学園祭
「全員、席につけー」
教室に良く通る声が響き渡る。
開け放たれた扉をくぐり抜けてくる白衣の教師。切れ長の瞳が鋭く光り、教室の中を見渡す。
そのしぐさで教室中の男子生徒は、何かの命令を受け取ったかのように席に移動する。与儀直正もそのうちのひとりだ。ただし、それの行動には『いつもだったら』という但し書きがついた。
担任の後から、見慣れない女子生徒が一緒に教室に入ってきたからだ。
男子たちの視線は当然、その女子生徒に釘付けだが、女子たちの動きも停止した。お約束ならここで、鼻の下を伸ばす男子たちに対して、女子一同からの非難が向けられるところだが、突然現れた女子生徒の美しさに誰もが言葉を失っていた。
髪は深く艶やかで、高めの位置で二つに結ばれ、歩みに合わせて揺れる。長く切れ長の瞳は何者の力にも揺るがない力強さを感じさせる。
女子たちでさえ、見とれてしまっていた。
担任は教室の中の惨状を見回して呆れ顔だ。
「えー。見て分かるとおり転校生なのだが――。その前に、お前ら席に着け。何度も言わせるなよ」
出席簿を持っていない方の手を腰に当てて、声を上げる。
教室内の空気は、何かを思い出したように動き出し、瞬く間に全員が着席した。
その様子を見て、担任は満足そうに頷くと黒板に知らない名前を書き、一言。
「では、自己紹介」
「時得観世です。よろしくお願いします」
転校生の発した声は、決して大きくはないが、教室の隅々まで届いた。高く澄んだ声は一言一言が聞き取りやすく、しっかりと耳に残る。
しかし、内容は非常に簡潔で、黒板に書かれた名前の読み方をクラスメートに正確に伝えて終わらせた。
「他に言うことはないのか?」
「はい」
担任の――もう終わりなのか?――との問いかけにも動じることなく、終了を正式に宣言した。
何かもっと情報が提供されるのではと、待ち構えていた男子たちから落胆した空気が溢れてくる。しかし、朝のホームルームが終了し、一時限目の教師が現れるまでのわずかな時間ですら、彼らは質問攻めにしてしまうのだろうから問題あるまい。
「さて、席は後ろの空いているところだ」
「はい」
担任が指差した先に向けて、時得は歩き出す。
彼女が座るまで、教室全体の視線が移動し続けたことは言うまでもない。
与儀の視線も同様だ。ただ、ここで定番の転校生が隣の席に来るイベントは発生しない。与儀よりも後ろ、体を回して振り向かないと見えない位置の席へと向かって歩く。
そのとき、与儀は彼女から強い視線を感じた気がした。もちろん、教室中の男子が時得から興味を持たれたいと念じているさなかでの出来事なのだから、自意識過剰気味でも罪はないはずだ。
「男子ども、時得を含めて女子たちを困らさないように。それじゃあ。ホームルームを始めるぞ」
時得が席に座るのを確認し、担任が一声上げるといつもの変態的に張り詰めた空気が戻ってくる。だが、転校生効果なのか、いつもより雰囲気が緩い気がした。
「さて、特にこれと言って連絡事項は、ない!」
与儀は、周囲から少し落胆したような息遣いが聞こえた気がしたが、錯覚だと決めつける。
「たーだーし。諸君らが青春の一ページを飾るべく力を入れている学園祭の準備について、ひとつ提案がある」
担任は、そう言って教室内をぐるっと見回し、教え子たちの表情を見て頷くと続ける。
「時得なのだが、このクラスでの出し物にも参加はしてもらうが、より学校を知ってもらうためにも、学園祭実行委員に参加してもらおうと思っている」
「先生」
「ん? 何だ、与儀」
与儀は、反射的に抗議の声を上げていた。明らかに面倒ゴトに巻き込まれている。避けなければならない。
「まずは、クラスの出し物に参加して、打ち解けてもらうのが良いと思います。この時期から実行委員に参加しても中途半端だし、かえって気まずいことに、なるかもしれません」
口調は丁寧な割に、苦々しい表情で紡がれた抗議を聞いた担任は、気にした様子もなく受け取ったボールを転校生・時得へと投げる。
「と、クラス委員であり、学園祭実行委員でもある与儀が言っているが、当の本人である時得はどう思っているのかな?」
「はい、問題ありません。良い機会をありがとうございます」
時得の視線が、与儀へと向けられ、淀みのない返事が教室に響く。
自己紹介のときのように伝わる声は、さながら脳内に直接語りかけられているようだとすら感じる。
「ということだ。頼んだぞ、与儀」
「ちょっと待ってください。どんなことをするかすら説明していないじゃないですか」
「お前が説明するから問題ないだろう?」
何とか抗えないかと粘る与儀に対して、素気無く答える担任。
「順序が逆なのでは……」
「その状況を分かった上で本人が了承したのだ。問題ないだろう」
時得は、与儀に向かって頷く。
力なく漏らした最後の抵抗に、とどめが入る。
与儀としては、自分が勤める、と言ってもこれまた担任の差し金で就任した学園祭実行委員に面倒ゴトが増えることも懸案事項だったのだが、実際にはもうひとつあった。
それは、今まさに教室の至る所から発せられる殺気だ。美人転校生との接点が増えて単純に羨ましいという想いと、そんな羨ましい状況を断るという不敬な態度への怒りなどが入り乱れた視線に襲われる。
そして、与儀は大きく溜め息をつく。
◇
放課後の生徒会室。
今日も学園祭実行委員の会合が開かれていた。
実行委員と言っても、主要なことは主催である生徒会がほとんど決めている。生徒会のメンバーだけでは決めかねるようなときに意見を求められることはあるが、基本的にはお手伝いのような委員会だ。
つまり、転校生への説明は非常に簡単だったのだ。担任もそれが分かっていたからこそ、あの対応だったのだ。
しかし、学園祭実行委員に参加すれば、他学年の生徒も含め学内のいろいろなことにふれる機会が増えるのは間違いない。若干、スパルタ気味のようでもあるが、基本的には勉学以外の行事なのだから『気楽にやれば良い』との担任のお言葉でもある。
「思っていたよりも、たくさんの方が集まっているのですね」
そんな場所に連れてこられた時得は、ある意味、とてもありきたりな感想を述べた。
与儀も特に気にすることなく解説する。
「まぁね。僕と時得さんを含めて、実行委員の総勢は、たしか二十名。受験生の三年生をのぞいて、一・二年生のクラスから集まった代表……かな。募集人数は各クラス一から二名なんだけれど、基本的にクラスや部活の出し物に力を入れたい生徒がほとんどだから、上限の二名で参加しているところは少ないよ」
いきさつはともかく、結果的に時得のサポートを引き受けてしまった以上、それなりに対応してしまう与儀なのであった。
参加メンバーがそろい生徒会室の主が動く。
「皆さん、今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」
教室中から同様の挨拶が返される。
華奢な体つきだが、とても堂々とした姿の人だ。
声の主に見とれて声をろくに出せてない生徒もいるようだ。
当校始まって以来の人気生徒会長・貴宮伊純。姫カットにされた長い黒髪は、神秘的な美しさを漂わせる。しかし、顔に浮かべる柔和な笑顔は、見るものを簡単に魅了する。
彼女を目当てで学園祭実行委員に参加しているものが、いないとは言えない。
担任に言わせれば『青春だ』の一言なのだろうが、そんな人員が役に立つのだろうか、と与儀は考えてしまう。貴宮に陶酔して役に立たないパターンと、良い格好をしようとしての空回りするパターンがありそうである。もちろん、すべての生徒が対象ではないが、実務が始まっていない現段階では、まだ実情は分からない。もちろん、その役立たずの中に自分が入らないようにしようと心に誓う与儀であった。
瞬時に行うほどでもない。いや、瞬時に終わらせてしまいたい、くだらない思考を捨てて正面を向くと貴宮が続けた。
「学園祭まであと一か月くらいになりました。ですので、そろそろ具体的な作業に入っていきたいと思います」
部屋の中の空気が引き締まる。しっかり、やらねばと。
「具体的なプランは、副会長からお伝えします」
そう言って、貴宮が着席すると、入れ替わって生徒会副会長・友永加奈子が立ち上がった。切れ長の瞳に細めの眼鏡。肩で切りそろえられた髪が、彼女の性格のキツさを表しているようだ。
この後、副会長主導で行われたのは簡単に言えば担当決めだ。
看板を作る担当。
案内冊子を作る担当。
当日の進行を作る担当。
資材を手配する担当。
などなど。
各自が二つ三つの担当を受け持つことになる。やることに対して人数に余裕があるとは言えないし、看板のように大がかりなものはどうしても人数が必要になり偏りができるからだ。
与儀、時得ペアは当日の進行作成と生徒会長・副会長の補佐という名の雑用となった。生徒会のメンバーもそれぞれ担当を受け持ち仕切ることになるため、実働部分はどうしても学園祭実行員から借りることになるのだ。
本格的に動き出すと、やることは山のようにある。
参加している学園祭実行委員のメンバーも放課後の時間を使って準備を進める日々が続いた。
クラスで押しつけられて学園祭実行委員に渋々なったようなメンバーも、いざ手を動かし始めると楽しんでいた。苦労を分かち合い、それを楽しさに変えてしまえる力を持っているのだ。
