見守る心
「この辺りで大丈夫ですか?」
「はい。私の家は見えているあそこなので」
日が短い為、まだ五時前にも関わらず辺りはすっかり暗闇に包まれている。この付近は街灯も少ないので尚更だ。
「それじゃあ、左京さん。今日は突然の電話にも関わらず、本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
「ケーキもごちそうさまでした。失礼します」
彼女の姿が家の中に消えていくのを見届け、私は携帯電話を取り出し電話を掛けた。
『もしもし、どうかしたか?』
繋がった先からとぼけた質問が投げかけられ、思わず口元が歪む。
「どうかしたか? じゃないだろう。私に一報もなく勝手なことを」
『はははっ! てことは早速電話があったんだな?』
愉快そうに笑う電話の主が憎らしい。
「ああ、会って話をさせてもらったよ。お前がわざわざ私の連絡先を教えるくらいだから、何か感じるものがあったんだろう?」
『感じるも何も息吹坊っちゃんがこっちに来てからこの方、訪ねてくる人なんて皆無だった。そんな所へ同い年くらいの女の子がやって来たら、それは気になるさ。まあ、良い子だっていうのはすぐに分かったがな』
「そうだな。あんな良い子はなかなかいないだろう」
『で、どうだ? 坊っちゃんを変えるだけの何かがあの子にはありそうか?』
「そこまではわからない。だが、息吹さまも成瀬さんのことを気に掛けているということは話の中でわかったよ。息吹さまを変えることはもうできないと諦めていたが、希望の光が見えた思いだ」
『気に掛けているというと?』
興味深そうに聞いてくる電話の主。こいつめ、肝心な所は他力本願で、自分は労せず教えてもらう魂胆か。
そんなどこか憎めないずる賢い同僚の山室だが、息吹さまを案じている気持ちは同じ。無下にはできない。
だが、おいそれと教えるのも癪ではある。
「成瀬さんのプライバシーもある。そうやすやすと情報を漏洩できんな。個人情報をあっさり渡すお前とは違う」
『堅物左京は相変わらずだな。だが、なんだかんだで甘い左京も相変わらずだろ?』
山室の半笑いが目に浮かぶ。こいつめ。
「まあいい。息吹さまがな、あのハンカチを成瀬さんに渡したんだよ」
『ほう。それは』
山室から茶化す雰囲気が消えたのが伝わる。
「成瀬さんなら、或いは息吹さまの心の氷を溶かすことができるかもしれない。山室、成瀬さんは息吹さまに会いにこれからもマンションに足を運ぶだろう。悪いようにはするなよ?」
『するわけないだろう。管理人室でお茶でもだしてゆっくりさせるよ』
お前みたいなおじさんと成瀬さんはお茶なんか飲みたくないだろう、とツッコミそうになったが、自分も同じだと思いその言葉を飲み込む。
「息吹さまはまだ帰っていないのか?」
『今朝出かけたきりだな。前に数日帰ってこないこともあったからいつ帰ってくるかはなんとも言えない』
「そうか、息吹さまが帰られるまで成瀬さんが待とうとしても、暗くなる前には帰らせてくれ。その辺りは人通りが少ないから、女性の一人歩きはよくない」
『承知した』
「よろしく頼む」
電話を切り、車のシートに体重を預けながら暫し過去を思い起こす。
息吹さまが感情を表に出すことを失くしてから、社長は世間体を気にして息吹さまを疎んじた。
関東随一の食品商社でありながら中国地方にも支社を有する山中商事はいくつかの不動産も有する。
社長は息吹さまを自社の不動産であるマンションに一人暮らしをさせ、その折に私を目付け役を兼ねてこちらの支社へ配属したのだ。
実の親である社長以上に、私は息吹さまを見守り、その成長とこの先の人生を案じている。だが、私如きには息吹さまの心に何か響かせることなどできなかった。
息吹さまが多感でいらしたあの頃、最後私に放った「お前も裏切っていたんだ」という辛辣な言葉。息吹さまはそれすら覚えておらず、ただただ冷め切った心ながらも私を頼りにしてくださっている。
それがいかんともしがたく心苦しい。
「成瀬さん……どうか、息吹さまをよろしく頼みます」
車内に私の切実な願いが響いて消えた。