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郡上八幡 少し昔の話 ~よっさの話~

作者: こにゃんこ

少し昔、郡上八幡によっさというおじさんがおりました。

郡上八幡は、郡上踊りと言われる盆踊りで知られる地域で、中でも通称「徹夜踊り」と言われる盂蘭盆会は、空が白み始める頃まで踊り明かすことで有名です。

踊りの時は、毎回保存会による生演奏で、地元の人にとっては当たり前のことですが、他所から踊りに来る人は、最初は少なからず驚き、ましてや初めて来たのが徹夜踊りの日ともなると、「朝までこれをやるの?」と、目が点になることもしばしばです。

当然、歌(音頭取り)や演奏(囃子方)は、人によって上手下手があり、また、それぞれの人に、全部で十曲あるうちには、得手不得手もあって、常連の踊り手さんたちは、「春駒はあの人には歌って欲しくない」とか、「まつさかはこの人じゃないと」とか、評価も様々なのでした。

よっさは、保存会の音頭取りの一人でした。よっさと言うのは、「吉田さん」を短くした愛称で、本名は吉田正といいました。

よっさは保存会の中でも上手な歌い手さんでしたが、どうにも自己陶酔型といいましょうか、あまりにも自分が上手だという自信がありすぎて、仲間たちからは少し煙たがられていました。


保存会の仲良しおじさん、きすけさとたけマは、今日も二人でコーヒーを飲んでいました。

中京圏は、朝のうちはモーニングサービスが無料でつくのが当たり前になっているので、ここ郡上でも、休日朝の喫茶店は、モーニングサービス目当てのお客さんで忙しい店も多いのです。

このおじさん二人も、コーヒーの味など大して分かりもしないのですが、普段は家で滅多に食べることのないバタートーストと、茹でたての暖かい卵目当てに、休みの日には誘い合って、よく喫茶店に来るのでした。朝限定で。二人の奥さんは、きちんと毎朝ご飯を作ってくれる人なので、休日も朝食は家でちゃんと食べます。二人にとって喫茶店のモーニングは、おやつみたいなものなのです。

「もうはや、今度の土曜日から踊り始まるンな」

「おう、きすけさ、おまん、この前の練習に来とらなんだで知らんやろがよ、よっさと会長、嫌な雰囲気になったんやで」

「なんよ、それ。あの二人、嫌われモン同士、仲良しやったがな。目くそか鼻くそかわからんやつ二人が喧嘩したんか」

「きすけさ、嫌われモンって、こんなとこで言ったらだちかん」

「なら、たけマ、おまんはどっちも好きか?」

「はずがないがな。大きい声では言えんけど、どっちも嫌いや」

「ほれみい」

「どっちもやけど、会長の方がだちかん。あのえこひいきじいさん、自分のお気に入りばっか可愛がって、そうでもないモンには、いちいちどうでもええことに、どんだけ怒るんやってくらい、キーキー言うしな。

この前もよ、しんちゃんがどこやらで、笛教えてくれって言われて、教えてやったらしいんや。そしたらそれ、どこでか知らんが聞きつけて、ひどう怒りよったでなぁ。

郡上節をやってみたいって人に教えてやって、どしてたーけ叱られンならンのんや?しかもよ、しんちゃん、一円も貰わんと教えてやったんやで」

「会長、お礼言ったってええもなぁ。そんだけ郡上節を広めるのに一役買っとるわけなんやで、なぁ」

「まぁったく、おっかしな人や」

「なんでよっさと仲ええんか知らんが、変なヤツどうし馬が合うんやんなぁ」

「まったくよ」

「俺らも、変なヤツ同士馬が合うと思われとるンないか」

「俺らは変なヤツかも知れんが、あんに嫌われてはおらんでンなぁ。あんに意地悪うないがな」

「そらわからん。人によっては、俺らのこと、耳くそ呼ばわりしとるやつがおるかもしれんし」

「俺、鼻くそ呼ばわりされるなら、耳くそでええわ」

「やけど、嫌な雰囲気って、なんよ?会長、よっさくらいしか、保存会で仲良しのモンおらんに、よっさとまでケンカしたら、だぁれもしゃべっておくれんぞ」

「おまん、よっさも難しいやつやが、会長も、ありんこくらいのこと取り上げては、人に難癖つけるようなやつやでなぁ」

「よっさの何に難癖つけたんよ?」

「よっさなぁ、よう遅刻するがな」

「そうか?始まる前には来とったろ?」

「会長が勝手に決めた、三十分前集合に間に合うことは少ないがな」

「あー、あれかぁ」

「みんな去年は、会長の難癖の矛先が自分に向くのもかなわんで、嫌々でも黙って三十分前に間に合うように行っとったろ。それを、この前会長が念押ししたんや。そん時に『よっさも、他のモンが来とるに、おまんだけ来れんことはなかろ』って言われて、よっさが言い返したんや」

「なんで三十分も前に行く必要があるんやってか?」

「そうや」

「去年から、みんな陰では言いよったわなぁ。大体がよぉ、みんな定年過ぎのモンばっかならともかく、いっくら踊りの時期だけって言っても、仕事終わってから来るんやで」

「太鼓の準備なんかは、当番決めて、交替で早う行けばええだけやしな。会長なんか、とっくに定年過ぎとるし、畑や田んぼあるわけでないで、暇やでンなぁ。あんなやつこそ、保存会第一で働けるけど、みぃんながそんに出来るわけでないでンなぁ。太鼓なんか、いっそ会長が毎日用意しやええんや」

「まぁ、去年もよっさだけ特別扱いで、他のモンが遅刻しや、ぐだぐだぐだぐだ怒鳴り散らして怒るくせによぉ、よっさには一言もお咎めなしやったでンなぁ」

「よっさこそ、あれも三年くらい前に定年になって、何にもやること無いんやで、早う来られるはずやんなぁ。あそこも庭も無いよな小さな家やでンなぁ。内孫も一緒に住んどらんで、子守もせんでええはずや。

それを遅刻して来て、叱られもせんのやで。みんな去年から、えこひいき、えこひいきって、陰口叩きよったわなぁ」

「言われても仕方ないがな。結局去年は、踊り納めの日まで、叱られることも無いまんま、屋形に上がっておったでンなぁ」

「よっさもな、自分は経験もあって、歌も上手うて、よっぽど自信があるンかもしれんがよ、自分だけは特別扱いが当然やと思うのはおかしいもなぁ」

「まったくよ、どしてあんに偉そうにしとるんよ?自分は会長でも何でもない、ただの音頭取りやんなぁ。

その日に屋形に上がるモンは、三味線や笛は音合わせもあるし、毎回同じ曲やるって言っても、控えの方で鳴らしてみるでンなぁ。ほんとはよっさも、それに合わせて、ちいたぁ歌ってみなぁ。やで、よっさこそ、三十分前に来た方がええんやで。

それをよぉ、ただ踊りで来とるだけの会員が遅れて叱られて、屋形に上がってお囃子やらんならんモンが叱られんのはおかしな話やって、なぁ。俺らと同じ踊り部のモンが言いよったわなぁ」

