表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ワールド・アドミニストレーター  作者: あやねいおり
3/6

バレンタインデー

 冬の午後。

 冷たい空気が流れ込む。

 吐く息が白くなりそうな肌触り。

 室内のほのかに暖かい空気と外の刺すような空気が入り乱れる場所。

 一日過ごした校舎から離れるための通過ポイント。

 昇降口。

 開け放たれた扉は、否応いやおうなしに外の寒さを校内に導いている。

 首に巻いたマフラーを少しでもたくし上げて可能な限り顔を隠したくなる。

「うー、寒いな」

「ほんとだな」

 男子学生がふたり、上履きを下駄げた箱にしまい、代わりに通学用の靴を取り出していた。

「しかし、寒いのは体か? 心か?」

 二人組のうちのひとり、寒さを訴えた与儀直正に対して、不敵な笑みとともに突っ込みが入る。

「どういう意味だよ」

 与儀は不本意な質問だという視線を相棒である大取おおとり智也ともやに向ける。

「そのままだよ。そんな視線を向けるってことは、わかってるんだろ?」

「何がだよ」

 わかりやすく顔をしかめる与儀。

「そりゃ明日、二月十四日、バレンタインデーの見込みのことだよ」

 大取は、与儀の顔を指差し、続ける。

「先輩からもらえそうなのか?」

 更に具体的に詰め寄る。

「……」

「学園祭の後もそれなりに付き合いあるんだろ? 別に義理くらいもらえたって、おかしくないんじゃねーの?」

「まぁ、そうなんだけどね……」

「何だか、煮え切らないな。だけど、くれって言ってもらえるモノでもないしな」

 与儀のはっきりしない態度に少しじれったく感じつつも、大取は一応のフォローを入れる。

「そうだよ。余裕のあるヤツは良いね」

 大取は、与儀の皮肉に悪びれるでもなく、ニカッと笑う。

 与儀は、ため息をつきつつ、履き替えた靴のかかとを直して、昇降口の扉をくぐる。

 続いて、大取も扉をくぐると、正面から歩いてきた男子生徒の会話が聞こえてくる。

「さっき、校門のところにいた女の子、すっげー美人だったな」

「だな。しかも見たことない制服だったけど、どこの学校の子なんだろ」

「転校生かな?」

「こんな時期にか?」

 見覚えのある二人。だが、名前は知らない。

 隣かまた更に隣のクラスの男子。

 一学年で九クラスもあれば、学年全員の顔と名前を覚えるなんて事はまずない。

 そもそも、まともに顔を合わせて会話することすらなく卒業する同級生だってたくさんいる。

 その程度の帰り際に挨拶をするほどにもならない仲。

 しかし、会話の内容はとても気になる内容だった。

 学校の校門の前で、見知らぬ制服を着た他校の美少女が誰かを待っている。まるで漫画かアニメのようなシチュエーション。

 自分には関係ないとしても気にならないわけがない。

 しかし、ひとりは関係者気取りでつぶやく。

「待たせちゃ悪い、早く行こうぜ!」

「いや、待たせてないだろ」

 与儀があきれた視線を向ける。

「そんなこと、行ってみなけりゃわからないだろ」

「大体、身に覚えがあるのかよ」

「明日なら一杯ありそうだ」

「今日はないってことか」

「与儀の可能性もあるだろ?」

「ますますないな」

「他の高校へ進学した、同じ中学の女子って可能性は否定できないだろ? おさなみ的な子とか」

「全くもって希望がなくなったんだが」

「すまん。すまん」

 オーバーアクションで手を合わせる大取。

 仕方がないと肩を下げる与儀。

 いつものやりとりだ。

 他愛たあいもない会話をとりとめもなく交わし校門まで歩く。

 校門が近づいてきたが、特に大きな変化は見受けられない。女子がひとり立っているくらいで何かが変わるわけもない。珍しいからといって人だかりが、できているようなこともない。

