守り猫3
大好きな先生がいなくなってしまうのは寂しいです。自分が次のステップに進むとき、新しい先生が力を貸してくれることがあります。
「これ、お守り」
「何?これ」
光ちゃんの手のひらに黄色と茶色と黒の混じった猫の形をした石がのせられました。光ちゃんの手のひらにのせたのは、近所に住むお姉さんです。結婚して遠くへ引っ越してしまうからと光ちゃんの家に挨拶に来ていました。
近所に住むお姉さんはピアノの先生で光ちゃんと同じくらいの子供たちにピアノのお稽古をしてくれていました。光ちゃんはみんなと一緒に、綾ちゃん先生と呼んで慕っていました。
綾ちゃん先生はピアノを弾くのが大好きです。綾ちゃん先生がいつもにこにこしながらピアノを弾くので光ちゃんや他の子供たちも楽しくお稽古をしていました。
「綾ちゃん先生じゃないなら、もうピアノのお稽古しない」
綾ちゃん先生がこの町から遠くに引っ越してしまうと聞いた光ちゃんと仲の良かった友達は次々とやめてしまいました。残ったのは智くんという幼稚園が一緒の男の子と光ちゃんよりいくつか年上の井上さんというお姉さんだけでした。
井上さんは小学生になった頃からピアノのコンクールに出場するようになり、綾ちゃん先生から別の先生を紹介されていました。光ちゃんと智くんにも、綾ちゃん先生の先輩で男の先生を紹介すると光ちゃんや智くんの両親に話しています。
智くんはピアノを続けるようでしたが、光ちゃんは迷っていました。友達と一緒に通うのが楽しかった光ちゃんは一人になってもピアノを続けられるかどうか心配だったからです。
綾ちゃん先生は猫の形をした石を光ちゃんの手のひらにのせてから、ぎゅっと光ちゃんの手を自分の手で包みます。
「ピアノが嫌いならやめていいの。でも、もし続けたいと思うならこのお守りが力を貸してくれるわ」
光ちゃんは迷うようにまばたきを繰り返してから、こっくりとうなづきました。
(綾ちゃん先生じゃないならつまらない)
そう思いましたが、綾ちゃん先生をがっかりさせたくなかったので、さよならとありがとうだけを伝えてお別れをしました。
光ちゃんを教えてくれる先生は、優先生といい眼鏡をかけていました。光ちゃんがピアノを弾いている間、細くて白い指を顎にあてて何か考え事をしています。ドキドキしながら弾き終えた光ちゃんに、優先生は優しく語りかけました。
「光ちゃんはピアノの発表会にでたことはある?」
光ちゃんは驚いて首を振りました。綾ちゃん先生は何度か光ちゃんに声をかけたことがありましたが、そのたびに光ちゃんは断りました。みんなが見ている前でピアノを弾くだなんて考えただけで倒れてしまいそうです。みんなは、発表会に出ていましたが光ちゃんは遠くからみんなの様子を見ているだけでした。
優先生は、しばらく人差し指で顎をトントンと叩いて天井を見てからこう言いました。
「じゃあ、コンクールに出てみるのはどう?」
「コンクール…」
今度は思いきりよく首を横に振りました。光ちゃんは井上さんがコンクールに出ていることを知っています。発表会とは違い、審査をされて賞をもらったりするのです。もちろん、光ちゃんは自分が賞をとれるとは思っていません。ですが、審査員が見る中でピアノを弾くだなんてもっと無理だろうと思いました。
うつむいてしまった光ちゃんに、優先生が大きな声で言いました。
「もったいないなぁ」
驚いて見上げる光ちゃんに、優先生はにっこりと笑います。
「もったいないよ。光ちゃんがピアノの練習して、とっても上手になったの誰も知らないんだから」
光ちゃんはうつむいてしまいました。ピアノのお稽古は嫌じゃないけれど、誰かに聞いてもらうだなんて考えられません。
(知ってる人ばかりじゃないんだもの)
光ちゃんが黙ってしまっのを見て、優先生はもう一度最初から弾くようにと言いました。いつもと同じ、ピアノソナタから指を慣らして光ちゃんの好きなアニメの曲をアレンジしたものを弾いたり、優先生に頼んで光ちゃんがまだ弾けない難しい曲を弾いてもらいます。
(もっと上手に弾けるようになりたいな)
静かな部屋で優先生が目を閉じて笑みを浮かべるのをそっと盗み見ます。優先生のまぶたがぴくりと震えているのを見て、慌てて鍵盤に向かいました。ドレミの歌、きらきら星に猫踏んじゃった。光ちゃんの指がなめらかに、時にはつっかえたりしながら動いていきます。
発表会やコンクールに出たいとは思いませんでしたが、もっと色んな曲を弾いてみたいと思いました。
(コンクールに出てみたら良いのに)
(え?)