「屋形に上がるモンも、遅刻しやぁ叱られよったぞ。よっさ以外は。叱られなんだのはよっさだけやで」

「俺ら、叱られんでよかったわな、去年は」

「遅刻せんように行ったでや。俺ら真面目やんなぁ。

けどよ、今年はどこの何にケチつけて叱られるか分からんでな」

「まったく気分屋やでンなぁ。どうでもええことに癇癪起こすで。

あの三十分前、もう止めんかいって、だぁれも言わなんだか」

「それこそ、会長に言えるのはよっさくらいやないんか?みんな藪蛇になって、自分がいじめの対象になるのが嫌で、何にも言わなんだ」

「なんよ、情けないもなぁ」

「おまん、言え」

「そんな鬱陶しいこと、誰がするかい。

よっさもな、確かに声量はあるんやがなぁ、踊り難うて仕方ないんやがなぁ」

「まったくよ、自分の歌に酔い過ぎなんや。春駒なんか、ちいたぁ速うやらんと、場も盛り上がらんに、あんにねばい歌い方ではなぁ」

「春駒はよぉ、若い馬の威勢のええのを歌うんやに、よっさの馬はねっかラ弾まん」

「よっさの馬は、納豆みたいにねばい馬や。沼の中でやっとこ歩きよる」

「ははは。確かになぁ。まったく弾んで踊れんで、常連の踊り手なんか、春駒でよっさが歌い始めると、よっさが終わるまで休むヤツおるでンなぁ」

「他の曲も、最初のモンが歌う速さに合わせなぁ、踊りが乱れるがな」

郡上踊りは、一曲を何人かが交替で歌います。一コーラスが短いので、一人が五コーラスほど歌ってから次の人に渡し、一曲を四、五人で歌うのです。そのため、最初の人の歌う速度に合わせて踊っているところに、二番目でよっさが歌い始めると、よっさのねばい歌い方に合わせて、急に太鼓も遅くなり、結果、三味線も笛も合わせようとすると遅くなり、踊りの輪が乱れる、ということになるのです。

では、よっさの方が合わせるように、意地でも囃し方が速度を変えずに演奏すれば良いのか、というと、そこがまた難しいところでもあるのです。何しろ、自分はいつも一番の音頭取りだと思い込んでいる人なので、演奏の乱れは、囃し方が悪いとしか思わないのです。そのため、囃子方サイドが譲らないと怒りだす始末なのです。そうわかっているので、嫌な思いをしたくない囃し方が、よっさの癖を我慢して、ゆっくりに合わせるようにしているのです。

みんなが困ったもんだと思っているのに、よっさ一人が自分の歌に酔いしれて、悦に入っているのでした。

「しかしなぁ、よっさが自分の歌に自信があるのはええけど、中には、よっさは速う歌えんだけやって言うヤツもおるでンなぁ」

「ああまで意固地に、雰囲気壊しても自分を変えんのやで、いわれても仕方ないわな。そのくせ、人の歌にはケチばっかつけるしな」

「人のことは、平気でこき下ろすくせして、自分にちょこーっと言われると、たーけ怒るしなぁ」

「まったくよ、あんだけ自惚れが強いのも困りもんやで。お囃子は、踊り易うなけらなぁ、意味ないんやで」

「この前も、踊りも一緒の練習の時に、田中のみいちゃんが、『よっさ、前の人と同じ速さで歌っとくれ』って言ったら、大激怒やったもなぁ」

「一人が言うってことは、他にも同じこと思っとるやつがおるってことやで。ちいたぁ耳も貸さんと」

「あれなぁ、自分の考え方一つで、人気の歌い手になれるんやがなぁ。あんだけの声量あるやつ、なかなかおらんで。やけんど、今のまんまでは、歌は上手かもしれんが、踊り客からの人気は今一つやで。踊りのための歌なんやでぇ、踊り客から嫌われては、何の歌い手かってことになるもなぁ。

あれ、若い頃は、あんにねばい歌い方でなかったはずやがなぁ。いつからあんにおっかしゅうなったんよ」

「段々、鼻が高うなるにつれて、歌い方も自己満足の方に傾いて行ったンないか?けどなぁ、それ、自分で気ぃつかなぁ、どうしようもないことやもなぁ。人から指摘されて怒っとるようでは、直らんろ」


よっさはむかむかしていました。といっても、しょっちゅう怒っているので、いつものことです。

この前の保存会の稽古で、会長がよっさの遅刻を咎めるようなことを言うので、今更何を、と思ったのです。

会長は自分勝手で虚栄心が強く、自慢しいの威張りんぼです。自分のお気に入りは平気でえこひいきするし、嫌いな人のことは、人前でも平気で嫌がらせをしたり、怒鳴りつけたりする人でした。そういう人間だから、自分は気に入られている限り、嫌がらせも受けないだろうと思っていたのです。まぁ、仲良しだと言うだけで、勝手にナメていただけなのですが。

ところが、先日の稽古で、「今年は遅刻するな」と言われたことで、会長が急に規律に厳しい、公正な人間であるかのように振舞い始めたように感じ、「ケッ」と思ったのです。

「よっさ、今年は三十分前厳守やで」

会長がそう言った時、よっさはまったく、去年までの態度を改めようなんて思っていませんでした。適当に返事しておこうと思い、

「わかっとる」

と、軽く言ったところ、

「おまん、俺は本気で言っとるんやでな。去年までのようなことなら、俺も考えるで」

と、真剣な顔で言い返されたのです。

よっさは、自分が音頭取りの中でも、一番の歌い手だと自負(無意識の自惚れも含む)していたので、この俺様に向かって、偉そうなことを指図する気か、と言う気持ちになりました。

「考えるって、なんよ?何を考えるんよ?」

よっさが言いました。よっさの中では、自分は会長よりも上の立場のスター様です。

「そら、音合わせの時間にも間に合わんようでは、他のモンにも示しがつかんがな。みんな早う来て、音合わせしとるに、おまんだけぶっつけ本番が当たり前では」

会長は、いつも誰かの欠点を探しているような、根性悪な人間です。よっさの遅刻のことは、ただ仲良しというだけで去年は目をつぶってやっていたけれど、当然、気付いてはいました。そして、会長は会長で、自分は保存会の頂点に立つ者で、一番の権力者になったつもりでいました。

この会長が、なぜ会長になれたのか。全く人徳など無い人物が、どういうわけか周到な根回しの末に今の座に就き、それが保存会暗黒時代の始まりになってしまったのです。

本当は、郡上踊り及び郡上節を、後世により良い状態で伝えていくために保存会があるわけで、いかに世に広め、技術を高め、後継者を育てていくか、それを一番に考えなくてはならないのが、保存会会長の役目です。

ところが、イベントの出演依頼や、メディアから取材、出演の依頼があると、まずは会長のところに話を通さなくてはならないので、現在の会長は、まるで自分が有力者か権力者でもあるかのような、勘違いをしてしまっているのです。