 だが、通り過ぎる生徒たちの興味はひくらしく、同じ方向に視線を向けており、そこに誰か珍しい人物がいるのは明らかだった。

 だから、二人にも門の陰に隠れて見えない、うわさの女子の存在を容易にうかがい知ることができた。

 早く謎の美少女を見たくて仕方のない大取は、与儀の無言のプレッシャーに抑えられていた。今にも走り出したそうに震えている。

「落ち着け大取。明日の成果が減るぞ」

「そんなことは、どうでも良い」

 与儀は、とても余裕のある発言にあきれつつも思う。

(たくさんもらえること自体はうれしいのかもしれないけれど、やっぱり、本当に貰いたい相手以外のモノは気にならないのかな)

 去年、ぶっきらぼうに渡されるチョコをうれしそうに受け取る大取の顔が思い出される。そのときは、『変わったこともあるな』程度の関心しかなかったが、今となっては『微笑ほほえましい』と思う程度の仲になっていた。

 与儀が想像しているであろうことを察した大取は不満そうに、しかし与儀に止められないように先を急ぐ。

 ついに、二人は校門を通り抜ける。

 そして、視界の片隅に見知らぬ制服の女子生徒が目に入る。

 いや、正確には彼ら二人の視界の正面に見えた。

 これまで校門を通った生徒たちと同様で、自然と視線が少女に吸い込まれ気がつくと凝視していた。

 特に誰とも目も合わさず、ひたすら誰かを待っているように見えていた少女。

 しかし、与儀は目が合った。

 与儀は心臓が止まる錯覚をして、すぐさま視線を外す。

 変な風に思われなかったかなと、余計な心配をする。どうせ、もう二度と会うこともない相手なのだ。気にしたところでしょうがない。

 そう思い直し、友人と感想を語り合う至極男子らしい行動にでようと思ったそのとき――。

「ちょっと、君!」

 突然、呼び止められた。

 誰かが、誰かに。

 与儀は声のした方を向く。しかし、手を振るなどの、何か自分を呼んだ人らしき動きが見えない。

 そもそも、自分が呼ばれたのかすら分かっていない。周りにいる下校しようとしていた生徒たちも視線を彷徨さまよわせている。

 与儀はキョロキョロとするが、特にそれらしき人物を見つけられない。

 そのとき、校門の壁にもたれていた少女が、反動をつけて壁から背中を浮かせる。そのままの勢いで歩き出す。動きは優雅で落ち着き、美しかった。

 フラフラとしていた与儀の視線も再び少女のもとへと吸い込まれる。

 ゆっくりと与儀に近づく少女。

 非常にゆっくりと歩く少女を見て、しかし、与儀は動けない。

「待っていました」

 与儀の目の前に立った少女は、そう言った。

 与儀はとても綺麗きれいだ、と思った。

 洗練され、研ぎ澄まされたような美しさだ。

 長い黒髪のツインテールが髪を飾るリボンと一緒に風に揺れ、あでやかに踊る。

 与儀は生唾を飲み込む。何か言わなければと思うが、頭が真っ白になってしまって何を言って良いのか分からない。

 考えれば考えるほど焦って言葉にならない。『う』とか『あ』とか言っている間にときだけが過ぎる。

「本当は明日突然来ても良かったのですが、それではつまらないですし。約束というモノをしてみたかったので、今日来ました。明日、同じ時間にここで待っています」

 少女は、与儀の反応など無視して一方的に用件を伝えた。

「それでは」

 一度背を向けてから、振り返ると、そのままその場を離れる。

 与儀は、少女が完全に見えなくなっても固まっていた。正直、何が起こったのか良く分かっていない。

