空虚な心
「なんで……そんなこと言うの?」
「あの猫は死ぬからだ」
「言っている意味が分からないわ。なんでそんな酷いことを言うの!?」
先程までの浮かれ気味ののぼせたような熱とは違う、一気に血液が頭に上り、視界が歪み頭痛を及ぼすような熱さが私の中に沸き上がる。
「FIPに感染している」
FIP……? まさかの一言に本当に目眩を覚えた。喉から自分でも聞き取れないような掠れた声が絞りだされた。
「猫にとっての不治の病。治ることはない」
私の驚愕を他所にあくまでも冷静に、無感情な声で無慈悲な発言をする山中くん。
「で、でもFIPって初期の症状が普通の風邪とあまり変わらないって言うわ! どうして……」
「獣医師に診てもらった。おそらく、俺が拾った時には既に感染していたようだ。噛まれた傷があった」
私が聞こうとしたことを先読みして答える山中くんは酷く冷静だった。希望を抱くことも、現実を呪うこともない。ただありのままを受け入れているかのようなその姿。
何でそんなに冷静なの? 診断を受けてもう、悲しみに悲しみ抜いたから? 笑顔で見送る事を心に決めたから? だとしても、そんな簡単に納得できない。
「競走馬はな」
きょうそうば? 山中くんの顔を見つめた。
「レース中に脚を骨折し、予後不良と診断された場合そのコース上で安楽死処分にされることがある。なぜそんな措置をとるかわかるか?」
競走馬の話だと理解できた。なんで安楽死の措置をとるか、私はそれよりも山中くんの言葉、処分という言い方に違和感を抱いた。
「仮に治療したとしても長く苦しい闘病生活が待っているからだ。五〇〇キロにもなる馬体を三本の脚で支える必要に迫られる為、体重を激減させて別の馬かのようになる。掛かるストレスも甚大で、他の合併症にも苦しめられ助かる可能性は低く、やがて命を落とす。もしくは遅すぎる安楽死処分を下される。つまり俺の拾った猫も不治の病を患った以上、安楽死処分が妥当……」
「処分処分言わないで!」
私は叫んだ。山中くんの言葉をこれ以上聞きたくない。そう思ったのだ。山中くんは不思議そうな顔で私を見ている。
「前に成瀬は俺が猫を拾った事を優しいと言ったな? だが、もしあの時俺が拾う決断をしなければ、一日寒さに凍えただけで死ぬことができた。拾わない方が俺は優しかったんじゃないか?」
「そんなことない! 山中くんがその時見て見ぬふりをしたとしたら、それは優しさなんかじゃないよ! だって、山中くんがその子を拾ったのはその寒さから助けてあげるためでしょう?」
山中くんは首を横に振った。
「いや、俺はどっちでもよかったんだ」
「どっちでも……?」
「ああ、だから俺はコインを投げたんだ。表が出たら拾って飼うことにする。裏が出たらその場に置いていく。そう決めて」
ぞくりと、背筋が寒くなる。単純な寒さによるものじゃない。山中くんが、山中くんのことが突然異質な存在に見えてしまったのだ。
優しさの根本が違う。彼が言っている優しさとは如何に楽に死ねるか、苦しみを短くして死ねるか、その一点でしか話していない。寒さに凍えている子猫をその場に放置しておけば、病に苦しむことなく死ねた。それが優しいことだと、今の山中くんは本気で思っている。
以前、里奈が言っていた言葉を思い出す。
『山中くんって何か怖いんだよね。何を考えてるかわからないっていうか、こんな言い方駄目なのはわかってるけど……不気味っていうか。心がないんじゃないかなって思うんだよね』
心がない。山中くんは『好き』がわからないだけじゃない。そもそもの感情が、心がないのではないか?
山中くんが恐ろしかった。だけど、沸き上がる逃げ出したい気持ちを懸命に堪え、山中くんにもう一度、もう一度向き合ってもらいたいと強く思う。
「確かに、長く苦しい闘病生活を送らせるのはかわいそうだわ。だけど、そこにあるのはなんとか助かって欲しい! 死なないでほしい! そう思う愛なんだよ。人間のエゴかもしれないけど、その愛する気持ちは最期の最期まできっと伝わっているわ。安楽死の決断をするのだってそう。本当は別れたくない、死んでほしくない。だけどこれ以上苦しい思いをさせるのならって、愛する思いで最期の瞬間まで安らげるように優しく撫でて、そうして天国に送ってあげるのが安楽死だよ。山中くんはその子のことをっ……!」
『好きなんでしょ!?』という言葉を飲み込む。眉一つ動かさない山中くんの姿が揺れる視界に浮かぶ。鼻の奥のつんとする痛みと零れそうになる涙をぐっと堪えて、最後に一言伝える。
「もし、天国に送ってあげるなら、山中くんが今思う愛を、その子が安心できる温もりを、最期の最期まで与えてあげて」
私は踵を返し駆け出した。駆け出すと同時にぶわっと目から涙が溢れだす。
山中くんに抱いたことのない感情を抱き、そしてまた抱いた一日だった。
目元を拭いながら走り去る成瀬の後ろ姿を、俺は見えなくなるまで見つめていた。
俺の言動にあれほど感情を発露させたのは成瀬が初めてだった。そして他人を泣かせたのも。
俺と会話をして微笑んだのも成瀬が初めてだった。涙を見せたのも成瀬が初めてだった。しかし、俺にはなぜ成瀬が泣いたのか理解できなかった。
あの猫は死ぬ。だとしたら早々にその命脈を断つ方が合理的ではないか。そうすればもう面倒を見る必要もなくなる。そもそも面倒を見たところで死ぬのだから意味がない。
先の成瀬を思い出す。成瀬が拒絶したものは何だったのか。激昂した理由は? どうせ死ぬのだから今これから殺すと言ったら成瀬は声を荒げた。処分する事の妥当性を説いたら成瀬は受け入れなかった。俺の行動の指標を知ったら成瀬の目に畏れが宿った。
やはり、何もかもが違うのだろう。成瀬が感じる事を俺が感じることはない。
「っ!?」不意に胸がズクと痛んだ。さして気にする程でもないが今の痛みは経験したことがないものだった。
帰り着いたマンション。自室の玄関を開けると暗い室内の奥から鳴き声が聞こえる。明かりをつけると四肢をちょこまかと動かして近付いてくる真っ白い猫。玄関に立ち尽くす俺を見上げて高い声でみゃあみゃあと鳴いている。
俺は猫を胸に抱いた。猫は目を細め、ごろごろと喉から音を出している。このまま力を込めれば死ぬだろう。成瀬の言葉を思い出す。
「安心できる温もりを、最期の最期まで与える……か」
俺は柔らかく小さなその存在を強く、抱きしめた。