もともと、自己顕示欲の強い人間が、それを満足させるために就いただけの会長職ですから、これはもう始末に負えません。依頼者側からしてみれば、会長など誰でもよく、自分たちの仕事が滞りなく運べば、それで何の問題も無いのです。それなのに、自分はまるでワンマンな社長様になったような気分で、出演依頼があると、自分のお気に入りばかりを推薦したり、屋形の演奏当番を、自分のお気に入りばかりで固めたりと、自分勝手にやりたい放題です。

その結果、郡上踊りが好きで、本気で町の自慢だと自負している人たちよりも、会長の機嫌取りみたいなことばかりする人が優遇され、現在の会長になってからは、入会希望者も減り、後進の若者はろくに育っていないのでした。町の中には、「あいつのせいで、保存会も済んでまった」とこぼす人がいます。済んでまう、と言うのは、終わってしまう、すっかり駄目になってしまうという意味の郡上弁です。

自分がそんな言い方をされているのを知ってか知らずか、会長の虚栄心は満足するところを知らぬまま暴走するのでした。

今回、会長がよっさに遅刻厳禁を言い渡したのも、去年から「会長はよっさには何にも言えん」と陰口をたたかれているのを聞いていたからでした。保存会の規律を守るためと言うのはほんの建前で、他の保存会メンバーの前で、よっさに、一番偉いのはこの会長様だと念押しするためでした。そして、よっさが歯向かうことがあれば、どんなに古株であろうと、どんなに今まで仲良しだと思われていようと、生かすも殺すも、この会長次第だと、会員のみんなに見せつけるためでした。

「俺は三味線や笛でないんやで、調弦も音合わせもいらんがな。何でそんに早う来んならんのよ」

こうなったら、よっさも「はい、わかりました」とは言わない人です。

「おまん、屋形で歌うこと、そんにナメとるんか」

「大体、踊りのモンまで三十分前って、おまんが勝手に決めて、みんな嫌々合わせよること、知らんのんか。遅刻するなってことは、三十分より前に着いとらなんのやで。踊るだけのモンが四十分やら前に来て、始まるまで待たされるのもたーけみたいな話や」

「そんな話は今しとらん。みんなが集まっとるに、おまんだけ殿様扱いは出来んって言っとるんや」

「殿様ぁ?」

「自分だけは時別やと勘違いしとらんかって言っとるんや!」

「勘違いはおまんの方やがな!偉そうに!いつまで会長でおる気か知らんが、みんな、ええ加減おまんの下ではやりとうないって言いよること、おまん知っとるんか!」

「そんなこと、しゃべっとらんろ!おまん、屋形に上がる前に、他のモンとちいと練習するだけのことが、そんに出来んのんか!みんな、当たり前にやっとることやがな!おまんだけ特別扱い出来んでな!」

「偉そうに、なんよ?みんなが、いっつまでもおまんが辞めそうにないで、早う病気にでもならんかって言いよるに」

「…!」

「丈夫で病気にもなりそうにないでぇ、誰か一服盛ったれって言いよったヤツもおったしな。犯罪者が出るのもかなわんで、みんなして藁人形に五寸釘打つかって、笑いよったぞ。おまん、威張りすぎて嫌われとること、ちいと自覚せんかい!」

よっさは、自分も会長並みに煙たがられていることは棚に上げて、言い放ちました。

普段、会長の悪口、陰口が始まると、尽きることのない保存会員たちですが、内心、冷や冷やしながらこの成り行きを見守っていました。よっさが会長に言い放った言葉は、普段から、会員たちが寄ると触ると、散々しゃべっていることでした。なので、よくぞ言ってくれたと思う反面、それは誰それが言ったことだと、ばらされやしないかとビクついていたのでした。

「どっちの言うこっちゃ!おまんは、今年は屋形に上がるな!」

会長のこの一言で、この言い争いは終了しました。会員たちはとりあえずほっとし、今年のよっさは出番なしと決まりました。かなり横暴な気もしますが、会長の本音の部分とは別に、よっさだけ特別扱いは出来ないと言う、会長の言い分は尤もですし、よっさのねばい歌にウンザリな人も多いのとで、誰も二人をとりなそうとする人はいませんでじた。

今までえこひいきされていた人が、そうされなくなったからといって、怒るのはおかしな話です。最初からえこひいきの輪に入っていない人たちにしてみれば、「そんなの、当たり前」と言いたくなります。

そこをどうにも納得できずに、腹を立てているところが、よっさもまた、会長並みに自分勝手で怒りんぼな人物なのでした。

よっさは、自分がいなくては、屋形の歌い手が足りないと思っていました。自分は音頭取りの中でもエースで、自分の歌が無くては、今シーズンを乗り切ることが出来ないだろうと自惚れていました。そのうちに、会長の方が折れて、「人が足りないから」と、頼み込んでくるに違いないと、高をくくっていました。


発祥祭当日になりました。

今日も呑気なたけマときすけさは、会場に二人して来ていました。

「いよいよ始まるンな」

きすけさが言うと、たけマが、

「発祥祭の流しの屋形、お囃子のメンツ見たか?」

と、半分笑いながら、声を潜めて言います。

「いや、まんだ見とらん」

「すっかり出来上がっとった今年の当番表、よっさの名前全部消して、『鷲見』って書き直したったゾ」

「なんよ、おまん、とぼけたおっさんのわりに、どうでもええことははしこいんなぁ」

「おー、ぬかっとらんろ」

「ぬかっとらん。鷲見って、まーくんか?」

「そうや。若手大抜擢やで。会長も、まったく底意地悪いし。よっさ、去年までなら考えられんくらいのひどい扱いやで」

「そやけど、よっさと会長、ケンカして良かったがな。屋形の顔ぶれも、一人入れ替わるだけでも若返って、見た目も華があるがな」

「まーくんなぁ、そう男前でも無いけンど、あれ、ええ子やでンなぁ」

「みんなに可愛がられとるでンなぁ。あの根性悪の会長も、あの子は可愛がっとる」

「よっさ、まさか自分の後釜に、あんに若いのが入るとは思っとらなんだろ」

「そら、おまん、いつもの交替要員の、ともサやしょうちゃんなら、いつも通りケチつけて、自分やないとだちかんようなこと言いよるやろうけど、まーくんでは、よっさがケチつけたところで、『それわかっとって、経験積ませとるんや。今シーズンはまーくんで行く』って言われたら、何にも言い返せんわな」

「他のおっさんも、若手に経験積ませるって言われやぁ、仕方ないでンな」

「多少ひがむヤツもおるやろうけど、今回のいきさつは、みんな知っとるでなぁ。ただでさえよっさは嫌われとるで、みんなまーくんの方がええと思うろ」

「一緒におっても、あの子なら気も楽な」

「よっさ、ザマミロやんなぁ」

「おまんも根性悪やし。俺も同じこと思ったけンど」

「ははは。お互い、こんなことは言われとうないンなぁ」

たけマときすけさがそんな話をしているころ、よっさは保存会の待機所の中で、憮然とした顔で座っていました。先日の会長とのケンカで、自分がこんな惨めな立場に追いやられるとは、夢にも思いませんでした。