 そんな表情でほうけていた。

「おい」

 与儀の肩をたたく者がいる。誰だろうか、と与儀は考える。

「おい、与儀」

 もう一度、今度は先ほどよりも強くたたかれる。

 そして、ずっと自分を呼んでいるのが、大取だと気づく。

「大丈夫か?」

「あ、あぁ」

 全く大丈夫そうではない声を上げる。

「本当かよ。先輩一筋のお前でも他の女の子に気をとられることもあるんだな」

「悪いかよ……」

 口では強がってみせる。しかし、心では先輩への裏切り行為になるのではと、胸に突き刺さるものを感じる。

「大体、大取じゃないんだから、女子にあんなに近づかれたら驚くさ」

「何か、ひどい言いぐさだなぁ。傷つくぜ」

 辛うじて出せた皮肉もいつもの調子で軽くかわされる。

「で、明日、あの子、もう一度来るんだよな」

「そのようだね」

「あんな美少女に待ち伏せされて、明日の放課後にデートとは。与儀も隅に置けないな」

「いや、デートなんて話、どこにもなかっただろ」

「いやいや、あれはもう完全にデートのお誘いだろ。しかも、前日にちゃんとアポを取るとか真面目だな」

「真面目かどうかも知らないけれど、それ以外も何もかも知らないんだけれど」

 与儀は気だるげに大取をにらむ。

「でも、真面目な与儀くんのことだから、ちゃんと来るんだろ?」

「何もなければ……ね。断れなかったし」

 不満そうに答える与儀。

「何だってんだよ」

 周りから恨まれそうなシチュエーションを実感できない与儀。

 もちろん、先輩という存在が心の中にいたとしても、素直に喜ぶ権利ぐらいはあるはずだ。正式に付き合っているのならともかく……。

 しかし、気のせいだったとしても与儀は胸に引っかかる何かを理解できず、モヤモヤとしてしまう。結局、そのまま帰宅して、寝るまで心の奥にかかったかすみが晴れることはなかった。

 

 ◇

 

 翌朝の教室。

 部屋の中は完全に浮き足立っていた、主に男子が。

 あっちへフラフラ、こっちへフラフラと無意味に教室内を歩き回る男子。

 いつも通り読書をしている素振りを見せているが、ページをうまくめくれず、しわくちゃにしてしまっている男子。

 仲の良い者どおし、仲良く向かい合っている男子。

 様子は様々だ。

 誰も彼も目が泳いでいる。

 今日は、二月十四日。

 一年で最も醜くみっともなく、自己中心的にクラスの中が浮つく日。

 当然、浮ついているだけの者のところに、真の喜びが届くはずもなく。

 届くのは、余裕で与儀にちょっかいを出しているところ。

 既に充実した高校生活を送っているところ。

 今日は、二月十四日。

 一年で最も愚かでさかしく利己的にクラスの中が浮つく。

 己の不足を棚に上げ、独りよがりな祈りがのろいへと変わる。

 悲しい何かは、群れず彷徨さまよう。

 そんな惨状の教室でも、女子は特に気にした様子はない。

 彼女たちには彼女たちの世界があり、戦場がある。今日までに準備し、練った作戦を決行する大事な日なのだ。敗残兵に気を回している余裕はない。

 対岸の火事のごとく、誰が誰に渡したらしいなどゴシップを楽しむ集団もいる。

 もちろん、我関せずを貫く陣営もいる。

 だが、十円チョコであっても気前良く配ってまわるような女子はいない。もちろん、そんなことをすれば、クラスの半分から女神とあがめられたとしても、もう半分からは悪魔の所行として扱われてしまう。露骨な点数稼ぎは、瞬く間に堕天へと導く。