生徒会と学園祭実行委員が一丸となる姿がそこにはあった。
二週間ほどが過ぎたある日、与儀は気になっていた疑問を口にした。
「あの副会長」
「何かしら?」
「生徒会長って毎日決まった時間に帰りますけど、なぜですか?」
数日たったころ気づいたのだ。生徒会長が、毎日決まった時間にはいなくなっていることに。
生徒会のメンバーは元々理由を知っていて気にしていないかもしれないが、学園祭実行委員に参加して初めて、日常的に関わり合うようになって気になってしまった。
他の学園祭実行委員メンバーで気づいている生徒もいるかもしれないが、全員が常に生徒会室にいるわけでもないし、各担当のリーダー役の生徒会役員がいるため特に気にしていない生徒も多いだろう。
それに、しっかりした副会長が、実質的に取り仕切っているため、誰も困っていないところが大きいだろう。
「生徒会長は、ご家庭の事情で決まった時間には帰らなければならないの。それ以上は答えられないわ」
「そうなんですね」
家庭の事情と言われてしまえば、追求はできない。他の理由だったとしても、副会長からまともに聞き出せるとは、与儀も流石に思っていなかった。だから、素直に引き下がって作業に戻る。
そのやりとりを見ていた時得は、何か思案するような表情を見せたがすぐに消えた。
◇
涼しくなってきたとはいえ、残暑を感じる午後。
与儀は、校門を抜けて近隣の街を歩いていた。
近くの商店街へと向かうためだ。
本来なら学校を出るということは、つまりは帰宅することなのだが、今は違った。
状況だけを見れば憂鬱になってしまいそうでも、先頭を元気良く歩いている人の後ろ姿を見ていれば気分がプラス側に振れるのは当然と言えた。
ただ、出発前のことを思い出すと少しだけテンションの下がる思いだが、しっかり挽回しようと考えていた。
「与儀くん、時得ちゃん。今日はお出かけするよ」
「え?」
「はい」
与儀たちが、いつもどおりの放課後、生徒会室へ赴くと待ち受けていた貴宮が真剣な表情でそう告げた。
思いがけない指令に驚きしか示せなかった与儀。
「お出かけよ」
「えっと、それはわかるのですが……。そんな予定ありましたっけ?」
「昨日はなかったよ」
「それじゃあ……」
「察しが悪いわね、与儀少年。来週に予定していた商店街組合さんへの挨拶を繰り上げたのよ」
与儀の鈍さに友永が介入し、フォローする。
「時得さんは、きちんと理解していたようね」
「はい。私たちが出かけるとすると、ご挨拶の予定が早まるくらいでしたので」
時得の答えに、ジトーッとした視線が貴宮から向けられる。
「与儀くん、しっかりね」
貴宮は、笑顔で与儀の肩にそっと手を置いた。
その優しい笑顔が逆にツラい。
渋い表情をする与儀と、すました表情の時得に業務連絡が追加される。
「いつもの事務仕事をある程度終わらせてからなので、安心してください」
それは予言めいた言葉が含まれており、不安を感じずにいられない与儀だった。
事務仕事を済ませた後、与儀と時得を引き連れた先輩二人は、商店街へと続く道を歩いてた。
実際、たわいもない会話だったわけで落ち込むようなことは何もなかったのだが、気になる女子の前で良い格好をしたい男子としては、少々不本意だった。
そのとき、与儀は激しい衝撃に襲われた。
「なーおーくーーーーん」
「ぐあぁ」
背中に強い衝撃が走り、間延びした声で与儀の名前が呼ばれた。
背中の違和感は継続し、コアラのようにしがみついている何かに気づく。
何事かと、女性陣が目を丸くして与儀を見る。
突然の出来事に目を白黒させて体勢を維持しようとこらえる与儀と、背中に貼り付く、幼い女の子の姿がそこにはあった。
貴宮が慌てて支えに入る。
「急に飛びついたら危ないよ~」
貴宮は女の子を抱えるようにして下ろして目線の高さを合わせるとそう言った。
「ごめんなさい」
女の子は素直に謝って、舌を出した。
まるでドレスのようにレースをたくさんあしらった服を着た無邪気な女の子は、どこのお嬢様なのだろうかと思える。
そのとき、友永の瞳の奥が光った気がするが、気のせいだろう。
謎の女の子の登場に、視線は再び与儀に戻る。「この子は誰なのか?」と。当然の疑問だろう。
「えっとですね」
時得は無表情で頷き、貴宮は興味津々に頷き、友永は女の子に視線を戻した。
「驚かせて、ごめんなさい。僕の伯母です」
残暑はどこに行ったのか、と与儀は思った。『仕事しろ』と。
「なおくん、どうして謝るのかな。酷いなー、私の存在は謝罪レベルなの?」
伯母と呼ばれた女の子は頬を膨らまし、両手を腰に当てて怒り心頭だ。
「そうだよ、与儀くん。こんな小さな子に向かってオバさんだなんて」
「与儀少年。こんなに可愛い子に対して、そのようにひねくれた感情を持っているとは、虫けらのようね」
「君が、そんなストレートに酷いことを言う人とは思ってもみませんでした」
女性陣の非難が降り注ぐ。
与儀としては、そのような非難をせざるを得ない発想をさせてしまうことへの謝罪が含まれていた。しかし、説明もなしに理解はできるわけがない。当然だ。
だからといって、責められて傷つかないわけはない。
心の中でだけ涙を流し、毎度のことだと耐える。
「皆さん、誤解されていますが。この人は、僕の母の妹で正真正銘、伯母なんです。しかも、みそ……がっっ」
与儀が最後まで説明し終わる前に、それは悲鳴へと変わった。
与儀のすねに艶やかな靴のつま先が突き刺さり、たまらず悲鳴を上げ、うずくまる。
その状態の与儀を見下ろし、女の子が人差し指を立てて言う。
「その情報は、ヒ・ミ・ツだよ」
「くぅぅぅ」
与儀は、恨めしそうに女の子の顔を見上げる。
すると、鼻先に綺麗にラッピングされた箱が差し出された。
「お誕生日おめでとう。なおくん」
「……」
「……」
静寂が流れた。
「何で受け取ってくれないのよー」
女の子が憤慨した。プレゼントの箱を持ったまま両手を振り上げて。
その様子を与儀は半眼でじっと見つめる。
そして、
「家にしてくれないかな……」
「えー、それだと手渡しできないから、ダメ」
「仕事、忙しいんだろ!」
「忙しいけど、今は大丈夫。夜は海外とのやりとりがあるから時間を空けにくいのよ」
「――」
仕事を理由に攻めようとしたものの、結局、仕事を理由に納得させられてしまっている与儀だった。
「ありがとう」
すねをさすりながら、空いた手で箱を受け取る。
こうして祝って貰えることに不満はないのだ。毎度のおかしな趣向に困っているだけで、感謝しているのだ。だから、いつも文句を言おうとするものの攻めきれないのだ。
「あの、与儀くん?」
事態について行けてなかった女性陣から、区切りのついたらしいタイミングで声がかかる。
「あ、すみません。えっと、僕が両親を亡くしてからお世話になっている人なんです。繰り返しますが、母の妹で伯母です。しかも、こう見えてロケットのエンジンの開発に関わっている、凄い人です」
「すごーい」
「興味深いです。是非、詳しい内容をお聞かせ願いたいですね」
貴宮と友永の食いつきっぷりに対して、胸を大きく逸らす与儀伯母。
「うんうん。良いぞー。良いぞ-。ちなみに、私のことは、ナルちゃんと呼んでくれて構わないぞ」
「はい、ナルちゃん」
「よろしくお願いします。ナルさん」
自慢げに人差し指を回している姿は、どう見ても今日学校での出来事を自慢げに話すJSである。
与儀は、思う。そもそも、この見た目に対する突っ込みはないのだろうか。むしろ、この見た目でロケット関連の開発をしているとか、不思議に思わないのだろうか、と順応性が高すぎである。
「ところで、なおくん?」
「何?」
「『こう見えて』は余分だよ」
与儀は、ナルの細めた目から伝わる重圧に気押される。
甥の口から言うのは憚られるが、見た目は非常に可愛い。思わず抱きしめて頬摺りしたくなる。
そして、先ほどから、友永の瞳の輝きと握ったり開いたりしている手の動きが若干気になるくらいには、可愛いのだ。
しかし、その外見からは信じられないような重圧が放たれる。
与儀は、必死に「まぁまぁ」と両手を前にだして、重圧をかわそうとする。
そんなやりとりをじっと見ていた時得の表情は険しかった。思い当たることがあったのだ。だから、目の前に立つ与儀の伯母と紹介され「ナルちゃんと呼んでね」とおどけた人物を凝視していた。
「エンジンとのことですが、もしや国産ロケットの?」
「お嬢さん、流石だね~。そのとおりだよ」
友永が意外な方面への見識を示している間も、時得の表情は硬いままだった。
「私としては、ロボットを動かせるような、すっごいエンジンを作ってみたいのよね~。世が世だったら、こんな可愛い服じゃなくって、怪しげな格好のマッドサイエンティストになって未知のエネルギーを生成しちゃうようなの作ってたな~」
言動のハチャメチャ具合と、見た目の小学生具合が完璧にマッチしている。変なポーズとともに見せる妙に自信ありげな表情も完璧である。
与儀としては、あながち嘘じゃないと思えてしまう優秀っぷりを聞かされているだけに渋面にならざるを得ない。
そんな和やかな会話の最中も時得は必死に考えていた。知っている人物であることは間違いなさそうだが、余りにも印象が違って確信が持てない。
その時得の様子を見た与儀が、気遣いを見せてナルに苦言を呈する。