人が自分を何と評価しようとも、自分は保存会で一番の歌い手だと思っていました。事実、何年もレギュラーで屋形に上がってきて、自分はエースだというプライドがありました。その俺様をないがしろにするなど、一体何事じゃあぁぁぁぁぁぁぁと、叫んでいました。但し、心の中で。

―まったく、今まで俺がどんだけ貢献してきたか。それがあって、保存会も成り立って来たんや。練習の時も、あんだけ下のモンにも指導してきてやったに、たーけにするにも程があるってもんや。そもそも、何で俺の代わりを、あんに若いやつにやらせるんよ。まんだ屋形に上げるには早すぎるわ。踊りの常連客に、叱られて惨めな思いせんならんわ。

よっさの気分は、まさしく怒髪天を突くというところでした。

会長とのケンカの当日、帰宅してからずっと不機嫌な顔をしているよっさの様子を見て、奥さんの昌子さんが聞きました。

「お父さん、今日の稽古で何かあったんか」

「…」

子育ても終わり、定年を迎えた今、よっさの中で保存会の存在は、以前より大きなものになっています。もともと好きで続けていることなので、昌子さんは、それが終生の生きがいになるのなら、それでいいと思っていました。

ただ、保存会の中でも色々とゴタゴタがあると、よっさからも町の人たちの噂でも、しょっちゅう聞くことなので、つまらないことがきっかけで保存会を辞めてしまうことがなければいいけれど、と思っていました。

「また、会長さんが、誰かに意地の悪いこと言ったんか」

昌子さんは、踊りにもお囃子にも、ほとんど興味がありません。地元生まれの地元育ちのはずなのですが、こういう人もいます。

そんな昌子さんでさえ、会長が偏屈で底意地の悪いことは聞いていました。

ついでによっさの歌がネバいと言われていることも。本人に言うと機嫌が悪くなり、家の中が険悪な雰囲気になるので、敢えて言うことはありませんでしたが。

「今日は俺に言ったんや」

「何よ、おまん、会長は俺には何にも言えんって言いよったがな。一体、何言われたんよ?」

「遅刻するなら、今年は屋形には上げんって言いよった」

「遅刻?おまん、去年は遅刻しよったんか?そら、時間は守らなだちかんで。他のモンに迷惑かけるし。子供ンたやって、学校で五分前集合って言われよったでンなぁ。

けど、今年は時間守ればええがな。遅刻せなんだらええだけのことンないか?」

「…」

「おまんがきちんとすれば、会長も叱るようなことしなれんろ?」

「やっかましいっ」

「なんよ、そんな言い方せんでもええろ。まったく、癇癪持ちやンな。自分が悪いンないか。そんで怒られたんやがな」

「黙っとれ!おまんに保存会のことなんかわからんわ!」

「保存会のことやないがな。どんな時も、遅刻はだちかんって言っとるだけやがな」

昌子さんの言うことは、いちいち尤もでした。保存会には関わることが無いため、一般人の、至極常識的な意見だからです。外部の人から見たら、内部のつまらないプライド同士のつばぜり合いなど、まったく理解できないことなのです。

ただ、もめ事はいつも、その理解できないことを、譲れないことが原因になって起きているのでした。

よっさはこの一週間、むかっ腹の立つことばかりでした。会長とケンカしてからと言うもの、ただでさえムカムカしながら数日を過ごしていたところ、急遽新しい当番表が配られ、自分の名前が全て消去されていたのです。

自分の替わりに入っていたのは、鷲見正義という、まだ二十八歳の若手です。素直で気立てのいい青年で、よっさも可愛がっていました。飲み込みも早いので、いずれは屋形のレギュラーになるだろうと思っていました。

ただ、「俺のレベルにはまだまだ」と、高くも無い鼻で天狗になっていました。

発祥祭には、とりあえず保存会の浴衣を着て出て来ましたが、屋形にも上がれないまま、踊りのメンバーに混ざるのもみっともなくてできません。屋形も踊りも、参加するメンバーはみんなそちらに出払っていて、待機所には数人しか残っていません。その数人も、あえてお囃子の話はせず、どうでもいいテレビ番組や、芸能ニュースばかりを話題にしています。まるでお囃子のことは、触れてはいけない話題のように避けています。

本当はそうでもないのですが、よっさのひがみ根性が、そう思わせるのです。

自分が屋形のレギュラーになってから、この発祥祭の華々しい日に、歌えなかったことなどありません。待機所でお留守番というのは、どうにも納得がいかないところです。若手だった頃ならともかく、ベテランと呼ばれる年齢になってからは、こんな惨めな待遇を受けたことはありません。

ならば、いっそ出て来なければいいのに、と思うところですが、それはそれで、昔の女に未練を残している男のように、なかなか思い切ることもできないまま、様子は気になるのです。そしてのこのこと出て来て、あたりに不機嫌をまき散らしているのでした。

今日、家を出る前に、不機嫌な顔をして浴衣を着ていると、奥さんの昌子さんに聞かれました。

「なんよ、今日、行くんか」

「…」

「おまん、今年は行かんって言いよったがな」

「…」

「そんに不機嫌な顔してなら、行きなれんな。周りのモンに嫌われるで」

「…」

「返事も出来んのんか!全く、可愛らしょうないんやで」

「…」

昌子さんの言い分は尤もですが、よっさは不機嫌すぎて話しかけられるのも嫌だったので、何もしゃべらず家を出て来ました。

とは言え、よっさがどんなに不機嫌であろうとも発祥祭は時間通りに始まります。よっさがいなくても、滞りなく進められて行きます。

待機所で座ったまま、よっさは屋形の歌に耳ダンボになっていました。まーくん以外は、今まで一緒に屋形に上がっていたメンバーです。

―なんよ、江藤のやつ、相も変わらず息苦しそうな歌い方しやがって、聞いとるこっちまで苦しゅうなってくるわ。はるサもや。あんだけ俺が、そこは息継ぎせんと、一気に歌わなぁだちかんって散々言ったに、ちっとも直っとらんもなぁ。どいつもこいつも、教えてやっても、ちっともそのように歌わんのやで。まったく、ろくでもないヤツばっかや。

大体、会長が何を言ったところで、「今までの功績も考えて」取り成したろうってやつはおらんのンか。今日になっても、みんな知らん顔しやがって。いっくらメンバー表に名前がのうても、「よっさ、上がって歌わんか」くらいの声、誰か一人くらいかけて来ても罰は当たらんろ。

それとも…、一服盛ったれ思われとったのは、俺も同じやったんか。

よっさは冷遇され始めて、初めてみんなの冷たさを実感しました。今までも、会長に意味不明な難癖をつけられ、怒られたり、怒鳴られたりして会を辞めていった人は何人もいました。