 それでも、善意で配られるチョコは、大切な実績としてカウントされるだろう。

 そんな教室で実績を求める男子である与儀は、例年とは違う緊張感に支配されていた。

 昨日の見知らぬ少女からの誘いが気になっていた。

 自分は、先輩のことが好きなはずなのに、どうしてこれほどあの少女が気になってしまうのか。

 与儀の中に変な罪悪感が湧き上がり戸惑う。

 いや、まだ告白されたわけでもないのに自意識過剰だ、と不純な考えを頭から追い出そうとする。

「おっす、悩める少年」

 窓の外をぼーっと眺める与儀の前に大取智也が現れる。前の席の椅子によっこらしょと腰掛け、背もたれに両手をかけてもたれかかる。

 少し気だるげな視線が「何だよ」と大取に問い掛ける。

「こんな楽しい日に窓の外を眺めて黄昏たそがれているヤツがいるなーと思ってな」

 そう言って大取は学ランのポケットから綺麗きれいに包装された箱を取り出す。そして、迷わず開封する。

「遠慮ってものがないな」

「ちゃんと食べるのが礼儀だろ?」

 言うが早いか、口に小さなチョコレートの欠片かけらが放り込まれる。

 しばらく咀嚼そしゃくし、「うまい」と一言。

「で、悩んでいる原因はアレだろうが。収穫はあったかね?」

「嫌みなヤツだな。ないよ」

 毎年のように、遠慮なく与儀に問い掛けられる言葉。

 毎年のように返される答え。

「本当かよ。女子どもも見る目がないな」

 大取は、与儀の状況を分かってはいたが、本気でそう思っているようだった。

 だからこそ、与儀の前で戦利品を食べることに遠慮をしないし、状況を聞くことにも遠慮をしていなかった。

 そして、あることも理解していた。

「でも、今年ももらっているんだろ?」

「まぁね。でも、あれはカウントしないだろ普通」

 与儀はめ息交じりに答える。

「アレって言ってやるなよ。ナルちゃんの愛情がたっぷり込められているんだろ?」

「まぁ、そうなんだけど。それもだけれど、やっぱり、大取がナルさんのことを『ちゃん』付けしているのを聞くと変な気分だな」

「本人の希望だしな」

「大取のその性格がうらやましいよ」

 大取が満面の笑みでサムアップする。

 それを見て渋い表情の与儀。しかし、内心は話題がれたことに安心していた。

「僕は流石さすがに無理だから、さん付けにしているけれど、そのうち大取のことをお義兄さんと呼ぶ日が来てもおかしくないって錯覚をして怖いよ」

「ははは、それも悪くない」

「やめてくれよ」

「ひでーな」

「見た目はあんなだけれど、実年齢は知っているだろ?」

「まーな」

流石さすがにないだろ?」

「愛があれば……。いや、むしろアリだろ」

 与儀が渋い顔をする。

「ロリコンめ」

 教室の数か所から殺気が放たれた気がするが、与儀は無視する。

「実際問題として恐れ多いというか。同年代だったとしても釣り合える気がしないけどな」

 大取は、両手を小さくだがあげて降参のポーズ。

 同意するようにうなずく与儀。

「身内の僕が言うのも何だけれど、天才だからなぁ。正直、周りの男が敬遠しちゃってそう。見た目もアレだし」

「言えてる」

「記憶の母さんとも全然性格が違うし、写真を見ても姉妹とはとても思えないレベルだし」

「そりゃ姉妹ったっていろいろだろうよ」

「見た目からして違うし仕方がないのか……」

「お前のかーちゃん普通だしな」

「普通だね。本当に姉妹なのって突っ込みたくなるけど、母さんの子供のころの写真にそっくりだから、血縁なのは間違いないんだよな」

「写真見せてもらったときはビックリしたぜ。宇宙の神秘だな」

 うなずき合う男子二人。

「で、そのミステリアスな叔母様から愛情を一身に受けている与儀くんよ。今年の運命はどうなったんだ?」

 大取の同情するような面白がるような問いに、与儀は表情が明らかに曇る。話題が戻ってきてしまった。

「……」

「もう、何かあったのか……」