「そんな恥ずかしいこと外で話すなよな。みんな何を言ってるんだ? って顔をしてるだろ」
与儀の抗議で付け加えようとしていた言葉はかき消え、『ごめん、ごめん』とウインクする伯母。小さく、そっと「あなたのお父さんの研究を途絶えさせたくなかったんだけどね」と付け加えられていた。
だが、話の流れとは関係なく、時得の表情が更に険しくなる。
ようやく時得が重い口を開いて問い掛けようとしたと同時。
豪奢な衣装を着たナルは、グルリと女子高生たちを見回して一言。
「で、なおくん。誰が彼女なのかな?」
「いや、誰でもないよ」
即答する与儀の言葉に、驚愕する伯母。
そのような返事が存在することなど微塵も思っていなかったと言うように口をパクパクさせている。
「……そうなの?」
与儀が黙って頷く。
うずくまる伯母の姿、本当に小さい。
しかし、急に笑顔で復活した。
「まぁまぁ、照れちゃってぇ」
どうやら、なかったことにして仕切り直したようだ。
気を取り直して、再度、女性陣をぐるっと見回すナル。
通常なら、三人の顔をのぞき込むようにしていたのだろうが、ナルについては少し違った。背が低すぎて、完全に見上げるのだ。さながら高い商品棚にならぶお菓子をみるかのように……。人差し指を立てて口に当てているところが、それらしさを助長している。
『そんな恥ずかしいです』と言わんばかりに手を頬に当て微笑む貴宮。
何かに頷き、したり顔の友永。
気の抜けた親子のような会話に、完全に危機感を吹き飛ばされ、厳しい視線の先が変化する時得。
「ざ~んねん。伯母ちゃんの勘違いか~」
「変なところだけ、年寄り臭さを出すなよ。ていうか、さっき否定しただろ」
伯母は可愛らしく舌を出す。
「んじゃ、なおくん成分補充したし、お仕事に戻るね~」
そう言って、突然、乗ってきた車へと走り出した。
与儀は、苦笑いしながら手を振った。
元気に手を振り返す貴宮。
静かに会釈をする友永。
じっと見つめる時得。
それぞれの方法で、走り出す車を送り出した。
「君は随分あの人に大切にされているのですね」
時得がふと感想を述べる。
「んー、遊ばれているだけのような気はするけど……ね」
与儀は、相変わらず少し困った表情で答える。家族と仲が良いことは決して恥ずかしいことではない。だが、流石にあの接し方は過剰なのではと与儀は思っていた。
誕生日・クリスマス・バレンタインなどのイベントごとがあると大抵、友人などを巻き込む形でサプライズを仕掛けてきていた。
大切にされているのは分かっていても、思春期の男子としては有り難迷惑になっていても仕方のないことだった。
「良い方じゃないの」
貴宮もフォローを入れてくれる。そのことを嬉しく思い心の中でハチャメチャな伯母へ感謝の言葉を思い浮かべた。
「ところで、誰が運転していたのかしら?」
「職場の『若い子たち』らしいですよ」
「そ、そうなのか……」
そう、与儀の伯母は止められた車の後部座席から降りてきて、後部座席に乗って去っていったのだ。
その様子をしっかりと見ていた、友永のもっともな質問に、これまた違う苦々しい表情で答えるしかない与儀であった。
◇
二時間後、与儀たちはようやく学校へと戻ってきていた。
与儀の伯母が襲来した後、目的地である商店街の八百屋を訪れた。そこでは、つつがなく挨拶や連絡事項のやりとりをした。
本来の目的はすぐに終わったし、片道歩いて一五分もかからないような場所にあるお店への往復にしては時間がかかりすぎた。
理由は簡単で、八百屋の店主であるおばちゃんが話し好きで世間話に付き合っていたからだった。生徒会としてもお世話になっている関係上、無下に断るわけにもいかず。話の切れ目でお暇しようとしても、絶妙なタイミングで店の果物を振る舞ってくれるという巧みな技で長いこと引き留められていたのだ。貴宮の人当たりの良さも原因と思われる。
そんなこんなあって、舌と胃袋はすっかり満たされたものの、本日予定していた作業の進捗は芳しくない。ただ、出発前にも少し作業を進めていたことが、救いだった。
「与儀少年よ。生徒会長を送って差し上げて」
「副会長。話が見えないのですが……」
突然の友永の指令に、与儀は首をかしげて問い返す。
友永の横では貴宮が何やら、挙動不審になりかけていた。
「そうですわね」
性急すぎた発言を認め、友永は改めて言う。
「生徒会長は、これから用事があるのだけれど、時間が余りないの。だから、あなたの自転車でお送りしてほしいのよ」
貴宮は、友永を止めようと試みていたらしいが、効果はなかった。
「喜んで!」
与儀は、どこかの居酒屋のような返事を躊躇なくする。貴宮と関係を深める千載一遇のチャンスなのだ。躊躇っている場合ではない。
「ちょっと、かなちゃん」
公の場では、お互いに「生徒会長」「副会長」と呼び合っているが、動揺していつものの呼び方が出てしまった。
それにすら築かず、貴宮は友永の袖を握って抗議をする。
「時間がないのなら、自転車通学の与儀少年に送っていただくのが得策よ。それに良い機会だと思うわよ。いずみ」
友永は何かを伝えるように優しく、いつもの呼び方をした。
「……うん」
貴宮は何かを決意するように頷く。
「それでは与儀少年。生徒会長をよろしくお願いしますね」
「はい」
貴宮のまだ不安げな表情とは裏腹に、与儀の返事は活力に溢れていた。
「それじゃあ、いきましょう」
与儀に促され、貴宮は帰り支度を始めた。
時得は、立ち去る二人の後ろ姿をずっと見続ける。
「さ、時得さんにはお願いしたいことがあるの。良いかしら?」
「はい。何でしょうか」
いつもより険しい表情になっていたが、友永からの問い掛けには、それを悟らせないいつもどおりの対応をした。
◇
背中に当たる柔らかな感触。
与儀は今、未知との遭遇を果たしていた。
未だかつて体験したことのない状況に舞い上がっていた。
いつもより余分にかかる足への負担すらも喜びだった。
自転車の荷台に先輩が座り、背中に体を押しつけていた。
二人乗りの経験はないし、可能な限り危険を減らすべく、いつもよりゆっくりしたペースだ。体力の消耗が激しいが、気にしてなどいられない。
「ゴメンね、こんなこと頼んでしまって……」
「いえ、気にしないでください。困ったときはお互い様です」
貴宮の申し訳なさそうな謝罪に対して軽快に答える。
既に何回か繰り返された会話だ。
「いつもは一旦帰宅してから自転車で病院へ向かうのだけれど、今日は商店街へのご挨拶が予想外に時間がかかってしまったから……」
「そうだったんですね」
「事務仕事なんてしないで、さっさとご挨拶に行けばよかったかなー」
「でも、あの時間に訪問する約束だったんですよね」
与儀は仕方なかったとフォローする。
「うん」
貴宮は与儀のフォローする言葉に頷いて、背中に額を当てる。そもそもフォローとすら言えるような言葉ではないかもしれない。それでも、同じ言葉を無駄に繰り返してしまっている貴宮には嬉しかった。
与儀は、貴宮に告げられた目的地に向けて、自転車をただ漕いでいる。今まで、知ることのなかった貴宮のプライベート。しかし、告げられた目的地に正直、戸惑った。だから、無理に突っ込んで聞くことが、できなくなっていた。毎日、お見舞いに行くほど大切な相手なのだ。
そうこうしているうちに、病院へと到着した。
「僕はここで待ってますから、早く行ってください」
「え、でも」
「暗い夜道をひとりで帰すわけにいきませんし。それに歩くと大変ですよ」
「そんなこと……」
「ほら、早くしないと面会時間が終わっちゃいますよ」
そう言って、与儀は貴宮を一八〇度回転させると、背中を押した。
貴宮は二・三歩進んで立ち止まると、一度振り返って小さく「ありがとう」と呟いて足早に歩き出した。
貴宮の後ろ姿が病院の玄関に消えていくのを見届けると、与儀は自転車を邪魔にならないところへ移動させ、近くにあるベンチに座った。
◇
暗い病院の敷地に設置されたベンチ。
人通りも少なく、面会を終えて出てくる人をチラホラと見かける程度だ。
街灯があるとはいえ、寂しげな雰囲気は拭いきれない。
流石にただベンチに座って待っているのは退屈だ。小説でも読む習慣があれば良かったのかもしれないが、あいにくそんな習慣はなかったし、街灯の明かりでは読むのは厳しいだろう。比較的に真面目に勉強をする方だと自負しているが、それでも二宮さんのような勉強法は遠慮したいところだ。
くだらないことを考えいると、足音が目の前で止まった。
貴宮だ。
街灯の薄い灯りに照らされて闇に浮かぶ姿は、儚げで捕まえていなければどこかに消えてしまいそうだった。
「先輩……」
「お待たせしちゃったね」
「いえ、もっとゆっくりでも良かったですよ」
「ありがとう」
与儀の気遣いに、謝罪する貴宮の表情は、無理しているように感じる。
待たせた相手に満面の笑みで礼を言うような人ではないが、それでも表情が暗いように感じたのだ。
与儀は、時計を見て改めて自分の感覚が間違っていなかったことを確認して告げる。
「面会時間終了まで余裕ありますし、僕のことは気にしなくても――」
「ごめんなさい」
与儀の言葉を遮るように発せられる謝罪の言葉。与儀は、余計なことを言ってしまったのかと不安になる。
「本当に無神経でごめんなさい。事情をちゃんと説明もしないで、ここまで送ってもらって、しかも待たせてしまって」