そんな時、よっさはまるで知らん顔していました。変に庇い立てすれば、自分に火の粉が降りかかって来て、会長の難癖の矛先が自分に向くのが鬱陶しかったからです。

今のみんなもそれと同じで、そんな思いやりや親切心をよっさに示せば、会長に何を言われるかわからないため、知らぬ存ぜぬを決め込んでいるようなのです。

もともと、人の忠告には全く耳を貸さず、自分が一番とばかりに得意満面なよっさのことは、一度くらいあの鼻もへし折れれば、いい薬になるだろうくらいの気持ちの会員も大勢いるのでした。

よっさは、意地の悪い会長と、冷たい仲間たち(自分もいままではそうだったのですが)に、ずーっとイライラしながらお囃子を聞いていたのでした。

そして、よっさを一番焦らせたのは、他ならぬまーくんでした。古参のメンツたちは(よっさを含め)、自分の癖というのが出てしまっています。それを味だと言ってしまえばそれまでなのですが、まーくんの歌い方は、変に技に走らない、素直な歌い方で、若いせいか、もともと肺活量があり、声量も際立ってあるので、一番上手に聞こえました。稽古の時とは違って、まーくんも屋形の上から、踊り手たち相手にのびのびと歌っていて、いつもよりも更に声が出ているような気がします。

よっさは、まーくんのことは、今年一年だけの、自分のスペアだと、勝手に思い込んでいました。

今日の歌を聞いていると、自分と他のメンバーとの交替はあったとしても、まーくんとの交替は無いような気がします。よっさは、まーくんが、今日一日でレギュラーの座についてしまったと、確信しました。踊り手たちの反応を見ても、古いメンバーより、まーくんが歌っている時の方が盛り上がっています。このままでは、まーくんが自分のスペアではなく、自分がまーくんのスペアになってしまいます。これから先、ずっと補欠のままでいるのは、どうにもプライドが許しません。といって、今日の様子では、まーくんを補欠に回すのは難しそうです。

よっさは気付いていませんが、そもそもこの考え方が間違っているのです。

ベテランと若手を組ませて、徐々に場慣れさせ、育てていけばいいのに、今の状況では、よっさを含めたベテラン連中みんなが、俺の座を譲る気は無いとでも言いたげに、若者の台頭を阻んでいるのです。病気や怪我で欠員が無い限り、簡単には若者を屋形に上げて歌わせる気は無いのです。自分の席だけは確保したいのです。経験を積ませて若者を育てるどころか、目立ちたいばかりのベテランたちは、当番表に名前がなくても、勝手に出て来て屋形に上がったが最後、若者を押しのけて居座り、終わりまで降りないのです。

ムスッとした顔のまま待機所にいると、踊り場から休憩に来た保存会メンバーが、帰ってくるなり言いました。

「やっぱ、若いモンが歌うと、お囃子も生きが良うなるんなぁ」

よっさはムスッと黙った顔のままで、

「悪かったな、年くっとって」

と、心の中でどぶつきました。会長や屋形のメンバーだけでなく、他の保存会メンバーにまで馬鹿にされているような気にもなって来ました。負のオーラに分厚く包まれているよっさには、待機所にいるメンバーは誰も話しかけません。

「練習の時より、よう声も出とるし、まーくんは顔つきも楽しそうでええわ。自分の歌でみんなが踊ってくれとるのが嬉しいみたいでよ、そういう気持ちが顔に表れとるわ」

それを聞いた待機所のメンバーが言いました。

「まーくん一人で、そんに雰囲気違うか」

「そら、おまん、あとは年寄りばっかやでンなぁ。みぃんな我が出とるで。その点、まーくんは、下手なかっこつけの歌い方はせんがな。やで、みんな踊りやすいんや」

よっさはまた、ムスッとした顔のまま、

「悪かったな。年寄りで、我が強うて、かっこつけで」

と、またしても心の中でどぶつきました。

不機嫌を隠そうともしないよっさに、休憩のために待機所にやってきた保存会メンバーが、極めてわざとらしく聞きました。

「あれ、よっさ、こんなとこで何しとるんよ?」

もともと嫌われ者の部類ですから、ここぞとばかりに言う人は言います。よっさは、

「たまには留守番もええろ。シーズン中、歌ってばっかでは疲れるで」

と、心にも無い強がりを言いました。

「なんよ、留守番みたいなしとらんでも、踊ってきてみなれ。今日は初日ってこともあるけんど、かなり盛り上がっとるで。楽しいで」

「俺に踊れって言うんか」

よっさは、「お前、正気か」と言いたい衝動に駆られました。この、歌のエースの俺様に、屋形の下で、他のヤツらの歌を聞いて踊れだと?この俺様を誰だと思っているのか。

相手は全く意に介さず、続けます。全く、ここぞとばかりでず。

「おまん、たまには踊ることもええで。踊るとよ、誰の歌が踊りやすいか、踊りやすいのはどしてか、逆に踊りにくいのは誰で、どしてか、よう分かるに」

俺がろくに踊らんで、踊りにくい歌しか歌えんって、そう言いたいんか。

次々と腹の立つことを言われ、よっさは待機所に座っているのも嫌になって来ました。踊ってみようという気には、少しもならなかったけれど、とりあえず、様子を探ってみようと、踊り場まで出て行きました。そして、輪から少し離れたところに立って、大勢の踊り手たちを観察し始めました。

輪の中には、顔見知りも大勢いましたし、これが初めてかと思われる観光客も大勢いました。よっさは、郡上踊りにとって、自分は重要人物だと思っていたのに、こうして見ていると、みんな一様に楽しそうで、自分なんかいなくても、十分踊れているじゃないかと、急に怒りの気持ちが遠のき、寂寥感に襲われました。自分なんかいなくても、代わりの人間はいるし、お囃子があれば踊りは出来るし、俺の歌でなくては踊れないと、誰か言ったやつはいたのか。

誰にも言われたことはありません。歌が上手だと言われたことはありましたが、最近は歌い方がネバくて踊り難いとさえ陰で言われていることを、よっさは知っていました。ろくに歌えもしないヤツらに、何がわかるかと取り合わなかったけれど、歌わなくても踊れる人たちが、よっさの歌では踊り難いと言っていたのです。

よっさは若い頃、今や伝説の歌い手と言われている保存会の先輩に、歌を教えてもらっていた時のことを思い出していました。

生まれも育ちも八幡のよっさにとって、屋形で歌うおじさんたちは、憧れの存在でした。普段はどうということもない町のおじさんたちが、屋形で歌い始めると、途端にかっこよく見えました。踊りに来た人々の動きを、屋形のお囃子が支配しているかのような、そんな感じがたまらなくかっこよく思えていました。

その中でも、他を寄せ付けないほどの人気の歌い手さんだったのが、その先輩でした。その人が歌い始めると、休憩中の人たちまでが踊り始め、踊りの輪が大きくなるという歌い手さんでした。

自分はまだまだ若手で、早くあの人のようになりたいと思っていました。

初めて屋形に上がり、ベテランに混ざって歌った時は、とても緊張しました。とにかく、教えてもらった通りに歌おうと必死でした。そんなよっさに、

「おまん、何をそんに固うなっとるんよ?おまんが楽しゅうなかったら、みんなも楽しゅう踊れんがな。おまんは歌い手やけんど、歌う時には、一緒に輪の中で踊っとる気持ちになっとらなぁ、だちかんで」

