後悔とあなたの優しさ
家まで走り続けた私は、帰宅してそのまま二階にある自室に飛び込んだ。
帰りが遅くなった私に苦言を呈するお母さんを無視し、自室に鍵を掛けて私は膝を抱える。
流した涙が凍てつく外気で顔に貼り付き、私の頬に薄氷の筋を引いていた。まるで顔がパリパリに凍りついてしまったみたいに引き攣っているのがわかる。
でも今はそんな事は大して気にならないほど、頭と心がぐちゃぐちゃに乱れていた。
山中くんを優しい人だと思っていた気持ちが根底から覆されてしまった今日一日。それは私にとってあまりにもショックな出来事だった。
好きを知らない山中くんだけど、それは感情の表し方が苦手なだけで、少しずつだけれど山中くんは好きをわかってきていると、そう思っていた。
何よりそんな山中くんに頼りにされ、私が山中くんに影響を与えていることが嬉しかった。
「山中くんには、心がないの?」
答えなどわかるはずもない自問を呟き、私は以前飼っていた猫のミュウを思い出す。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ミュウは綺麗な雌猫だった。真っ白な毛色をしていて、その繊細な毛並みの奥には綺麗な薄桃色の肌が見えていた。尻尾がとても長くて、しなやかなその尻尾がゆらゆら動くのを眺めているのが私は好きだった。
ミュウとは、私が小学生の低学年だった当時から人気を博していたゲームに同じ名前のキャラクターが存在し、そのキャラクターにそっくりだったことから名付けた名前。
高くてよく通る声をしていて、頭や背中を撫でられるのが大好きな子だった。夏には私たち家族の前でお腹を晒した大の字で眠り、その姿を見て笑った。冬には私のベッドの中に潜り込み湯たんぽの代わりになり、私に幸せな温もりを与えてくれた。
私はミュウが大好きでミュウもきっと私のことが大好きだった。
だけど、私はミュウの信頼を裏切った……。
中学一年生の秋頃、ミュウの具合が悪くなった。最初は食欲がなくなったなぁ、でもミュウももう若くはないからね。と、さほど気にしていなかった。
だけど慢性的に熱があり元気もなくなって、日に日に衰弱していくミュウを見て、心配になった私たちは動物病院へ連れて行くことにしたのだ。
そこで受けた診断が今でも忘れられない。
『猫伝染性腹膜炎』通称FIPと呼ばれる病気だった。
そして、それは発症すればほぼ百パーセント死に至る不治の病だったのだ。
選択肢は二つ。延命治療を施すか、安楽死させるか。
その当時のことはあまり覚えていないのだけど、私は半狂乱になって両親に訴えていたらしい。
「ミュウが死ぬはずない! 治療してればきっと元気になる!」
そう何度も繰り返し暴れていたらしい。
だけど、お父さんもお母さんもきっと冷静だったんだ。若くないミュウが延命治療で生きながらえる事は、寧ろ死ぬよりも辛いと。
結局、ミュウには安楽死させてあげることが決まった。
その日、病院でミュウは様子がおかしかった。いつもはお母さんやお父さんに抱っこされても平気なのに、身を捩って手をかじり、抵抗するのだ。
お母さんが私に抱っこするように促したが、私は自分の腕の中に抱かれたミュウが、冷たく動かなくなることがどうしても嫌で、結局最後に抱くことはしなかった。
ミュウは必死に抵抗しお医者さんの腕から逃れようとし、その目は私を見ていたような気がした。だけど、私を見つめるミュウを処置室の扉が分断した。
そして、ミュウは天国へ旅立った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
目の奥が熱くなる。
あの時、きっとミュウは私に見捨てられたと思ったはず。私はミュウの死を目の当たりにしたら、自分の心が壊れてしまうんじゃないかと不安だった。
私は自分を守ることを優先して、ミュウに最期の安らぎを与えてあげることができなかった。
そのことを、ずっと、ずっと後悔している。
だから、本来私に山中くんを責める資格なんてない。私が山中くんに言った言葉は、そのまま当時の私に言った言葉なのかもしれない。
山中くんは猫ちゃんの体調の変化にいち早く気が付き、病院に連れて行ったのかもしれない。そして、山中くんは悲しみながらも、どうしてあげることが猫ちゃんにとって一番なのかを冷静に考えたのかもしれない。
飼うことにしたきっかけはコイントスによるもので、山中くんはどっちでもよかったと言っていた。正直、その意思のない空虚な言葉を聞いた時、私は恐怖を抱いた。
だけど、きっと山中くんだって、猫ちゃんと過ごした時間の中で確かな愛情を注いでいたと信じたい。
たとえ『好き』を知らない彼だとしても。
「山中くん……私はあなたの優しさを信じるわ」