 例年は大抵放課後に与儀の叔母が嵐のように現れてちょっとした事件を起こしていたのだが、与儀の様子から大取は察した。既にことは起きていたのだと。

 しかし、与儀は少し表情に色を取り戻すと、

「あった。他人には見られてないだけ、例年よりはマシかもしれないけどね」

 そう言った。

 大取は、聞くべきか、そっとしておくべきか一瞬だけ迷って聞くことにした。笑い話にしてどうでも良くなるきっかけを作ってやるのが友達だからだ。

「で、何があった?」

「起きたら、枕元にプレゼントボックスが置いてあって……」

「ク、クリスマスか?」

「僕もそう思った」

 まだ、突っ込みを入れる余裕があった。

「何ていうか、今のところは普通だな」

「ああ、それでだな。メッセージカードがついていた。内容は」

「内容は?」

 与儀は、さっと学ランの内ポケットに手を入れるとカードを取り出した。

 

――おっはよー、なおくん。愛情たっぷりのバレンタインチョコだよ。その辺の小娘たちに負けてられないから、今年は一番乗りで渡せるようにしてみたよ! うれしいかな? うれしいよね? 追伸、ホワイトデーは楽しみにしてるよ! いとしのナルより――


「……」

「……」

 沈黙が支配する。

「持ってきたのか? これ」

「本当は持ち歩きたくないけど、この内容を口にするのも嫌だから持ってきた。どうせ、説明することになるだろうし」

「破かずに持っているあたり、さすがだな」

「そんなことして、後でバレたとき助けてくれるのか?」

「救助不能に決まっているだろ」

「責任取れよっ」

 さらなる一瞬の沈黙。

 その後、二人から自然と笑い漏れる。

 そして、大取は質問を最終段階へと移す。

「それで、中身はどうだったんだ?」

「いつも通りだったよ」

「そっか」

「例年通り、それほど手の込んだ感じじゃないけど、間違いなく手作りだったよ。おいしかった」

 与儀としては、毎年おかしな趣向と演出で渡されて迷惑している部分もあった。しかし、忙しい生活の中でわざわざ自分のために作ってくれたであろうチョコが、すごくうれしかった。

 だから、結局、ひどい仕打ちっぽいことも最後は笑って流していた。それを共有できる友達がいたのが大きいかもしれない。

 そう思って、その友達へと視線を向けると手の平が見えた。

 天井を向いた手の平が、ゆっくりと上下に動いて何かを催促している。

 このあたりは、さすが大取だと思いつつも、少しあきれてしまう。

「わざわざ持ってくるわけないだろ」

「ナルさんの料理はおいしいからなー、食べたかったぜ」

「今年は諦めてくれ」

「しょうがねーな」

「しかし、ナルちゃんにしては大人しめだったな」

「忙しくてこんな対応になったんだろうな。何か、新しいエンジンの開発が佳境らしいよ」

「ほほぅ。そんなことしゃべって大丈夫なのか?」

「開発していること自体は公表されているからね。それに、細かいことなんて聞いたって分からないし、知らないし、その程度だよ」

「そらそーだ。俺らの脳みそじゃ、全くついて行けないだろーなー」

「専門知識がない上に、そもそも次元が違うからね」

 全くだ、と顔を見合わせてうなずきあう二人。

 そして、少し硬くなっていた体を和らげて――。

「大変そうだけど、楽しそうだから、むしろ羨ましい感じだよ。将来、二足歩行ロボットを動かすためのエンジンを作るって夢だけは、解せないモノがあるけどね」

「だよなー。某ロボットアニメみたいな核融合エンジンでも作る気なのかと思ったりもするけど、実現したら面白いだろな」

「どんなエンジンかは見当もつかないけど、いつか、本当にやりそうで怖いよ」

 そう言って笑い合う二人。

 気がつけば担任の教師が教室に入ってきており、落ち着かない雰囲気だった教室も少しはいつもの空気を取り戻していた。

 大取も座っていた椅子を本来の使用者に明け渡し、自分の場所へと戻る。

 

