山中くんの過去 前編
山中くんと初めて出会ったあの夜の話を、左京さんは黙って聞いていた。
「一人でどうしようもなく落ち込んでいたから、あの時に山中くんがただただ私の話を聞いてくれたことが、とても嬉しかったんです」
話し終え、ぬるくなってしまったミルクティーのカップを両手で持ち口元へ運ぶ。
「そうですか……。息吹さまが、成瀬さんのお話に興味を持たれたのですか。それに、『好き』とは何かを成瀬さんにお尋ねになったのですね」
感慨深そうに呟く左京さんは何やら意味深げだった。
「あの、左京さん?」
「私は……息吹さまが幼少の頃からずっとその成長を見守ってきました。おそらくは息吹さまのお父様以上に」
左京さんの視線はテーブルの上に向けられているが、その瞳はどこか遠くを見るように虚ろいでいる。
左京さんの言葉に疑問を抱く。
「お父さんよりもですか……。それじゃあお母さんはどうなんですか?」
コーヒーを啜る左京さんの目は悲しみに暮れていた。目を瞑りながら、コーヒーカップを受け皿に置くとカチャリという小さな音。
「その、お母様の存在こそが息吹さまを現在のお姿にさせたと言っても過言ではありません。もちろん、息吹さまのお母様は何も悪くない。ですが……悲しいことです」
私を見据える左京さんの瞳に厳しさが宿る。
「成瀬さん。息吹さまのこと、お話致しましょう。お話を聞いた上で、成瀬さんがどのような思いを抱くか、そして行動するか。それはわかりませんが、決して軽くない話です」
「はい。山中くんが今に至った経緯は浅はかな話ではないと心得ています。それでも、私は山中くんのことを知りたいし、彼の力になりたいです」
私は今の思いを真っ直ぐに伝えた。
暫し私と左京さんの視線が交錯したが、左京さんはふっと笑うと、背凭れによし掛かり緊張を解いた。
「話を聞いてから判断するのでも、遅くはありません。さぁ、とりあえずケーキを食べてしまいましょう。……うん、美味しいですね。流石は成瀬さんのオススメです」
「……いただきます」
「成瀬さん、私の名刺を見てお気付きになったことはありませんか?」
「山中くんの名字と同じ名前の会社……ということですか? もしかして山中くんは……」
左京さんは穏やかな笑みを湛えたまま頷いた。
「やはり気付かれていたのですね。そう、山中商事は息吹さまのお父様が経営する会社です。関東随一の食品流通商社であり、ここ中国地方にも根を張る大企業」
「凄い……ですね」
正直よくわからず曖昧な返事をするに留まる私に、左京さんは、ふふと笑う。しかしその笑みはすぐに消え、左京さんは続けた。
「今からお話するのは、もう……十年も前の話になります。まだ本社のある東京にいた頃の」
コーヒーカップに視線を落とす左京さんの瞳はどこか遠くを見ているようだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
息吹さまは利発で聡明な子どもでした。頭脳明晰で運動神経にも優れ、武道を習わせれば瞬く間に上達され、まさに麒麟児。天才とは息吹さまのような方を言うんだなと、まだ小学校に上がられたばかりの小さな子を見て私は思ったものです。
人間的にも素晴らしく、重たそうな荷物を持つ老婆がいれば、真っ先に駆けつけその大きな箱を懸命に運び、遊ぶ際に友達の弟や妹の面倒を良く見て、泣きじゃくれば自らのおやつをあげたりもしていましたねぇ。
私はもちろん、息吹さまのご両親もそれはそれは立派な跡継ぎになるだろうと安心していたものです。
息吹さまは小学校から帰ると必ず真っ先に向かう所がありました。お友達と遊ぶ約束があっても、その前に必ず向かうのです。
入院しているお母様の元へ。
「母さん、体調はどう?」
「あら息吹いらっしゃい。今日は左京も一緒なのね。車で送っていけってわがまま言ったんじゃなくて?」
息吹さまのお母様はそれはお美しい方で、恐れ多くも異性である以上は見惚れずにはいられない眩い輝きを放っていました。
当時の年齢は二十九歳と、私よりもお若かったのですが、洗練された淑女の振る舞いは本当に素晴らしいものでした。
下っ端に過ぎない私などにも分け隔てなく接して下さる慈愛に満ちた方で、老若男女問わず好かれる天女様のようでした。
「息吹さまはお友達とお約束があるそうで、遅れないように私が送らせていただくと申し出たのです」
「それだったら何もわざわざお見舞いに来なくてもいいのに。毎日来てくれて嬉しいけど、近くもないし大変でしょう?」
「僕は平気だよ。父さんは仕事が忙しくてなかなか来られないみたいだから、せめて僕だけでも毎日顔を見せて母さんを元気づけたいんだ。今日は左京を頼っちゃったけどね」
「ありがとう息吹。左京も仕事が忙しい中ごめんなさいね。今は大事な時期なのでしょう? 電話であの人が言っていたわ」
あの人とは無論息吹さまのお父様で、奥様とは年齢が十三歳離れており、当時の役職は専務取締役です。
「いえ、旦那様に比べれば私などが大変ということはありません。私には勿体無いお言葉、痛み入ります」
「それならいいのだけど、無理は駄目よ? あの人にも無理はしないよう伝えてくれるかしら?」
「かしこまりました」
「母さんこそあんまり起きてたら駄目だよ! そうだ! りんごを剥いてあげるよ。練習したから上手だよ」
「ありがとう。凄いわね、息吹は」
息吹さまの小さな手には大きい赤いりんご。果物ナイフで器用に皮を剥きながら、息吹さまは尋ねられていました。
「母さんはいつ退院できるのかな?」
「……もうすぐだと思うわ。これだけ元気になったんだからね」
「本当? 退院したらさ、一緒に動物園に行こうよ。ホワイトタイガーの赤ちゃんが生まれたんだって!」
「まあ、楽しみね。お弁当作って行きましょう」
「約束だよ」
「ええ、約束……」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ですが……」
悲しみの色を湛えた左京さんの瞳が私を捉える。私の喉がゴクリと音を立てた。
「息吹さまのお母様の病気は乳癌。その時には既にステージⅣに達しており、骨や遠隔臓器に転移している状態でした」
「それって」
私の憂いを孕んだ呟きに静かに頷く左京さん。
「余命は、既に幾許も残されていませんでした」