と、その先輩は言ったのです。

…いつの間に自分は、楽しんで踊ってもらいたいという気持ちを忘れて、自分の歌を聞かせようと思うようになってしまったのだろうと、よっさは思いました。郡上踊りは、踊りが主役なのです。歌は踊りを引き立てるための、脇役なのです。それなのに、今ではその人に教えてもらった歌い方とは、かけ離れた歌い方になってしまっています。

俺の歌が一番と思っていたのは、自己満足が生み出した、ただの勘違いだったのか。

「お久しぶりです」

振り返ると、常連客の一人がよっさの後ろに立っていました。

「あれ、確か、名古屋の人やンなぁ」

「はい。今年も始まりましたねぇ。毎年、お正月が過ぎたら、早く夏が来ないかと、踊りのことばかり考えてるんですよ」

「そら、ありがたいお客様や」

「今年は屋形じゃないんですね。珍しいですよね?」

「まぁ、そういう時もあるってことやンな」

「そうなんですか、今年はお一人、若い方が上がってらっしゃるのね?」

「若いモンには場数踏ませなぁ、上達せんで」

「そうですよね、実践で鍛えられるんですもんね」

このおばさんは、今日のよっさの心が、ひがみと寂しさでほぼ満タンなのを、当然ながら気付きもせずにしゃべります。

「お囃子は当番制になっているんですか?今度屋形に上がられるのはいつなんですか?」

「いや、今年はもう歌わんかもしれん」

よっさが言うと、そのおばさんは心から驚いた様子で、

「えぇっ?どこかお悪いの?ご病気でもされたの?」

と聞きました。よっさは、イヤ、会長の性格がお悪いの、脳みそがご病気なのといいたい気持ちにもなりましたが、部外者に会長の悪口を言うのもみっともないし、そんな自分が余計に空しくなりそうな気がしたので、

「そんなわけでもないけんど、まぁ、あんまり古いやつが幅利かせておってもな」

と言いました。

「そうなの?若い子が歌うのもいいけどね。でも、私らみたいな古いモンは、馴染みの声が聞こえると、それはそれで嬉しいんだけど。

あ、かわさき始まった!踊ってくるね!」

そう言っておばさんは、踊りの輪の中に入って行きました。

よっさは、おばさんの何気ない一言に、不意に泣きそうになりました。ずっと、誰かに言って欲しいと思っていた言葉でした。

―そうや、馴染みがあるんや。もう長いこと歌ってきて、俺の歌が気に入らんでも、好きでのうても、俺の歌で、また今年も踊りに来たな、と思っておくれる人がおるんや。

その日、自称歌のエースのよっさは、おばさんの言葉に慰められて、一曲も歌うことは無く、踊会場を後にしたのでした。


その数日後、再び喫茶店でコーヒーを飲むおじさん二人。

「たけマ、この前の発祥祭、よっさ見かけたか?」

「おー、踊り場にも来とったがな」

「待機所やのうてか?」

「おまん、待機所にも、そんにずぅうっと座っとれんで。今まで、俺が一番、みたいな顔で、屋形にしかおらなんだもンが、不機嫌な顔して待機所におっても、他のモンが休憩にも来られんがな。誰やらに踊り場見て来いとか、踊って来いとか言われて、眉間に皺作って出て行ったって話やで」

「誰が言ったか知らんが、よう言ったったな。休憩所にも居場所のうて、踊り場見に来たんやな」

「ま、そんなとこやろ」

「まーくん、評判ようて、保存会にも若いモンがおること、お客さんにもわかってもらえて、良かったがな」

「まあなぁ。やけんど、きすけさ、常連に、よっさどうかしたんかって聞かれなんだか?」

「おまん聞かれたんか?」

「おー、よう見る人やで。親子かもしれん。二人で並んでおいでて、年配の方の人が、屋形指差して、いつもおいでる人、今日はおいでんなぁって」

「そんに郡上弁で聞いて来たんか」

「はずがないがな。春日井の人やで、あの辺は名古屋弁か?」

「そうか」

「屋形も平均年齢高いでンなぁ。いつもの顔が見られんと、寂しいし、心配にもなるって言っといでた」

「ありがたいことやんなぁ。常連客はしゃべったことものうても、知り合いみたいに思っておくれる人も多いでンなぁ」

「どうもせん、元気や、そのうち出て来るで、心配しなれんなって言っといた。

毎年、当ったり前にみたいな顔で屋形におったモンが、発祥祭みたいな日におらんと、やっぱり、どうかしたんかと思うんやろな。殺しても死なんオッサンやって言おうと思ったけど、ま、それは言わなんだ」

「まぁなぁ、正直過ぎるのがええ訳でないでンな。

しかし、よっさ、このまんま、ずっと歌えなんだら、そのうち病気になるんないか?あんだけ目立ちたいばっかのモンが、いっぺんも屋形に上がらんでは、ひがみ過ぎて病気になるぞ」

「殺しても死なんモンが、ひがんで病気か。まぁ、本当にひと夏、全く歌えなんだら、よっさ、いよいよはげるかもな」

「おまん、はげは病気やなかろ」

「心を病むとはげるがな。このまんま歌わせてもらえなんだら、今年の夏が終わるころには、つるっぱげになっとるかもしれん」

「どこまではげさす気や」

オッサン二人が好き勝手をしゃべっているうちに、盂蘭盆会の徹夜踊りが近づいて来ました。盂蘭盆会は、発祥祭以上に、シーズン中一番の山場です。観光客は朝から町中に溢れかえり、演奏中の屋形は、いつもテレビ局や新聞社の取材カメラに囲まれてます。必然的に、お囃子のメンバーは、単独でコメントを求められることもあり、田舎者だけに、勘違いしやすい人は、それだけでちょっとした有名人気分になってしまうのでした。

自分が固定レギュラーだと、勝手に思い込んでいたよっさも、勘違いしやすい人なので、例に漏れず、自分は有名人だと思っていました。何度か取材も受け、テレビにも出たことがありました。その自分が、一度もこの盂蘭盆会のうちに屋形に上がらないのは、なんとも情けない気持ちでした。

噂に聞くと、今年は名古屋のテレビ局が、まーくんにスポットを当てた郡上踊りの番組を製作するらしいのです。伝統の郡上踊りを支える保存会と若い力、みたいな感じらしいです。

どうやら、発祥祭の取材に来て、まーくんの初舞台を知り、今年の夏は、ずっとまーくんを追いかけた番組を作ることに決まったということです。今年から屋形に上がって、実践一年目ということで、番組も作りやすいのでしょう。