 ◇

 

 冬の日差しは低く昼でも部屋の中を明るく照らす。

 床に広がる窓枠の模様が、冷気で満たされる部屋をほのかに暖かく感じさせる。

 日常的に授業で使用しない教室は、生徒の出入りがないため日中でも寒さからは逃れられない。それが普通だ。

 しかし、二人の少女が机を向かい合わせて座る教室は違った。彼女たち二人だけしかいない寂しげな風景。机の数も少なく、むしろ教室には似つかわしくない折りたたみ式の長机や書類棚もある。

 しかし、だからといってほこりにおおわれていたり、置かれている机が散らかっていたりと、非日常を代表するような様子もない。非常に整頓されている。

 見回すと通常の教室にはないはずの装備が設置されていた。いにしえの動植物が姿を変えた貴重な素材を飲み干し、現代に豊かさをもたらす装置。それは石油ファンヒーター。

 活発に燃料を燃やし、部屋を暖める。

 近くの壁に、『換気を怠るな!』と書かれた張り紙が見える。しかも、半紙に書かれており非常に達筆である。火気の近くに燃えやすい半紙なのは少し不安もあるが、石油ファンヒーターの近くというよりは、窓の近くなので良いことになっているのだろう。

 通常の教室ではあり得ないような暖かさに包まれた教室、ここは生徒会室。生徒のために用意された部屋の中では、ある意味一番優遇された場所。

 そのような場所を昼休みに占領できる二人は当然、生徒会関係者。ただし、現在の役員ではなく、過去の役員。前生徒会長・たかみやずみと、前副会長・ともながだ。

 その元役員の二人が向かい合って何をしているかと言えば、弁当を食べていた。

 ランチである。

 机にはランチョンマットが広がり、いろどり豊かな具材が詰められた弁当箱がふたつ。

 ファンシーに調理されたおかずが、女の子っぽさを見せつける可愛らしい弁当箱。

 彩り豊かな中にも落ち着いた女子力を見せつける、純和風な弁当箱。

 どちらも本人の手作りであり、二人のクラスでも他の追随を許さないほどの味を誇っていた。

 一見お子様向けとさえ思わせる見た目とは裏腹の徹底的にこだわった味付け。

 少し硬い印象を漂わせる漆塗りの弁当箱と、落ち着いた色合いからは想像できない優しい味付け。

 どちらも朝の忙しい時間を上手に使い、極上の味を実現するテクニックがふんだんに盛り込まれ、きっちりと短時間で仕上げられているのだ。

 女子力向上を目的に気軽にテクニックを聞き出そうとしたクラスメートの女子が、あまりの次元の違いに絶望してしまったが、直後の試食で浄化され昇天したとのうわささえある。

