エピローグ
通勤の満員電車が併走する道路。住宅街を抜けるその道は、車の通りは少なく通学路として高校生に利用される。
与儀直正は、清々《すがすが》しい朝の空気を切り裂くように自転車を漕いでいた。
今日は、三年生の卒業式で授業はない。荷物が軽くペダルの抵抗もいつもより軽いはずだったが、少しだけ抵抗があった。その抵抗は、緊張からくる精神的なものかもしれない。
ふと、与儀は視線を上げる。
先の交差点に見える木の枝に何かがぶら下がっていたからだ。
交差点の中まで枝を伸ばす大きな木の下で止まると、真上を仰ぐ。そして、両手をかかげると何かが収まってきた。
そっと抱きかかえるように受け止められた手の中には、子猫がいた。
子猫は、与儀を見上げて小さく鳴く。
そのとき、与儀の襟首から引っ張られ大きく転倒した。
自転車も盛大な音をたて横倒しになる。
ただ、子猫だけはしっかりと胸に抱きかかえて守っていた。
それとタイミングを同じくして、けたたましく鳴り響く踏切の警報音を突っ切り、飛び出してくる自動車。
与儀の倒れた自転車のすぐ側をふらつきながら自動車が通り過ぎた。
「危なかったですね」
頭上から声がかかる。
「あ、ありがとう」
頭に感じる慣れない柔らかさを不思議に思いつつ、与儀は何とか答える。
「どういたしまして」
その言葉とともに与儀の体が起こされ、アスファルトの上に座るかたちになる。
与儀は振り返り、長い黒髪をツインテールにした少女に向き直る。
少女は、投げ飛ばしたと言ってもおかしくないくらいの勢いで、与儀を自転車から転ばせてから、流れるように膝枕状態へと引き込んでいた。
与儀は、頭に残る余韻に気をとられる。
「お人好しも良いですが、それで自分が死んでしまっては何にもなりませんよ」
既に影も形も見えない自動車。
その走り抜けたであろう道路を見て身震いをする与儀。
しかし、視線を腕の中の子猫に写すと自然と表情がほころぶ。
そして、――。
「こいつを見たとき、助けなきゃって思ったんだ。それからは、体が勝手に動いてた」
「そうですか」
見知らぬ制服を着た少女は、呆れたりすることなく頷く。
「家で猫を飼っているからさ、他人事って感じがしないんだよね」
子猫を撫でる手つきは慣れているようだし、表情が本当に優しい。
「木から落ちていたら、その子はきっと車にひかれていたのでしょうね。あの高さから落ちてしまったら怪我くらいはしたでしょうし――。ですが、君の活躍で無事でした。あなたが、その子の未来を作ったのですね」
与儀は、何か心のどこかでカチリと音がした気がした。
いや、はめられなかったパズルのピースがはまるような感覚。とても、心地よい。
目の前の少女は穏やかな目つきで、子猫を見る。
右手が出ては引っ込んでを繰り返して、子猫とは違う可愛さを表現していた。
与儀は、その少女をじっと見つめていた。
少女はその視線に気づいて、与儀の顔を見る。
「どうかしましたか?」
「えっと。おかしなことを聞くかもしれないけど」
「はい」
「もしかして、子供の頃に会ったことある?」
少女は、そっと微笑んだ。
「覚えていてくれたのですね」
「いや、ゴメン。今、思い出したんだ……」
与儀は、申し訳なさそうに首を振る。だが、嘘はつけず正直に話したところが、与儀らしい。
その表情を見て少女は『知ってます』と心の中で返事をした。
「気にしていません」
代わりに、そう短く答えた。
「ごめん!」
もう一度、与儀が謝罪の言葉を発する。
しかし、今度は先ほどとは明らかに様子が違い、慌てているようだった。
「本当はもっと話したいことがあるんだけど、急がなきゃ」
そう言って、与儀は立ち上がる。
少女も合わせて立ち上がった。
「この一年の自分の気持ちに決着をつけなくちゃいけないんだ」
真っ直ぐ少女を見つめて言ったその言葉に、少女も静かに頷き返す。
「僕は、与儀直正」
「私は、時得観世です。あとで、あなたの学校にお伺いしますね」
少女は、再開を約束して送り出す。
「気をつけてください。大切な用事なのですよね」
「うん。ありがとう、行ってきます!」
与儀は元気良く、時得に向かって返事をした。朝の空気のように清々《すがすが》しい笑顔だ。
そして、与儀は倒れた自転車を起こそうとして固まる。キョロキョロすると、時得の顔を見てニカッと笑う。
「こいつをよろしく!」
突然、渡される子猫を反射的に受け取る時得。
「えっ」
「野良っぽいから、後でちゃんと引き取るから!」
渡した子猫を再度確認すると、与儀からも再会を約束する。
時得が、受け取った子猫を撫でながら見守る前で、与儀は自転車を起こして、今度こそ走り出した。
時得は、走り出した彼の背中を見て子猫に語りかけた。
「君を助けてくれた男の子は、このあとこっぴどくフラれるのです。そして、この世の終わりのように落ち込むのです。でも、それは一時のことで、すぐに立ち直ります。私に大切なことを教えてくれた人ですから」
「にゃー」
了
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただければ、幸いです。
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