小さく凛とした声に思わず指を止めました。
「どうしたんだい?」
突然弾くのをやめてしまった光ちゃんに優先生が不思議そうに聞きました。
「今、あの…」
何か話さなかったかと聞きかけて光ちゃんは口をつぐみました。どうやら優先生は何も気づいていないようです。光ちゃんはなんでもないと首を振ってもう一度弾き始めました。
(僕だったら出るのにな)
今度は椅子から飛び上がりそうになりました。
「どうしたんだい?光ちゃん」
驚いて鍵盤を強く叩いてしまい、その上めちゃくちゃに弾いてしまったので、優先生も驚いているようです。ごめんなさいと謝ってすぐに弾き始めました。まさか変な声がするだなんて言えません。冷や汗が出そうな思いで指を動かしていると今度は凍りつきそうになりました。光ちゃんの親指ほどの猫が、鍵盤の上にちょこんと座っているのです。茶色に黒が混じったような毛に、金色の瞳が光っています。
「光ちゃん、今日はここまで」
はっとして優先生の方を見ると時計を見て時間だと言いました。すぐに鍵盤に目を向けましたが、小さな猫はどこにもいませんでした。
楽譜を鞄の中にしまう時に、優先生からもらったコンクールのチラシを押し込みます。
「もし、光ちゃんが出たいと思たら教えてね」
(コンクールに出てみたらいいのに)
優先生の声とさっきの凛とした不思議な声が重なって聞こえたような気がしました。光ちゃんはこっくりうなづいて、優先生にさよならを言いました。
家に帰ってから光ちゃんはコンクールのチラシを持って、じっと考え込んでいました。あの声はなんだったんでしょう。あの小さな猫はどこから来たのでしょう。光ちゃんはチラシを楽譜の一番最後のページにはさんでから、今日の復習をしようとピアノに向かいました。指を動かしながら猫がまた現れるんじゃないか。不思議な声が聞こえるんじゃないかとドキドキしていましたが、一度も現れることはありませんでした。
優先生のピアノのお稽古の日がやって来ました。光ちゃんはまたコンクールについて優先生が話すのではないかと思いましたが、いつも通り練習が始まりました。先週つまづいたところはなめらかに、練習してもつっかえてしまう部分もありますがいつも通りの練習の時間を過ごしていました。
「ここ、もう一番弾いてみようか」
「はい」
光ちゃんは内心がっかりしていました。早く次の曲を弾けるようになりたかったからです。指を動かしていると間違いやすい箇所にさしかかり、光ちゃんの肩に力が入ったその時です。小さな猫が鍵盤をぽんっと跳びはねる様子が見えました。光ちゃんは驚いて猫の後を追うように指を動かしていました。光ちゃんが指を動かしたのを確認して猫はステップを踏むように鍵盤の上を跳ね回ります。光ちゃんの指と小さな猫のダンスのようでした。肩の力がいつの間にか抜けて、綾ちゃん先生とピアノの練習をしていた時のことを思い出しました。
(楽しい)
弾き終わって優先生の方を見ると優先生もにこにこしています。
「うん、のびのびと弾いていて良かったよ」
さあ、もう一回と言われて光ちゃんはがっくりと肩を落とします。けれどもまた鍵盤に指をのせました。小さな猫が光ちゃんが指を動かすのを待っています。光ちゃんはさっと指を動かして、右に左に跳ね回る猫と短いダンスを踊りました。
優先生は優しくて良い先生です。だけど、綾ちゃん先生がいなくなってしまったことが寂しくてこうして楽しい気持ちでピアノを弾くことが少なくなっていました。
(出てみようかな、コンクール)
何度か弾く内に、光ちゃんの中でぽかぽかした気持ちでいっぱいになっていきました。
光ちゃんは優先生にコンクールに出たいと頼みました。優先生は喜び、それ以来、熱心に少し厳しくなりました。光ちゃんのコンクール出場の話はまわりのみんなを驚かせました。光ちゃんはドキドキしながらコンクールに出場し、賞は逃したもののこれからもピアノわ引き続けることを強く意識するようになります。
鍵盤で跳びはねる猫はいつの間にか見えなくなりましたが、綾ちゃん先生にもらった黄色と茶色に黒の混じった猫の形をした石を大切に持ち歩いていました。
「今日もよろしくね」
小さな猫の形をした石をなでて、ピアノに向かいます。
猫の形をした石はタイガーズアイ。虎の目と呼ばれるパワーストーンですが、虎なのに猫の形だなんてなんだか面白いですね。
優先生と通じて綾ちゃん先生とたまに会って、ピアノのコンサートやオーケストラに一緒に行く光ちゃんは本当に嬉しそうです。
綾ちゃん先生と優先生は親戚関係にあります。いとこなので、ピアノや音楽を通じてたまに交流があります。音楽家の道は厳しいですね。