 女子高生離れした特技を持つ二人が、お昼休みのこのとき、机を挟み向かい合っていた。

手元に広がるのは(本人たち的には)いつものように、ただ習慣として何の気なしに作られた弁当。

 彼女たちの間では、既に弁当の内容に対して議論をするレベルは脱していた。もちろん、新メニューを持参したときは、試食し合って講評することもあるが、今日は違う。

 二人の会話、いや、片方の興味は、お弁当よりももっと普通に女子っぽい内容であり、とてもストレートに突きつける。

「ねぇ、いずみ」

「何、かなちゃん」

「与儀少年にチョコは渡すの?」

 カッ。

 つまもうとした里芋を取り逃し、箸が勢いよくぶつかる音がした。

 貴宮は、そのままの姿勢で硬直し、視線を弁当箱から外せない。

 少々うつむいているが、友永からも貴宮の肌が赤くなっていることがわかる。

「何、今更赤くなっているのよ」

「え、いえ。だって……、かなちゃんが急に変なこというから」

 動揺して視線を泳がせる貴宮。

 友永は、平然とした顔で弁当箱に詰められた色とりどりのおかずから、タコさんウィンナーを箸でつまむ。

 そのまま、口に運ぶと今日のできばえを確かめるように味わい、咀嚼そしゃくする。

 挙動不審な貴宮を前にしても、特に気にする様子はない。

 副会長にとっては、生徒会長のこの有様はいつもどおりで見慣れていた。

 会話を誰かに聞かれていないかと心配げに辺りを見回す貴宮。

「別に何もおかしなことは言っていないと思うのだけれど?」

 すました顔で追い詰める。

 ふたりしかいない教室で何を心配する必要があるのか。挙動不審な状態からなかなか立ち直れない貴宮への対応が容赦ない。

 しかも、ここは生徒会室で一般の生徒は通常寄りつかない。いつもなら現役員メンバーの後輩女子がいるのだが、今日は用事でこられないと二人は聞いていた。彼女たちも自分たちの戦いの準備に余念がないのだろう。だから、込み入った話をしても特に問題はなく、友永に遠慮がないのだ。

 落ち着いている友永は、質問をつむぎながら、弁当箱から今度は花形に切られたゆで卵を持ち上げる。

「おかしくは、ないかもしれないけれど……」

 貴宮は少し不満そうに唇をとがらせて、里芋の煮物を口に運ぶ。いつもなら危なげなくつかめる里芋に箸を突き立ててから、少々大げさに口を開けてほおばる。

「いずみ。お行儀悪いわよ」

 生徒会長という肩書きには似つかわしくない可愛らしい行動。

 それをたしなめる副会長。

 その間にも、友永の箸は、ふりかけの細かい粒を落とすことなくご飯を運ぶ。

 貴宮は、口をもぐもぐと動かしながら、置いた箸の手前に両手の指先を少し重ねるようにする。そして、友永を上目遣いににらむとほおを膨らませる。

「で、渡せそうなの?」

「……」

「渡す約束していないの?」

「……だって、私が渡したってわかったら大変なことになるでしょう、与儀君が」

 貴宮は持ち直した箸で、ふっくらと焼き上げたさけの切り身を突く。元々の柔らかさもあり、どんどんほぐされていく。どんどん食べづらくなっていくのだが、ついつい続けてしまう。

「そこをちゃんと理解してるのは流石さすがだけれど、今は最大の弱点ね」

「今までのことを考えれば嫌でも自覚するわよ。何か、人並みにバレンタインを体験したかったな」

 感情に合わせ下がる眉。

「一年の頃はそれどころではなかったし、二年になったら目標ができて忙しかったからね。だからこそ、高校生活最後のバレンタインくらいは満喫するんだって、先週まではあれだけノリノリだったじゃない」

