決意を胸に
「飛び降りた……ってことですよね」
左京さんは悲痛な面持ちで頷く。
「結果的には病院で飛び降りたこと、そして落ちた場所が植込みだったことが幸いし、一時は意識不明の重体でしたが何とか一命は取り留めました。ですが目覚めた時には息吹さま元来の聡明で朗らかな姿はもうなく、感情を全く面に出さない今の息吹さまがいたのです」
左京さんはコーヒーをぐいっと呷り、飲み干した。
「最愛のお母様の死が息吹さまの心を壊してしまったのか。はたまた生死の境を彷徨う大怪我が感情を司る部分を破壊したのか、それは定かではありませんが、少なくとも息吹さまは記憶を無くし、多感で鋭敏だった心と感情に計り知れない傷を負ってしまった。それだけは確かです」
山中くんの壮絶な過去に胸が苦しくなる。
だけど、そうなんだ……。やっぱり、本来の山中くんはとても優しい心の持ち主で、お母さん想いの普通の男の子だったんだ。山中くんは心がないわけじゃない。
「成瀬さん?」
左京さんの私を呼ぶ声にはっとする。山中くんに温かな心があったという事実を知れただけで安堵してしまった私は、不謹慎にも口元を綻ばせていたかもしれない。
「あっ、ごめんなさい。私ったら」
そんな迂闊な私に左京さんは朗らかな笑みを向けてくれる。
「息吹さまのことを知って、何か思うことがあったみたいですね?」
「……はい。私は山中くんのことを心のない人なんじゃないかって思ってしまっていたんです。だけど今の話を聞いてそんなことない、山中くんには誰とも変わらない心があるってわかりました」
「ですが、今の息吹さまにはその心がなくなってしまっているのかもしれません。あれ以来、息吹さまの喜怒哀楽の表情も、何かを愛する様子も、更には何かに興味を示すことすら見受けられなくなってしまったのですから」
「それは、違います」
はっきりと言い切った私を左京さんは見つめた。
「山中くんは私の話に興味を持ってくれました。好きとはどんな感情か知ろうとしました。胸に感じた熱を、これが私の言っていた好きなのかと聞きました。そして、俺は成瀬が好きなのか? と私に共感を求めました」
冷めてしまったミルクティーの入ったカップに目を落とす。
「山中くんの心は真っ白なキャンバスです。丁寧に綺麗に描けるよう導ければ、きっと鮮やかで優しい心の花を咲かせられます」
「そして、唯一導くことができるのは息吹さまの心に変化をもたらした成瀬さんしかいない」
左京さんの言葉に、私は自惚れではなく力強く頷いてみせた。
「ふふっ、しかし悔しいですねぇ。息吹さまが生まれた時から知る私が何の影響も与えられないというのに。息吹さまはきっと成瀬さんに一目惚れなさったのでしょうね」
「一目惚れって、そんな、私なんかに」
そうはっきり言われるとどうしてもしどろもどろになってしまう。
「成瀬さんの綺麗で純真な心に息吹さまはきっと惹かれたのです。それに自分を卑下するのはよくありません。私は一目見た時から可愛らしく素敵な女性だと思いましたよ」
「そんな、やめてください」
顔が熱く火照り、慌ててミルクティーのカップを持とうとすると。
カチャン。
「あっ!」
引っ掛かった指が軽くなったカップを押してしまった。テーブルの上に白茶色の液体が広がり、私は咄嗟にセーラー服のポケットからあの藤色のハンカチを取り出していた。
しかしすぐにこれで拭くわけにはいかないと思い、テーブルに備え付けてあるペーパーを重ねて吸い取るように拭く。
「すいません。スーツ、汚れませんでしたか?」
自分のドジさに今度は違う意味で頬が熱くなる。
「ええ、大丈夫ですよ。ところで、今のハンカチは……」
左京さんが再びハンカチを仕舞ったポケットの辺りを見つめる。
私は藤色のハンカチを左京さんに差し出した。
「あ、はい。これは山中くんが私に貸してくれたものです」
「そうですか。通りで見覚えがあると思った。それは息吹さまのお母様の形見のハンカチです」
左京さんは手に取らず、美しい金色の刺繍が施されたそのハンカチを懐かしむように目を細め見つめた。
「そんな大切なものを私に」
「息吹さまはお母様の記憶も失くしてしまっているようですが、なぜかそのハンカチだけは片時も離さず持っていました。もしかしたらそれも成瀬さんが仰るように、息吹さまの潜在的な心がそうさせているのかもしれませんね」
左京さんは目尻に皺を寄せ、その優しい笑顔を私に向ける。
「そのハンカチを成瀬さんに渡したということで、やはり確信いたしました。息吹さまにとって成瀬さんは特別な人です。息吹さまの迷い続ける心を導けるのは成瀬さん、あなたしかいません」
「……はい。誠心誠意、山中くんに向き合って話をするつもりです。でも、その前に」
私は窓の外に視線を投げ出した。
「山中くんが示してくれた道を、私は進まなければいけません」
「息吹さまが示した道、ですか」
「はい。山中くんの純粋な心が私に何をすべきか教えてくれたんです」
向き直ったそこに左京さんの優しい顔が微笑んでいた。