「全然、気にしてないですから――」
与儀は慌てて否定する。否定はするが、それ以上の言葉が出てこない。ここで気の利いたことも言えれば良いのだが、頭の中が白くなるだけだ。
「ちゃんとお話……するね」
逆に貴宮の方は、何かを話すと決めてきていたようで、神妙な面持ちで宣言した。
そして、「隣、良いかな?」とわざわざ確認してベンチに座った。
「私がお見舞いに来ている相手は、弟なの。難病を患って、あと何年も生きられないって言われている。頑張って延命処置して一〇年。それが限界なんだって。子供の頃から、ずっと入院してて、それでも懸命に生きている。勉強もしてリハビリで体を動かして。いろいろなことに挑戦しようとしている。そんな、弟を応援したくて、通っているの。寂しい思いもさせたくないしね……」
「それで、毎日……ですか?」
予想以上に重たい内容で、与儀は慰めの言葉すらでてこなかった。
「うん。毎日」
「すごく大変ですよね。ご両親に来てもらうわけには?」
貴宮は静かに首を振った。
「心配してくれてありがとう。かなちゃんと同じだね。でも、それは無理なの」
「どうして」
思わず聞き返してしまった自分を恥じた。そんなこと考えるまでもない。正解はわからなくとも人に話しやすい内容なわけがないからだ。
「両親は、私が小学二年生のころに亡くなってるの。事故でね」
貴宮は少し悲しそうに、しかし、力強く答える。
「今は、親戚の叔父様と叔母様の家に引き取ってもらって不自由なく生活をさせてもらっている。弟の治療費も出してもらっているから心配しないで」
そう言って気丈に笑顔を見せる。
「だから、これ以上面倒はかけられないし、入院中のお世話くらいは私がしたい。だから、頼まないの」
「すみません」
与儀は自分の浅はかさに悔いて、謝罪をした。無神経なことを聞いてしまったと。
「うんん。いいの。誰だって何でも開けっ広げにはできないけど、別に隠すようなことでもなかったよね。弟のお見舞いに行くから早く帰るって言っても誰も何も言わない。でしょ?」
「そう……ですね」
確かにそうだ、と与儀は思う。それでも、心のどこかがモヤモヤとして納得がいかなかった。本当にそれだけなのか。
確かに、重いツラい話をしてはいる。しかし、貴宮の自分を見ているはずなのに、誰も見ていないような瞳からは『やはりすべてを話して貰えていない』と与儀は感じていた。
隠す必要はなかったと言いつつも、言えなかった理由があるはず。だから、与儀は改めて思う。
「困っていることがあったら、何でも言ってください。学校のことでも何でも」
力になりたいと思う。
「いつもの先輩の笑顔を見ていると元気になれるんです。先輩の笑顔のためなら、何だってできますよ」
「ありがとう」
根拠のない自信に満ちた与儀の言葉に貴宮の表情が、少しほころんだように見えた。苦笑だったのかもしれない。それでも、その事実に調子づいて自分も誰にも話したことのない過去を口にしてしまう。
「小さな頃、木から落ちそうになった子猫を助けようとして、結局助けられなかった上に、怪我をしたことがあったんです。その次の日から、高熱を出して倒れたんです。小さい頃なので原因は覚えてませんが、昔の僕は子猫をちゃんと助けられなかったから罰が当たったんだと思い込んで、ずっと後悔していました。でも、春の始業式の日に先輩に出会ったときに、大事なことを思い出したんです」
「あのときに?」
「はい。あのときです」
貴宮は、与儀に言われて、春の出来事を思い出す。そして、少し恥ずかしそうにした。
「先輩が思い出させてくれたのは、子猫を助け損なったときのことです。そのときも悔しくてしょげてたんですけど、知らない女の子が、言ってくれたんです。僕の行動が子猫の未来を作ったんだって。誇って良いんだって。それを思い出させてくれたんです、先輩が。それでずっと後悔に囚われてた気持ちがスッキリしたんです。だから、先輩ために何かできることがしたいんです」
完全に勢いに任せて与儀は自分の勝手な気持ちをぶつけた。そして、気づいた。まるで告白であると。
その瞬間、与儀の思考回路は停止した。
「ありがとう」
その礼はどういう意味だろう、と考える余裕は与儀になかった。もちろん、考えたところで、結論など出るわけもなく固まっていると。
「そろそろ帰らないと……。遅くなっちゃうね」
帰らなければ、という言葉にようやく思考が戻ってくる。
結局、貴宮がどのように解釈したかは分からない。保留されたのか、そもそも気づいていないのか、ハッキリと気持ちを伝えていないからノーカウントとして貰えたのか。分からないが、NGを突きつけられていないことを前向きにとらえようと考えて、与儀は立ち上がった。
「さぁ、帰りましょう」
その後、与儀は再び自転車の後ろに貴宮を乗せるという至福の時間を経て、帰路につく。
随分と遅い時間になってしまっているが、気にはならない。
そして、別れ際にもらった言葉。
『お誕生日おめでとう』
これまでで最高の誕生日になった。
祝いの言葉の後に『知らなかったから、何も用意してあげられなくて申し訳ないけど』とオマケがあったが、全く気にする余地などなかった。
◇
大人も子供も明るく、笑顔で通り過ぎる。
休日の大きめのショッピングモールは、いつも賑やかだ。
与儀は、華やかなテナントがならぶショッピングモールの通りを歩いていた。
その横には、アイスクリームに夢中な小学生くらいの女の子。レースの多めのブラウスとえんじ色のヒラヒラしたスカートに身を包み、まるで人形のようだ。
しかし、その正体は天才科学者であり、与儀直正の伯母兼、保護者のナルである。
端から見れば、仲の良い兄妹だろう。
事実は、非常に奇怪でしかないのだが……。
「ねぇ、なおくん?」
唇についたアイスクリームを舌先で舐め、問い掛ける。
「何?」
「本当に、ここで買うの?」
「まーね。現実問題として、他を回るほどの余裕はないんだろ?」
「そう言われると弱いけど、根性見せて自力で頑張ってくれても良いんだよ?」
買い物に付き合ってくれた人に対して、多少なりとも気を利かせたつもりの与儀の言葉に、男を見せろと主張する小学生、もとい伯母。
しかし、今現在、与儀がこのショッピングモールにいる理由は、二人の間では明確になっており、今更、放り出されても少々困るというのが、本音だった。
「何を買うかの相談をしたら、どこに買いに行くかも含めて任せろって言ったのは誰だっけ?」
「てへぺろ?」
本当にアイスクリームをなめながら口にする。
ウインクをオマケしたところで、与儀には大した効果は期待できない。どれほど世話になっていたとしても、伯母から愛嬌を振りまかれても、嬉しさはない。
そもそも、与儀は、貴宮へのプレゼントを買いに来ているのだから、余計な女っ気は不要だ。
数日前に自分の誕生日を祝ってもらったお礼という名目で、誕生日にプレゼントをしよう考えたのだ。そして相談をした結果が、この現状だ。
なぜ、与儀が貴宮の誕生日を知っているかは。アイドル的存在であるが故に、生徒会長・貴宮の誕生日は全校的に知れ渡っており、その範囲に与儀も含まれている。
「ん~、なおくんが買い物しても問題ない感じで、女の子にも好まれそうな小物がたくさんある。確かに、そんなお勧めのお店ではあるんだけど」
「だけど?」
「きっと、あの子。いずみちゃんだっけ? そのお店のこと良く知ってると思うのよね」
「知らないことは、ないだろうね。でも、見るだけ、見てみるよ。別にお店の商品を、隅々まで覚えているわけでもないだろうし」
「サプライズ感はなくなるかもだけれど、なおくんが良いなら問題は~~、ない!」
そして「レッツゴー」と元気良く手を突き上げる姿は、やはり小学生のそれだった。
その姿を見ていると、自分がなぜここにいるのかを見失ってしまいそうになる。
「ない、ない」
何となく調子を合わせる与儀だったが、先ほどの出来事を思い出して眉間にしわを寄せて目的地のお店を探す。
『赤味噌アイスと塩アイスください!』
『カップとコーンを選べますが、どちらになさいますか?』
フリフリした衣装に身を包んだ可愛らしい女の子が、ショーケース越しの女性へ注文をした。
低い視点からでは、すべての商品を見渡せないように感じる。それ程までにたくさんのアイスクリームが並んでいる。女の子は、その中から、迷うことなく二つの商品を選んでいたのだ。
『二つともコーンで』
店員の確認にも的確に答え、両手の人差し指を立てて女性へ向けている姿は、二段重ねではなく別々で注文している意図を主張しているのだろうか。
その後ろで苦笑いをしながら見守っていた与儀は、固まった。
目の前の女の子、もとい伯母のナルがアイスクリームを注文している相手を見て硬直してしまった。
そして、――。
『先輩!』
『いらっしゃいませ。与儀くんにナルちゃん』
営業スマイルの貴宮伊純が立っていた。長い黒髪は、高い位置で結んでポニーテールに。衣装はアイスクリーム屋さんの制服。
レアである。
普段、学校の制服姿しか見ない女子の私服を見るとトキメクと言うが、いつもと違う制服も非常に良い、と思う与儀だった。
しかし、それと同時に自分の認識力に対して恥じた。よもやこのような場所で貴宮に出会うとは予想だにしなかった。だとしても、一瞬でも認識が遅れたことを遺憾に思わずにいられない。
