。私は独りよがりな意見をぶつけただけだわ。……ねえ、山中くん」
「なんだ?」
「この子の名前、何ていうの?」
「名前……」
山中くんはごろごろと喉を鳴らすその子を見つめた。相変わらず表情の伴わない瞳ではあるけれど、じぃっと見つめている。
「名前は決めてないな」
予想していたその答え。
「じゃあさ。お願いがあるの」
艶のある毛並みにその奥に見える綺麗な薄桃色の肌。しなやかで長い尻尾まで、あの子にそっくりだ。
「この子の名前、ミュウってつけちゃだめかな?」
視界が涙でぼやける。あの日、最後の瞬間私を見つめていたミュウが目の前にいる錯覚を起こしていた。
「ミュウ……」
山中くんは口の中で呟き。
「ああ、いい名前だ」
と、言った。それは心から思って言ってくれたのか、はたまた模範解答を知っていただけなのかはわからない。だけどそれでも、私の大好きなその名前を褒めてくれたのが嬉しかった。
「ありがとう。ミュウ、おいで」
警戒心が強いはずなのに、ミュウは私の方に近づくとピンク色の鼻を差し出した手にちょんちょんと接してくる。そおっと抱き上げるとミュウは居心地が良さそうに、腕の中で落ち着いてくれた。
まるであの日あの時、こうして欲しかったんだからね。とミュウが言っているようだった。
そして、私に過去を清算する事を許してくれるかのように。
私はしばらくの間、ミュウを抱き続けていた。




