山中くんの過去 後編
奥様の余命を知らされていたのはご本人様と旦那様、それに息吹さまの守役を務めさせて頂いていた私だけだと聞いています。
息吹さまには奥様の希望もあり、内密にしておくようにとのことでした。
その後ですが、奥様は仮退院が認められ、お二人はかねての約束通り動物園へ行かれました。
親子水入らずの場でありましたが、旦那様が仕事の都合でご同伴することができなかったので、私が万一に備え目付け役としてご一緒致したのです。
あの時の息吹さまとお母様の溢れる笑顔は、今でも鮮明に覚えています。
病魔に蝕まれ衰弱しているはずなのに、奥様は息吹さまの前では明るさを失わず、弱音一つ吐くことはありませんでした。
だからこそ、聡明な息吹さまと言えど気が付かなったのだと思います……。
ですが、その日は無情にも訪れました。
その日、会社では社運を占う重大な会議が開かれており、私もその会議に出席していました。
ひりつく緊張感の中会議が進んでいましたが、その時突然会議室の扉が勢い良く開け放たれたのです。
そこには、息を切らせた息吹さまが立っておいででした。
「父さん!」
「息吹! 何しに来た!? 今は会議中だ、出ていきなさい!」
目を怒らせ退室を促す旦那様に対し、息吹さまは意に介さず駆け寄り袖を引きました。
「それどころじゃないよ! 母さんが、母さんが大変なんだ! 今すぐ病院へ行こう!」
会議室中がざわつき、旦那様も目を見開かれ動揺している様子でした。現会長で、前社長だった息吹さまのお祖父様も病院へ向かう事を促したのですが。
「今は……それどころではない!」
「父さん?」
「先方との取り引きの期日は間近に迫っている。今この瞬間が天王山だ。俺がどうしてこの場を離れられる!」
「それどころじゃないって……父さんは母さんの今を知らないから! 母さんは今意識がないんだよ!? 父さんも一緒に来て励ましてよ!」
「俺の双肩には全従業員とその家族の生活が懸かっているんだ! あいつもいざという時にはそれを理解していた! さあ、会議を続けるぞ。息吹、お前は行きなさい!」
息吹さまは信じられない様子で目を見開かれ、首を左右に小さく振っていました。
お父様を拒絶するように後ずさるその姿が、いたたまれなかった。
「もういい! 父さんは、父さんは大馬鹿だ!」
息吹さまが会議室を駆け出ていった後、その場は暫し静寂に包まれました。お祖父様が再度行くよう促されましたが、頑なにその態度は変わりませんでした。
「左京……代わりに行ってくれ」
代わりになどなれるはずがない。しかし私はそれを了承し、息吹さまを追ったのです。
会社から病院までの長い道を全力で走っていた息吹さまを途中で乗せ、急いでお母様の元へ向かいました。
白く細すぎる奥様の手を、息吹さまの小さな両手がしっかりと握りしめ「母さん大丈夫。大丈夫だよね」と、悲痛な面持ちで呟いているのを、私は聞いていました。
ですが、奥様がその呼びかけに反応することは……。
そして……。
甲高い音が病室に響き渡りました。
心電図モニターに表示されていた波形がなくなり、心拍が無くなったことを示すフラット音です。
医師が瞳孔を確認し、胸部聴診を行いました。
「死亡を確認しました」
「嘘だ……」
手を握ったまま離さない息吹さまがうわ言のように呟きました。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だぁー!!!!」
呟きは慟哭に代わり、安らかに眠っているように見える奥様にしがみつく息吹さまを医師が一声二声掛け引き離そうとします。
私からも促すようにと医師の目配せを受けて、涙を止めどなく流す息吹さまに私は一声掛けました。
「左京……」
「はい」
「お前も、知ってたのか?」
「息吹さま?」
「父さんはいざという時には理解していたと言っていた。あれは母さんが死ぬことを知っていたんじゃないのか?」
ぎくりとする質問でした。正直、何とお答えするべきかわからなかった。
「い、息吹さま。それは」
「お前も知っていたんだろうっ!」
憎悪の眼差しを私に投げかけ、息吹さまは「お前も僕を裏切っていたんだ!」と叫び病室を飛び出しました。
打ちのめされた私は暫し呆然と立ち尽くしてしまい、すぐに息吹さまの後を追うことができなかった。
悔やんでも悔みきれない一瞬の、そして一生の不覚です。
見失った息吹さまを探す私の耳に女性の金切り声が届き、嫌な予感とともにそちらへ向かうとそこには。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「地面に倒れ伏す、息吹さまの姿があったのです」
深く、そして長く目を瞑る左京さん。後悔と懺悔の気持ちが私の心に伝わる。
それは自らを断罪する、山中くんを理解する人の苦悩と苦悶の表情だった。