―まぁ、今まで年寄りの取材ばっかやったでンなぁ。そら、若いモンもこんだけやっとるってとこを見せたほうが、番組も面白いわな。

よっさは、自分が取材されている時には、得意満面で、周りも見えていませんでしたが、仲間外れにされた途端に、そんな風に思うようになりました。

取材する側も、毎年同じおじさんたちが、毎年歳を取っているだけでは、どこからネタを探そうかと迷うところです。伝統の郡上踊りは人気もあり、話題性のあるイベントですが、通り一遍のことを取材しても、面白い番組は作れません。どこにどうスポットを当てるかは、悩みどころなのでしょう。今年はいつも同じ顔ぶれのオッサンもしくはジイサンのなかに、久々に独身の若者が入ったということで、これを使わないテはありません。

よっさは、悔しい気持ちもありましたが、若手を押しのけて、いつもいつも屋形に上がっている同じ顔ぶれのオッサンたちを、段々、みっともないと思うようになりました。去年までは自分もそうだったのですが、

―もう少し、おじいを減らして、若いやつを歌わせてやらんと。

歌えなくなって、屋形の下で踊りを見るようになってから、そう思うようになりました。

事実、真面目に練習していても、なかなか実践のチャンスを与えられないことで、保存会から遠のく若者もいるのです。


お盆になりました。

数日前からよっさは浮き浮きしていました。なぜかというと、盂蘭盆会の徹夜の時に、自分にも歌う機会が与えられたからです。

盂蘭盆会は、夜の八時から明け方まで踊りがあります。それが四晩続くので、保存会はほぼ総動員で、グッズ販売から踊りの列の整理もやれば、踊り上手な人にはお免状を発行したりします。徹夜の時は初めて踊りに来る観光客も多いため、列に入って踊ることもしなくてはなりません。保存会の浴衣は、踊れない人たちにとって、お手本の目印になるのです。

お囃子も当然総動員で、一晩のうちに何度か交替するので、使えそうな人は皆リストアップされいてます。その中に、よっさの名前もあったのです。

今シーズン、よっさの奥さんの昌子さんは、ずっと浴衣を着て出かけて行っては、しょんぼりして帰ってくる亭主を心配していました。

発祥祭には怒った顔で出ていきましたが、その後は踊りに出かけるたびに、怒った顔が段々悲しい顔になっていくので、早く歌えるようになるといいのにと思っていました。どんなに癇癪持ちの怒りんぼでも、昌子さんにとっては大切な旦那様でした。おこりんぼは相変わらずでしたが、最近、めっきり笑顔になることが減ってしまったので、そっちが気になっていました。

それが、徹夜の日には歌えるとわかり、よっさよりも、昌子さんのほうがほっとしたのでした。

よっさ自身、歌えることがこんなにも待ち遠しかったことは、ここ数年ありません。

当日、当番の時間になって、屋形に上がろうと待っていると、何人かの人に声を掛けられました。

八幡は小さな町なので、ちょっとしたことも、すぐ噂になって広まってしまいます。よっさが会長と揉めて、挙句に今年は干されているということは、町の中ではすっかり知られた話なのですが、常連の踊り客でも、遠方から来る人たちには、なかなかそこまでのことは耳に入りません。そのため、よっさがずっと屋形で歌わないことを、心配している踊り客もいるのです。

「今日は屋形に上がるんですか?」

「まぁ、久々に」

「ほんとですね、久々に。ずっと心配していたんですよ」

「心配されるようなことでもない」

「それなら良かった。今日はよろしくお願いしますね」

よっさは嬉しくなりました。顔見知りの踊り客に声をかけられ、励まされた気分になりました。みんな、俺のことを忘れてしまったわけではないのだと、気持ちが浮き立ちました。

いよいよ、今年の初舞台です。

気分よく屋形の下で待っていると、会長がやって来ました。シーズン始まってから、よっさはなるべく顔を合わせたくなかったので、いつも会長から離れたところにいました。それが、向こうがわざわざ近付いて来るので、何かと思ったら、

「徹夜の時はお囃子も長丁場やで、おまんにも上がってもらわんならんようになったが、交替の時間はきっちり守っとくれ」

と、勝ち誇ったような表情で偉そうに言うと、よっさが何か言うのを待たずに、すたすたと歩いて行ってしまいました。

ちっ。せっかくの浮かれ気分も、みるみるうちにしぼんでしまいました。まるで、人手不足のための臨時雇用者は、用が済んだらとっとと立ち去れと言われているのと同じです。

よっさは二番目のグループだったので、時間になって屋形の上のメンバーが下りてくるのを待っていました。

この屋形当番で問題なのは、三味線などの囃子方は、ちゃんと時間で交替するのに、音頭取りと言われる歌のメンバーが、時間になっても交替しようとせず、ちっとも屋形から降りて来ないのです。俺が俺がの自己顕示欲の強いやつばかりが座り続けているので(よっさも去年まではそうだったのですが)、歌のメンバーの交替表は、有形無実の状態が続いているのでした。

そして、屋形に座り続けて、徹夜で何時間も歌っているので、最終日など声も涸れてしまって、風邪でも引いたかのような声で歌う人もいるのでした。そんな声になっても、若手に譲ろうともせず、下手な歌を聞かせ続けているのに、会長もそれについては、何の注意もしないばかりか、改善策を考えようともしないのでした。

よっさは、今年何度も踊り場に来て、久々に屋形の下で踊る人々と、同じ目線で屋形を見ました。屋形に上がっていた時は、いかにして自分の歌を聞かせるか、どう歌えば、より上手に聞こえるか、そんなことばかり考えていました。下で見ていると、踊り手たちが歌のテンポにいかに敏感に反応するか、歌詞のトチリや歌い手の息切れに、いかに遠慮なくブーイングするか、屋形で得意になっていた時には聞こえなかった声が、はっきりと生の声で聞こえてきます。

―交替もせんと、声が出んようになっても、若いモンに譲らんと、年寄りが歌っとるがなぁ。そんな歌で踊らんならんのも、客が気の毒ってもんや。

去年までの自分はさておき、今夜ばかりはそうはさせるかと、よっさは屋形をにらみ続けていました。まーくんが降りて来て、よっさに声をかけました。

「お疲れ様です」

「おー、お疲れさん。今年は大活躍やんなぁ」

「いえ、まだまだです」

「おまんの歌、評判ええし、すっかり一番の人気者や」

「ありがとうございます。でも、屋形に上がると、当たり前やけんど、踊れんのが残念なんや。歌っとるうちは、踊るわけにはいかんでンなぁ。休憩したら少しは踊ろうと思うけど。この後、お願いします」

そう言って、まーくんは待機所のほうに歩いて行きました。さわやか好青年です。

よっさは周囲を見回しました。交替要員は自分以外来ていません。そして、屋形で歌っているオッサンたちは、まーくんが降りてきた後は、誰一人降りてこようとしません。

つまりは、去年までと同じです。自分も同じでしたからよくわかるのです。ベテランのオッサンたちが時間が来ても譲ろうとせず、交替時間を守ろうともしないため、交替要員もそれがわかっていて、集まってこないのです。若手のまーくんだけが、よっさの姿を見つけて、時間通りに屋形を降りて来たのです。