『お待たせしました。赤味噌アイスと塩アイスのコーンでございます』
与儀が無駄に自責の念に囚われている間、会計が済まされ商品が提供されていた。
いたって業務的な対応のはずだが、向けられた笑顔が眩しい。
『あ、私が赤味噌で』
『どうぞっ』
ナルが赤味噌アイスを受け取り、与儀が塩アイスを受け取る。
『ちょっとサービスしておいたよ』
小さな声で一言付け加えられた。
『ありがとうございます』
ちょっとした特別が嬉しかった。知っている人やクラスメートなど誰にでもしている、ちょっとした気遣いかもしれない。
心が温かくなるのを感じる。
『それじゃあ、お仕事頑張ってください』
『がんばってねー』
『ありがとうございます。また、お越しください』
大きなショーケースをのぞき込む他のお客さんの姿を見て、邪魔しないようにと早々に退散した。
知り合いの客だからこその『ありがとう』を言われたことを感じつつ、その場を離れる。
「しっかし、びっくりしたねー」
ついさっき見た女神の笑顔を思い出して、頬が緩み、開いた口がだらしない。
かと思うと、眉間にしわを寄せている。
「なおくん、さっきから難しい顔をしたり、だらしない顔をしたり、忙しいね」
「誰のせいだよ」
ナルが、与儀の顔を見上げて感想を述べる。
当然、それには抗議の声が上がる。
しかし、ナルは抗議など気にせず「こ~んな感じ」と空いている手で額を摘まんで、眉間にしわを寄せるマネをした。
「プレゼントはちゃんと笑顔で選ばないとだよ。楽しく選んだプレゼントは、その気持ちもきっと伝わるから。ね?」
今度は、指で頬を上げて笑顔を作るマネをしていた。
「了解。わかったよ」
伯母としてのアドバイス、なのだろう。見た目は小学生でも人生経験は明らかに上なのだ。特に女性絡みの話は素直に聞いておくべきだろう。恐らく。
「ところで、まさか先輩がバイトしているなんてな」
「高校生くらいならバイトくらい、珍しくもないんじゃないの?」
ナルの疑問は至極当然だ。校則で禁止されているか、については学校ごとに事情があるだろうから気にしないし、問題はそこではなかった。
「んー、まぁ普通はそうなんだけど。話しただろ? 先輩は、生徒会長であり、成績は学年トップで、休日にはボランティア。さらに、毎日のように弟さんのお見舞いに通っている。そして、さっき見たアルバイト」
「確かに少し心配になるねぇ」
正直、本当にそう思っているのか不安になる相づちだったが、否定はされなかった。ナルの仕事ぶりを考えると、まだ足りないと言われかねないが、一般的な解釈もできるようだ。
そして、あのとき、病院で見た表情。あの追い詰められた表情は、単純な見た目の忙しさなど関係ないくらい不安になる。
「でも、なるくん? 今日の目的はちゃんと覚えているよね?」
「あぁ、もちろん」
そうなのだ。今日は、そんな貴宮を元気づけるため、いつもの頑張りに対して労いの意味も込めて、プレゼントを買いに来たのだ。
――笑顔で選ばなければ、笑顔にできるプレゼントは選べない――
その言葉を思い出しながら、手にしたアイスを舐める。
「不味い……、やっぱりチョコチップバニラにしておけば良かった」
「ん?」
聞こえないように呟いたつもりが、しっかり反応されてしまい「何でもない」と眉間にしわを寄せて答える与儀だった。
◇
ショッピングモールで買ったプレゼントを渡すタイミングを見計らったまま、日にちだけが過ぎていく一週間。
馬の蹄をイメージしたバッグチャームが、少し可愛らしい包装紙に包まれて、カバンの中で待機を続けていた。
貴宮は、先週と変わらず早めに作業を切り上げ、病院へと向かっていた。
これと言って、特別な変化はない。
何もないことに、与儀は焦りを感じていた。
「与儀くん。何か困りごとでもあるのですか?」
「え?」
「今週に入ってから、集中力を欠いているようです」
「そ、そうかな……」
「はい」
気づくと、正面の机に座って作業をしていたはずの時得が、与儀の顔をじっと見つめていた。
毎日、一緒に作業をしている相棒には、しっかりと違和感を与えてしまっていたようだ。
「ごめん」
「どうして謝るのですか?」
転校生と言うこともあって、多少なりとも気を使っていた。学園祭実行委員で一緒のよしみもあって日常的に一緒にいることが多い。
どうやって貴宮へプレゼントを渡すかで頭がいっぱいになっており、できるはずの対応が疎かになっていたのか、と考えたのだ。
「何か、気を悪くすること、しちゃったかなって」
「そんなことはありません。この学校に不慣れな私を丁寧に導いていただいてます」
「導くってそんな大仰な」
慣れない学校で困らないように、と気を使っていたのは確かだが、少々慣れない言葉に戸惑ってしまう。
「そんなことありません。君の心遣いが嬉しいのです」
「どういたしまして?」
「はい」
与儀の疑問のような言葉に応えた時得が見せた笑顔。
それは、与儀の心を揺さぶるには十分すぎる尊さだった。
予想外の事態に、与儀の心臓が暴れ出す。
そして、思いがけない自分の反応に内心驚いていた。
折り目正しく清楚で落ち着いた雰囲気の彼女は、クラスでは少し浮いた存在だった。それは避けられたり、いじめられたり、そのようなことはない。いつも周りには女子がおり、むしろ与儀が特別世話を焼く必要などないくらいだ。
しかし、時折見せる威厳に満ちた雰囲気が、高校生にありがちな軽いノリには巻き込まれることはなかった。
だから、今までに、一度も見たことがなかったのだ。
時得の笑顔を。
与儀は、しばらく我を忘れて見入ってしまっていた。
バサッ、ドサッ、ガタッ。ギギギー。
「いずみ!!」
そのとき、鈍い音と机や椅子を引きずるような耳障りの決して良くない音が響いた。直後、いつもは憎らしいくらい、落ち着いたところしか見たことのない友永の慌てた声が耳に入る。
騒音と声の方を見ると、散らばった書類に囲まれ、椅子にもたれかかる貴宮の姿が目に入った。
ちょうどその場所は、貴宮と友永のペアが作業を進めていた場所である。
「先輩!!」
何事か、と与儀は立ち上がり駆け寄る。
友永に抱きかかえられ、肩に身を寄せる姿は弱々しく、顔色は蒼白だ。
「だい、じょうぶ」
脂汗のにじむ額で強がるが、全く大丈夫そうには見えない。
「全然、大丈夫じゃないですよ。早く保健室に――」
「そうするべきね」
「ちょっと疲れた……だけだから」
首を振って抵抗する。
「だったら尚更、保健室で休憩しなさい」
「う……」
友人として厳しく対応する友永に、貴宮は反抗できない。
それでも、悪あがきで手を伸ばして突き放そうとする素振りを見せるが、全く効果はない。
「与儀少年。申し訳ないけど、生徒会長を保健室まで運んでください」
「はいっ」
生徒会長を保健室までお運びする栄光ある役目を言い渡され、不謹慎にも与儀は気持ちが高揚した。
「少々、気恥ずかしいでしょうけれど、お姫様だっこが良いわね」
「お任せください」
そう言って、与儀は生唾を飲み込む。
初めての経験だ。
それ以上に、これほどまで女子と密着したことが、かつてあっただろうか。
緊張で周りが見えなくなっていても不思議はない。
そのおかげで、友永の得意げな表情には気づけなかった。
そして、ぐったりした貴宮と、友永の意味深な表情を見下ろしている人物が、ずっと与儀の後ろに佇んでいた。
突然の出来事でも落ち着いた姿は、畏怖すら感じる。
そんな時得に見守られながら、貴宮を保健室へと運ぶ。
清潔感のあるカーテンで仕切られた空間。
窓からの日差しは穏やかで、いつもなら昼寝をしたいところだが、今はそうも言ってられない。腕に抱えたモノのことを考えると、もっと別の邪念が沸き起こってくる。
しかし、そんな邪念に身を任せるわけにはいかない。
大切な親友を寝かしつけるべく布団を準備しする友永と、静かに与儀を監視、もとい貴宮を見守る時得が、すぐ側にいるのだ。
何か、不測の事態でも起きなければ、間違いは起きないだろう。仮に事件が起きたとして、明日の朝日どころか、今日の夕日すら拝めるか危うい。
つまり、与儀は忠実な僕のごとく、丁寧かつ迅速にお運びするだけだ。
運ばれている貴宮本人の心境は、と言うと、保健室に到達する前には寝息を立てていた。とても安らかとは言い難い息の荒さだが、それでも無理されるよりは良い。
いつもの柔らかな表情しか知らない者には、見るだけでもいたたまれなくなる。
女子の体重が軽いと言っても重さがないわけではない、ずっとお姫様だっこをしていれば腕もしびれてくる。
そろそろ、与儀の腕が限界を向かえようとしていた頃、貴宮をベッドに寝かしつけることができた。
そして、ホッと一息ついて友永に視線を送る。
――大丈夫なのだろうか?――
しかし、友永の反応は芳しくなく、首を横に振るだけだ。
友永としても、ツラいところなのだ。貴宮の状況は把握していたにも関わらず、止められなかった。なかなか見ることのできない苦渋に満ちた表情だ。
「ん……」
そろそろ、作業に戻るかどうかの相談を始めた頃、貴宮は目を覚ました。
「いずみ」
「先輩」
「……」
呼びかけに反応して視線が移動する。
更に顔の向きを変えて、自分の状況を把握しようとしているらしい。
「先輩、保健室ですよ」
「あ、うん」
やはり、まだ、ボーッとしているようだ。
「やっぱり、病院につれていってもらった方が良いのでは?」
「そうね。恐らく本人の言う通り過労でしょうけども、養護教諭もいないのでは意見を聞くこともできない。早く病院へ行くべきね」
与儀と友永は、今後の方向性を固めた。
実は、一時的な助けを求めるべく保健室を訪れた一行だったが、養護教諭の姿はなく、一言「ベッドは好きに使いたまへ」と書き置きだけが残されていたのだった。
「病院――。行かなきゃ」
二人の会話に反応したのか、貴宮が声を上げ、起き上がろうとする。
与儀は背中を支えようと、とっさに手を回す。その腕に体重がのし掛かる。
急に動いて肩で息をしている様子からも明白。
座るのもままならないのだ。
「はい。病院へ行きましょう」
与儀は、貴宮の発した言葉の意味を取り違えていた。しかし、その言葉も取り違えられ伝わった。
「弟の着替えを……」
貴宮は、朦朧とした意識で、ベッドから降りようとする。
ようやく貴宮の言葉の意味を理解した一同は、制止しようと動く。
「ちょ、ちょっと先輩!」
「待ちなさい。いずみ」
「……」
生徒会室に置いてあった先輩の荷物が、いつもと比べて明らかに膨れていたことを思い出す。今日は、学校帰りに直接お見舞いに行くつもりだったのだ。
「放して。私が行かなきゃダメなの」
「いやいや、無理ですって」
与儀は、乱暴にならないように気を使いながら、ベッドから降りようとする貴宮を止める。
「そんな姿は、弟くんに見せられないでしょ?」
いつも完璧な姉。
それが、貴宮の生き方を決めるひとつの指標だ。
「でも……」
友永の言葉が鋭く突き刺さる。
両手でシーツを掴んで、もそもそと動かす。
「無理して先輩まで入院なんてしてしまったら、弟さん心配しますよ」
駄目押しが入り、元々潤んでいた瞳が大きく揺れる。
「そんな目で見てもダメですよ……」
与儀は、聞き入れてしまいそうになる誘惑に耐える。
見上げてくる瞳にはそれだけの力があった。
それを見て、友永は『ふだんからそれくらいできれば話は簡単なのに」と小さく息を吐く。
「与儀くん」
「は……い?」
突然、名前を呼ばれ振り返ると、ずっと様子を見守っていたはずの時得の感情のない表情があった。
「と、友永先輩」
「何かしら?」
添えられるように呼ばれた友永も負けず、厳しい表情で応じる。
「貴宮先輩の体調が優れないのはわかりますが、いつまでもここで寝ているわけにもいきません。お話から察するに入院されている弟さんが、いらっしゃるのですよね?」
「そうね」
「でしたら、その病院の夕方の外来診察へ行けば良いのではありませんか?」
「なるほど、あそこは大きな病院だけれど、夕方も外来を受け付けているわね」
そう言って、友永は頷く。
「ですので、ご自身の処置をしてもらって。弟さんに顔を見せるくらいは、できるのではありませんか?」
「私は、平気。今夜、休めば治るから心配ないよ。だから、弟のところにだけ……」
貴宮は頑なに拒む。
「同じ病院だと弟さんに今回のことを知られる可能性が、あるからですか? それは、ご自身の行いが招いた結果なのですから、仕方がありません。可能な限り貴宮先輩の希望を取り入れるなら、この方針が一番かと思います。本来なら、今すぐにでも救急車を呼んでも良いのですよ?」
時得の容赦のない突っ込みに、力の入らない拳でシーツを握りしめ、黙るしかできない。
「急ぎましょう」
時得に見下ろされ、ついには観念して頷く貴宮。これ以上、粘ってもいたずらに時間が過ぎるだけだし、嫌でも病院へは連れて行かれそうな雰囲気だったからだ。
「ところで、移動は? まさか、今日も自転車で運ぶってわけには、いかないですよね」
「そうね。担任の先生に――」
与儀の疑問に友永が答えようとしたとき、
「タクシーを呼びます。校門まで運んでいる間に到着するでしょう」
「えっと、タクシー代とかって……」
時得の方針に対して、与儀は変な方向性の心配をしてしまう。普通の高校生が気軽にタクシーに乗れるような小遣いはないのだから仕方がないとも言える。
「問題ありません。私はいつも乗っていますから」
与儀の疑問に対して、特別な反応をすることなく、冷静に答える。
その言葉の意味を考えて、底知れなさを再認識する。
「では、与儀少年。それに時得さんの二人に任せて良いかしら?」
「はい」
「お任せください」
二人の返事に、友永は頷き、簡単に補足をする。
「学園祭実行の準備を止められないから、私は戻るわ。他の生徒会メンバーがフォローしてくれているけれど、いつまでも生徒会長と副会長の二人とも不在にはできないわ」
そうして、それぞれの行くべき場所へと散っていった。
◇
広い待合室のソファーに人が、まばらに座っている。
診察を待っているのか、付き添いなのか。事情は分からない。
比較的、若い人が多いように思える。会社帰りに寄ったのだろうか。
本を読む人、静かに目を瞑っている人、隣に座った連れとおしゃべりをする人。
待ち時間を過ごす方法は様々だ。
その中で、制服姿の二人は多少目立っていた。
制服姿で目立つ上、年頃の男女が二人で、ずっと座っているのだから。
与儀は、貴宮を無事に弟くんの入院する病院へ送り届けていた。そして、今は処置を受けている彼女を待っていた。
先週の待ち時間はあっけなく終わってしまい、拍子抜けしたぐらいだったが、さすがに今日は長かった。
「僕も、小さな頃に高熱をだして入院したことあったんだよ」
「?」
与儀は思い出したことを何げなく口にした。
「入院しているときって、やっぱ寂しいから。先輩は弟くんに、寂しい思いをさせたくないんだろうな」
「いつ……ですか?」
「いつ?」
「そうです。君がいつ入院していたのか、です」
時得は、ソファーの隣から詰め寄る。
思いがけない食いつきに少し戸惑う。近づく顔に少し身を引きつつ、答える。
「えっと、小三の夏休みだよ。そのせいで夏休みに全然遊べなかったから、覚えてるよ」
「小三……」
与儀の答えに体勢を戻し、考え込む時得には「病気のせいだけじゃないけど」と小さく付け加えられた言葉は耳に入っていなかった。
「どうかしたの?」
「……あ、えっと、何でもありません」
時得が考え込んでしまい途切れる会話。
貴宮のことを心配して落ち着かない気持ちを誤魔化すために話しかけただけ。また、もとの状況に戻るだけだ。
そうこうしているうちに、静かな足音が近づいてくる。
与儀が見上げると、そこには申し訳なさそうな顔の貴宮が立っていた。
まだ、顔色は悪そうだが、それでも病院へ来たときとは比べるまでもない。
「先輩。もう、大丈夫なんですか?」
「うん。ごめんね。迷惑をかけちゃって……」
与儀は、待ち人の到来にしっぽを振る犬のように、嬉しそうな表情で立ち上がる。が、しっぽを振る相手の状況を思い出し、貴宮からの謝罪に答えられない。
少しの間があき、貴宮が切り出す。
「これから、弟のところに行くんだけど、一緒に来てくれるかな?」
「は、はい」
「あのね。点滴を受けている間に弟から伝言があって。付き添いで来ている人を病室に連れてきてほしいって。お世話になっている看護婦さんが、見かけて伝えてくれたみたいなの、それで……。ごめんね」
たどたどしい説明。
体調のせいで思考がまとまらないのか、何かに動揺しているのか。理由はわからないが、いつもの明るい雰囲気はない。
「何も問題ないですよ。親切な方ですね、看護婦さん」
「うん」
与儀にとっては断る理由などない。貴宮からのお願いなのだ。むしろ、突然、病室を訪れて良いのかと遠慮してしまうくらいだ。
「じゃあ、こっち――。あ、時得さんも」
ずっと考え込んで座っていた時得にも、貴宮は来てほしいと声をかける。
「……はい」
こちらも病人でもないのに反応が悪い。よっぽど深く考え込んでいたのか。
しかし、会話自体は聞こえていたらしく「オマケですか?」と言わんばかりの不満げな表情で返事をすると、立ち上がった。
◇
硬い樹脂を叩く音が、複数回、響く。
「どうぞ」
同時に、了解の意志を示す言葉が、扉の向こう側から聞こえてくる。
扉は思っているよりも軽くスムーズに開く。
そして、最初に貴宮から足を踏み入れる。
体調の悪さもあるが、少し気まずさもあって足取りは重い。
だが、与儀としては、貴宮を差し置いて部屋に入るわけにはいかない。
その辺りは、時得も察している。
貴宮に続いて、与儀、時得の順番に病室へと入る。
テレビなどでよく見る相部屋のイメージとは違い、個室は思っていたよりも狭かった。
そして、大きなベッドに座った少年がいた。とても健康的とは言えない見た目だが、それでも寝たきりではないようだ。
ベッドに座った少年が、与儀と時得の姿を認識すると頭を下げた。
「本日は、姉が大変ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます。ベッドの上からで申し訳ありません……」
年下とは思えない丁寧な口調で感謝の言葉が発せられた。
それをばつが悪そうに黙って見守る貴宮。
「どういたしまして、というか。そんな気にしないで――」
与儀は居心地の悪さに耐えられず、あたふたとしてしまう。このようにかしこまってお礼を言われるとむず痒い。というか、照れる。