よっさは屋形の年寄りどもにはらわたが煮えくり返りました。最初から諦めて、屋形に集まっても来ない交替要員にもムカムカしていました。

よっさは屋形に登ると、交替時間になっているのに動こうともしないオッサンたちに言いました。

「おまんた、早う休んで来んかい」

そう言うが早いか、屋形のマイクの一つを取り上げ、

「十一時の当番のモンは、早う屋形に来てください。囃子方は揃っとるが、音頭取りがまんだ来とらん。早う来てください」

と言いました。

「なんよ、おまん、いきなり上がってきたと思や、何言うんよ」

「何言うんよ、やないがな。おまんたこそ、時間になったに、どして降りんのんよ」

「交替のモンが来んでやがな」

「おまんたが譲らなぁ、屋形にも上がれんがな。早うのかんかい」

「おまん、自分こそ去年まではその筆頭やったがな。自分のこと棚に上げて、よう言うな」

「会長が交替時間はきっちり守れって言ったんや。さっき聞いたばっかやで。それ忘れるほどは、まんだ耄碌しとらんで。今年は時間厳守で交替らしいで!会長のお言葉や!」

そこでまた、マイクを取り上げて言いました。

「会長、会長。交替時間を守らん人がおるが、そのあたりは連絡徹底しとるんか?会長、どこにおいでるんや?」

会長が慌てて走って来ました。

「おまん、たーけかっ!こんな時に、お客さんも大勢おいでるに、わからんか!みっともないことするでないわ!」

会長は、怒りのあまりに、頭から湯気が出そうなほどです。よっさはマイクを手にしたまま、会長に向かって言います。

「おまん、会長の癖に、言うことが一貫しとらんのはおっかしいがな。きちんとみんな交替せなぁ、だちかんがなぁ」

「おまん、降りてこい!」

「俺はこれから当番やがな。降りてどうするんよ。これから仕事せんならんに。おまん、時間通りにやれって言ったろ。他のモンにもしっかり伝えなぁだちかんがな。

ほれ、当番のモンが集まって来たで、ほれ、何しとるんよ。おまんた、屋形の今まで歌っとったモン、早う降りんかい。おまんたが降りんで、当番のモンが上がれんがな。ほれほれ、おまんたのせいでお囃子が始まらんがな。お客さんが待っておいでるの、わからんか。ほれほれ、早う降りんかな」

そこまで言うと、踊り客から拍手が起きました。マイクはずっと入ったままで、よっさの言葉は会場に響き渡っています。

屋形の上の音頭取りは、憮然とした顔でしぶしぶ降りてきます。会長は血管が浮き出るくらいに興奮して、だらだら汗をかきながら何やらわめいています。徹夜の踊りで、こんな中断があったのは前代未聞です。

「これから二時間半は、今までとちょっと違った音頭取りがやらせてもらいます。不慣れな分、とちることもあると思うけンど、そこらはごめんしとくれ」

よっさが言うと、踊り手たちがどっと笑いました。そして、慌てて集まって来た、滅多に見ない顔ぶれの音頭とりたちが屋形にそろいました。踊り手たちにとっては、馴染みの顔はよっさくらいです。

交替要員の音頭とりたちは、どうせ例年通り、最初から最後まで、レギュラー陣が「俺がやらねば誰がやる」くらいの勢いで歌い続けるだろうと思っていたので、一応会場には来ていましたが、本気で歌うつもりはありませんでした。今年もまた、ベテラン連中に阻まれて、歌わせてはもらえないだろうと思っていたのです。なので、本当に歌わせてもらえることになって、驚いているのも事実でした。

屋形に上がったメンバーは、一様に緊張した面持ちです。

「おまんた、今日は死んでもええぐらいの気持ちで歌うんやで。

やけんど、歌のことばっかに必死になってもだちかんで。自分が踊りの輪の中で、歌いながら踊っとるような気持ちでやるんやで。踊り手の気持ちになって、自分も楽しゅうなけらなぁ。こんだけ楽しかったら、明日死んでも後悔無い、くらいの気持ちになるように歌うんやで、ええか?」

お囃子が始まりました。

ベテランのよっさの指示にしたがって歌いながら、若手たちは、何コーラスずつ歌うか、どう順番を回すか、一生懸命です。それは自ずと踊り手たちにも伝わります。気合を入れて真剣に歌っているので、途中で文句をとちることもなく、合いの手もピッタリです。その雰囲気に押され、よっさも真剣です。踊りの輪は大盛り上がり大会になりました。踊り手たちの合いの手も、まるで練習してきたかのようにピッタリです。曲が変わっても人が減ることはありません。

二時間半があっという間に終わり、交替の時間になりました。今までのよっさなら、平気で屋形に残っていましたが、今回ばかりは潔く降りて来ました。というのも、今までにないほど全力投球で歌ったため、疲れ切っていたからです。

肩で息をする、という言い方がありますが、本当にそんな感じで、精根尽き果てたよっさたち一団が降りてくると、踊りの輪から大拍手が起きました。

「こんに楽しゅう踊れたお囃子、俺知らん」

そう言いながら、踊りの輪から人をかき分けて、まーくんが近付いて来ました。いつの間にか休憩を終えて、よっさたちのお囃子で踊っていたようです。

「みんな上手やんなぁ。俺も負けとれんで、明日も頑張って歌うわ。正直言って、こっちのグループに混ぜてもらいたいくらいや。こんに盛り上がったこと、いっくら徹夜でも、俺、覚えないわ。子供の頃から通っとるけど」

「そうか、そんに言ってもらえると、俺も嬉しゅうなってくるわ。明日からも頼むンな」

「明日は、吉田さん、いつが当番や?」

「今日と同じのはずや」

「そうか、また同じメンツか?」

「そうや」

「また楽しみやんなぁ。明日もこの時間は絶対踊ろ。待機所で休憩なんかしとれんがな。踊らなんだら勿体ないわ」

よっさは、まーくんの言葉に泣きそうになりました。踊り手たちを楽しませるために、お囃子はあるのです。自分が忘れてしまいそうだったことを、この人の好い若造の素直さが思い出させてくれたのです。

「会長がまた怒るかもしれんが」

よっさが言うと、

「何言うんよ。こんに盛り上がって、みんな拍手して、喜んどったがな。こんだけのこと見てから怒るモン、八幡から追放やで」

まーくんが踊って汗をかいた顔を拭きながら、笑って言いました。

よっさは、今度こそ涙が溢れてしまったので、汗を拭く振りをしながら、手拭いで顔を覆いました。

「また、明日な」

そうまーくんに言うと、会場を後にしました。

屋形には、次のグループが上がっていました。当番表にある通りのメンバーが、ちゃんと集まって来たのです。

「前の組に負けんように頑張って歌います!夜明けまで踊っとくれ!」

会場から歓声が上がりました。




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― 新着の感想 ―
[良い点] どうしようもない、おっさんたちの描写がすごくよかったです。本当にそのへんにいそうな、小物なんだけど愛すべき感じ。 そして、そんなよっさが変わるところがあざやかでした。 あと、こちらのシリー…
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