「お気遣い、ありがとうございます」
さらなる感謝の言葉とともに頭を上げ、貴宮(弟)は自己紹介を始めた。
「僕は、貴宮隆《りゆう》と申します。中学二年生です。もちろん学校に通っていれば、ですけれども。それより、いつも姉がお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそ。いつもお世話になっております」
出会い頭のサラリーマンのような会話で、再び頭を下げあう二人。
見事なお辞儀を示し合う二人は、顔だけ上げて目を合わせると笑いが溢れた。
妙なシンクロ具合だった。
「カナさんの言っていた通りですね。カナさんというのは御存じかと思いますが、姉の親友であり生徒会副会長でもある友永加奈子さんのことです。以前から良くしていただいております」
「え、隆。かなちゃんから何を聞いているの?」
「与儀さんと気が合うわよって」
「そんなこと、言ってたの?」
黙って頷く貴宮隆《りゆう》。
「いつの間に……」
何かに怯え始める貴宮。理由は不明だ。
「さて、お約束的な用事は済んでしまったので、これからが本番ですね」
仕切り直して、姉に視線を送る弟。そして、視線を与儀の方へ戻し「感謝の気持ちは、もちろん本当です」と付け加える。
姉は何のことか分からず「本番って何なの?」と小さく呟く。
貴宮(弟)と初対面の与儀と時得は、当然、何のことか分からず頭上に疑問符をちらつかせる。
「えー、コホン」
わざとらしい咳払いをして、はにかむ。
「何と言いますか、緊張しますね」
初対面なのだから多少の緊張は仕方がないかもしれない。しかし、何かを言いだそうとして、間合いを取り直すほどの内容とは何なのか。
まさか、「姉の周りをうろつくのは止めてください」とかズバッと言われてしまうのか。変に身構えてしまう与儀だった。
しかし、状況はそれほど甘くはなかった。いや、簡単ではなかった。むしろ、甘かったのだから。
「与儀さん。姉の恋人になってください」
そして、弟の発言で病室の中は時が止まった。
「?!!」
先ほどまで土気色の顔色だった姉は、耳まで赤くして両手をバタバタさせる。
与儀も流石にこの状況は予測できず。思考が停止する。
本当なら貴宮(姉)のレアな一面を見られる絶好の機会なのだが、そんな余裕はなかった。
これは、何かのドッキリ企画なのかと疑ったとしても、仕方がないだろう。
「ちょっと、りゅう。失礼なことを言って、与儀くんを困らせないの!」
腕を真っ直ぐおろし、強く握りしめた拳を振るわせている。目は細められ、与儀から視線を逸らす。
「ごめんなさい……姉さん。でも、このお願いは譲れません。僕のひとつだけの我がままですから」
姉の顔を見つめ、訴えかける姿は、とても病人とは思えない力強さがあった。
「ですが、本人の気持ちを確認しないで、話を勝手に進めるわけにはいきません」
今まで黙っていた時得が苦言を呈する。これが、誰を援護しての言葉なのかは、少なくともこの場にはいない。
「そうですね。これでは、近所のお節介な叔母さんと同じですね」
聞き分けの良い言葉。しかし、貴宮(弟)から感じる気配はとても言葉どおりではない。しっかりと、時得のことも見て答える。
「ですが、見てください。姉の様子を」
与儀の方にも視線を巡らせ、自分の姉がまんざらではないことを指摘する。
「それに、与儀さんも満更ではないのですよね? 身内びいきになりますが、弟の僕から見ても容姿端麗で才女ですし、家事全般も完璧です。学校での評判も良いと聞いています。断る理由があるとしたら、既に心に決めた方がいることくらいでしょうか?」
貴宮(弟)は、全く譲る気はない。そう言ったのだ。
与儀としては、満更どころの話ではない。
「どうでしょう? 悪くない話のはずです」
「ああ、確かに。さすがに想像の遥か上をいく話になってしまって驚いているけどね」
「すみません」
「謝らないで」
先日、聞いた病気の件を思い出せば、断る理由などないのだ。それくらいの空気は読める。だからといって、自分の気持ちに嘘をつくわけでもないのだから、何も問題はない。ただ、引っかかるとすれば、お互いの意志で近づいたわけではないこと、くらいだろうか。
でも、――。
「謹んで承ります」
静かに返事を紡ぎ、腰を折る。
「ありがとうございます」
穏やかな笑顔だ。
まるで病人ではないような、落ち着いた表情。
「僕に姉の幸せそうな笑顔をもっと見させてください。ただの後輩としての与儀さんを語るだけの立場ではない。並んで立てる相手といられる笑顔を見させてください」
そう言って、姉の見つめ、手を握った。少し苦しそうな体勢だったが、それでも精一杯、手を伸ばしていた。
姉を想う瞳は『相手の幸せを願う』そんな優しさに満ちあふれていた。
◇
人気がなくなり、本当の意味で静けさが広がる空間。
三人は、再び外来の待合室へ戻ってきていた。
「与儀くん」
「はい」
「今日は色々とありがとうね。病院に連れてきてもらうだけじゃなくて……気を使ってくれて……」
貴宮は感謝の言葉を紡ぐが、言葉の途中でうつむき始めてしまい、後半が聞こえづらくなっていた。
「いえ、とんでもないです。むしろ、光栄ですよ」
当然、何に対して気を使ったかは、理解している。だから、光栄と答えた。たとえ、嘘だったとしても、今までより近づくことができたのだから。
ただ、言葉で聞いていただけだった貴宮隆の状況を目の当たりにしてしまい、彼からの願いの重さを感じてしまった。だから、今の状況を素直に喜べないでいた。表面上は明るく振る舞っているつもりだったが、それが表情に出ていた。
そんな与儀の表情を見た貴宮は、静かに首を振る。
「私は、光栄なんて言ってもらえるような女の子じゃないよ。生徒会長をやっているのだって、弟のためだもの。学校のため、生徒のためなんて方便。本当は大学受験で推薦をもらえるように、先生方の評価を上げようとしただけ」
暗い表情で与儀を見上げる。
「何で、そんなことをするのか不思議だよね」
学校では見たことのない暗い表情だ。
「私ね。お医者様になるの。そうして弟の病気を治すの。そう弟と約束したの。だから、良い大学に進学して、良い病院へ就職して、良い環境で研究するの。それもこれも、弟のため。そのためには良い評価が必要。だから、生徒会長をやっているの、可能な限り評判を上げるため。学校の生徒たちから、先生たちからの好感度を上げる。それだけのためだよ」
暗い瞳の奥には計り知れない決意が見える。
だが、それが今の与儀に正確に伝わったかは分からない。ただ、ただならぬ雰囲気は伝わる。
「お世話になっている叔父様や叔母様の負担を少しでも減らせるように、弟の治療費や私の学費の少しでも足しになるように、禁止のバイトもしている」
「バイトは正当な理由があればOKのはずじゃ……」
「うん、説明したときの先生たちからの同情は凄かったよ」
与儀は、ゴクリと唾を飲み込む。
「バイトは、生徒会長になれるように地味だった自分を変身させるためにも必要だったんだ。多分、一年生のころの私のことなんて同級生でも覚えてない。それくらい私は私を偽って生きてきた。自分というイメージを作り上げてきたの」
そこで、一度、言葉をとめ与儀から視線を外す。
そして、横にいた時得を見る。
「私は、自分すらも偽っている。分かっていたけど、時得さんと会って、本当に偽物なんだなって思ったよ。みんなが感じて噂している時得さんの印象は正しいと思う。上っ面だけの私とは違う本物」
時得は表情を変えず黙って聞いていた。
「本物を知っても、それでも、私は私を偽るのを止められない。私は私の目的のために行動している。弟の病気を治すことしか考えていない。そのためなら、何だってする、汚い存在なの」
言葉を切り、一息ついて見せる笑顔を見ていられなかった。笑っている。確かに微笑んでいる。しかし、目は笑っていない。
「幻滅したでしょ? 完璧超人みたいなこと言われたりしているけれど、本当はこんなに自分のことしか考えていない薄汚れた女なの」
貴宮の瞳に映るのは悲しみか、それとも自分の境遇への呪いか。
それを推し量れるほど、与儀の人生経験は豊富ではないし、女子の扱いにも慣れてはいなかった。
だから、ただ、自分の信じていることを真っ直ぐにぶつけるしかなかった。
「先輩の弟さん、隆くんとの約束は素敵です。凄いと思います。約束のために全力で挑む姿は本当に眩しいです。先のことを考えて幸せな未来のために動けているのですから。僕なんて将来の目標どころか進路すらあやふやなのに……。先輩は僕よりも、ずっとずっと早くに自分の進むべき道を決めてる。でも、未来を大切にするあまり、今の先輩自身を疎かにしないでください。もっと自分を大事にしてください」
貴宮は与儀の言葉に聞き入っていた。
思いがけない肯定の言葉。
今まで、賞賛の言葉はいくらでも受けてきた。
ただ、それは自分が否定する上っ面への肯定だ。だから、それらの声は必要だったが、重荷でしかなかった。
「先輩は誰にも恥じる必要はないんです。そんなに自分を責めないでください。友永先輩だって、きっとそう言って手伝ってくれているんじゃないですか?」
「でも……」
「先輩の未来を誰も否定はしたりできません。自分を信じてください」
なぜ、貴宮は与儀に話したのか?
それはわからない。
だが、与儀は自分の正しいと思うことを伝えた。小さな自分ひとりの言葉が人を救えるとも思えない。それでも、何かのきっかけにでもなれば。ただ、それだけを願った。
与儀は、もう自分に言えることはないと黙った。
そして、目の前に立つ、貴宮を見つめた。
その真剣な眼差しに、貴宮の心は揺れていた。自分を認めてもらえた。そんな気がしていた。
そう思うと自然に涙がこぼれる。
「え、そんな、な!」
与儀としては、今までの彼女を否定したようなものだ。泣かせてしまうほど、酷い内容だったと言われても仕方がない。だが、実際に泣かれると動揺せざるを得ない。
「ごめん、大丈夫」
溢れる涙を必死に両手で豪快に拭って、美人が台無しだ。
「ありがと」
そう言うと今までに見たことのない笑顔を見せてくれた。
「これからも頑張れそうだよ」
◇
すっかり陽が落ち、夜の闇に包まれた病院。
敷地の外へと続く道は、等間隔に並べられた街灯に照らされ、迷うことはない。
そこを、与儀と時得の二人が歩いていた。
貴宮(姉)は、もともと一晩入院するようにと言われていたらしい。それもあり、弟の病室にも行けていたのだ。
待合室での会話の後、そのことを告げて去っていった。馴染みの看護婦さんのある意味で下世話な配慮があったとのことだった。
「先ほどは、私のことをほったらかして、随分と良い雰囲気でしたね」
「う」
周りに誰もいないことを確認して、半眼で詰め寄る時得。
「もう少し、周りに配慮してほしいものです」
「ごめん」
「謝らないでほしいですね。私としては」
「ごめん」
半ば条件反射のように謝ってしまっている与儀に対して「また」と時得は顔をしかめる。
「貴宮先輩。学校での評判とは随分と違う方だったのですね」
「そうだね。学校であんなに輝いているのに、心の中にはとてもツラいものを抱えていた。わからないものだね」
「驚かなかったのですか?」
「そりゃ驚いたよ。でも、それよりも心配だったかな」
「君も大概お人好しですよね」
「そうかな」
与儀は屈託なく答える。さも当然のように。
その表情を見て時得は溜め息をつき「あのときも……」と付け加える。もちろん、『あのとき』とは、与儀の知り得ない『あのとき』である。
そのことを理解していても、口から思わず溢れていた。仮に口には出さなくとも心の中では叫んでいたかもしれない。
自分はこれほど君のことを知っている。
最近は、一緒にいる時間も長い。学内では別行動しているときの方が少ないくらいだ。
学園祭に向けては共同で作業を続けていた。
与儀とのことを考えて心の中がモヤモヤとする。
やり場のない違和感を吐き出すように言ってしまった。
「お人好しでなければ、貴宮先輩のことが好きなのですね」
与儀が固まった。
時得も自分で言っておきながら固まった。
誰もいない、病院の敷地の通路。
静まりかえる空気。
ほんの少しだけできた時間で与儀は確認する、自分の気持ちを。
そして、それを初めて言葉として口にする。
「僕は先輩のことが好きなんだ」
とても自然に穏やかに与儀は言った。その表情に迷いも戸惑いもなく素直な気持ちが表れていて、時得は胸の奥が暖かくなるのを感じた。
それは、再び与儀から突きつけられた断りの言葉なのだが、全く嫌な気分はなかった。むしろ、納得すらしていた。
ずっと自分の中に潜んでいたモヤモヤ。あの日感じた暖かさの正体。それを本当の意味で理解した。
これだったのだ。自分の気持ちは間違ってなかった。
それと同時に胸の奥が強く締め付けられ、そのまま身体が一点に押しつぶされそうに感じる。気がつけば拳はきつく握りしめられ、震えていた。
「やはりですね。見てればすぐにわかります」
「やっぱり、だよね」
必死に絞り出した強がりも、ちゃんと声に出せていたか怪しい。時得には自分の声が上擦っていたかすら、よくわからなかった。
時得の指摘に少し恥ずかしそうに、照れた笑顔は、言い出せなかった秘密を打ち明けられた清々《すがすが》しさすらある。
自分を拒絶したのに、何でそんなに引きつけるのか、自分の気持ちを包み込むのか。表情は戸惑い。堅くなっていく。
与儀にとっては、先輩が好きなのか聞かれたから答えただけで、時得を拒否したつもりは全くないのだが、そんな話の流れはとっくに頭の中から消えている。
「生徒会長で、学内一の美人で、成績も優秀です。おまけに性格もよいのですから非の打ち所がありません。好きになるのも当然ですね」
金縛りの溶けた手で肩から流れ落ちる髪を指に巻き付けて、口にする。
与儀への同意というよりは、ありきたりな評価で自分を納得させようとしていた。
しかし、頭の中は『なぜ』という言葉がぐるぐる回る。
(私はずっと前から、もっと早くから、君のことを知っているのに。見ていたのに)
暖かい感情を知って満たされた心はあっという間にあふれて、どんどんと冷めていった。そして、冷めた気持ちはある結論に至る。
正さなければならない。与儀は少し間違えてしまっただけなのだ。それも、自分のミスだ。見つけるのが遅れてしまったから。
そう考えた時得は、こわばった身体から力が抜けるのを感じた。
そして、与儀の顔を再びしっかりと見返すことができた気がした。
そこには、指で頬をかいて、照れている与儀がいた。そして、
「もちろん、それもあると思う。そりゃ、可愛い彼女が欲しいってのは世界中の男子の夢だと思うし、僕もだよ。でも、それだけじゃないんだ」
そう言った与儀の表情はとても晴れやかだった。照れとか、羞恥心ととかから引き起こされる迷いはなかった。
「春の始業式の日、先輩に出会って僕は助けられた。子供の頃に入院してから、ずっと自分を責めてたんだ。自分が失敗したから罰を受けた。ずっと、そのことに囚われてきたけど、そこから解放してくれたんだ。入院する前に怪我をしたんだけど、そのとき助けてくれた女の子がいて、その子が先輩だったら良いなって思ったりしている。違うとは思うけど、似ているような気もするんだよね」
少女は目の前が真っ暗になるのを感じた。さっき感じた影よりも、深く底のない深淵に突き落とされるのを感じていた。
見上げても暗闇が、どこまでも続いて光の筋さえ見えない。
「そのとき、先輩だったら良いなって思う子は、ただ助けてくれただけじゃないんだ。当時、悩んでいたことに答えをくれたんだ。自分は自分であって他の誰でもない。それでいいんだって」
――違う――
と、時得は声を出したかった。
しかし、冷え切った闇の中で知ったばかりの暖かさが、声に出すのを阻止した。開きかけた口がわずかにゆがむ。
その言葉をかけたのは、自分だと。言いたかった。
薄暗い街灯の下で見える、与儀の屈託のない笑顔が、時得を止めた。
真実を突きつけても、戸惑うだけ。無駄に悲しませる必要はない。
与儀を傷つけたい訳ではないのだ。
いつか、話せるときがくる。だから、今は自制した。
「それは、貴宮先輩に確認したのですか?」
「してないよ。僕が子供のころ住んでいたのは、関東だから。会っているはずはないんだ」
かろうじて絞り出した問いかけはひどいものだった。本当に聞かなくても良いことを口にしたものだと時得は思う。
そして、その返事はも自己否定してしまうような酷い内容だった。
「入院する前の記憶は曖昧なんだ。子猫を助け損なって、知らない女の子に元気づけられて、なのに変な罪悪感に苛まれ続けた。僕の記憶のスタートはそこからで、先輩がその女の子じゃないのは頭で分かっているんだ。それでも、そう願ってしまう自分がいる。情けないとは思うよ」
「そうですか、わかりました」
時得は、理解した。
この状況の根源が。
――君があの女と出会ったからいけないのですね――
時得の瞳から光が消えて、心に炎がともった。
街灯の下に浮かび上がるお互いの姿。
今の瞬間まで、高校生の男女が仲睦まじく歩く姿は、微笑ましくも羨ましくも周りからは見えていたはずだ。
しかし、そんな和やかな雰囲気は消し飛んで、時得の与儀を見つめる。いや、見据える姿は普通の高校生とは違っていた。
与儀も雰囲気の変化を感じた。
時得のシルエットが変化した気がした。
実際には何も変わっていない。与儀にとって見慣れた学校の制服姿だ。
しかし、明らかに何かが違う。
そして、空中を撫でるように指を動かし始める。
不可思議な動きですら、何か気高いとさえ感じる。
邪魔をすることなど、できそうになかった。
「与儀くん」
突き立てた人差し指を胸元に構え、名前を呼ぶ。
まるで何かが起きるかもしれない空気感。
しかし、魔法でもなければ、何かが起きるはずなどない。
時得の不思議な行動とは関係なく完全に蛇に睨まれた蛙のような状態だ。
そして、構えた人差し指を正面に突き出した。
さながら今までの指の奇跡が魔方陣になっており、その中心を指し示して術を発動させるかのような。
与儀の目には、そのように映っていた。
そう、映っていた。
時得の周りは、夜とは違う暗闇に包まれていた。
月明かりも星の瞬きもない。
虚無と呼ぶのが相応しい空間に漂っていた。
「待っててください。間違いを正しますから」
そして、深淵の中で目を瞑る。