「それは、かなちゃんがあおるから……」

 親友の理解が苦しい。

「でもね……」

 と、続ける。

「与儀君には、好きな人がいるし」

「そうでしょうね」

「うん」

「いずみのことでしょ」

「違うよ……」

「そうかしら?」

「そうよ」

「どう見ても、いずみのことが好きで好きで仕方がないって挙動をしているけれど」

 友永は真顔で考える。そして、やはり自分の考えに間違いがないと納得する。

 そして――。

「なら、やっぱり渡さないの?」

「意地悪」

「意地悪とはご挨拶ね」

「だって……」

 間があく。

「既に当日だし、アポなしでいきなり渡すしかないわね。ある意味、それが普通かもだし」

「どうしてそうなるの」

 顔を赤くして講義する。

 友永は、プチトマトを持ち上げて貴宮の顔と見比べ、口へと放り込む。そして、はじけるトマトの水分で口の中を潤す。

 少しの間を置いて、口内が落ち着いたところで、問い掛ける。

「いきなり呼び止めて渡すやり方が、やはり青春な感じがすると思わないかしら?」

 友永の脳裏に貴宮の行動を思い浮かべ、ひとりうなずく。

 貴宮には優しげに微笑ほほえむ友永が、楽しんでいるようにしか見えなくて不満だった。

「大体、のんびりしていたら卒業してしまって、事実上、会えなくなるのよ。他の女にられるわよ」

られるって。モノじゃないんだから」

「でも、そうでしょ? いつまでもウジウジしてられないわよ」

「ウジウジしてない。私には目標があるから。やっぱり男の子とお付き合いなんてできないよ」

「そうかしら、悪くないと思うけれど」

 アドバイスを口にしながら、視線の先はアスパラの肉巻き。アスパラと豚肉のコントラストが食欲をそそる。

 貴宮は、ご飯を小さくつまんで口へ運び、少しの咀嚼そしゃくののち喉を動かす。その間に、迷いを悩みに変換して相談の方向へと運ぶ。

「でも、放課後はもうダメなの……」

「なぜ?」

 思い当たる節はありつつも友永は首をかしげる。

「呼び出されちゃったから」

 どこに隠していたのか、封筒を机の上にのせる。

 友永は視線を封筒に落として、軽く息を吐く。

 予想通りだ、と。

「そう……。今日を選ぶとは相手も流石さすがというか、なかなかね」

「そこはよくわからないけど」

「いずみは本当に律儀ね、無視してもかまわないのに」

「でも、ちゃんとお断りしないと」

「いつも通り名前は書いてないんでしょ? 名乗りもしないで一方的に呼び出すような勝手な男子なのだから、別に無視したってかまわないわ」

「それでも、誠意をもって答えたいから」

 貴宮の頑固さは友永が良く理解している。その真っぐさが、彼女の良いところであり、いとおしいと思う。だが、これは彼女の本心であると同時にある目標への過程でもあり、不憫ふびんでもあった。だから、友永は最大限のサポートをしようと決めていた。

「それでは、私が校門のところで与儀少年を引き留める。運が良ければ彼の下校に間に合うでしょうから、そのときは覚悟を決めなさい」

「うん」

 強く箸を握りこむ。

 友永にのせられていると思いつつも、少し気持ちが晴れやかになった気がした。

 貴宮の変化につられて表情をほころばせる友永だが、視線を見上げるようにズラして一言。

「ところで、早く食べないとお昼休みが終わるわね」

「えー? ちょっとくらい大丈夫だよー」

 話がまとまって迷いがなくなったからか、親友の友永の前だからか、少し気の抜けた返事をする貴宮。

 更に空腹を思い出したように、黄金色に輝く卵焼きを口に運ぶ手が元気だ。

「そうね、三年生はもう決まった授業はないから、教室に戻って自習するだけですものね」

 そういって、友永は弁当箱をしまった巾着袋のひもをシュッと引っ張り閉じた。

 同じタイミングで、貴宮はつまみ上げていたジューシーながんもどきを落としてしまった。落下先は弁当用カップだったが、その勢いで汁を跳ね上げてしまう。幸いにも弁当箱から外へ跳ねることはなかったが、白いご飯にシミを作った。

 視線を手元から向かいの友永に向ける貴宮の目には涙が浮かんでいた。

「大丈夫よ、ちゃんと待っているから」

「ありがとー」

 お礼を言うが早いか、今度はほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。さんざんほぐされ続けていた焼き魚はスルーされた。尾頭付きなら『なぜ自分を無視したのか』と抗議の視線が投げかけられたはずだ。切り身なのでもちろん目はなく、静かに弁当箱で次に持ち上げられる瞬間を待っている。

 そんな焼き魚を尻目に、必死に口を動かし咀嚼そしゃくする。

 しかし、決して早く食べているとは言えなかった。もちろん、本人は必死なのだが、普通の人の普通な食べ方にすら追いついていない。

 そして、弁当箱が空になる頃、無残にもお昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 

 ◇

 

 夕方と言うには早い時間。

 冬の太陽の低さで教室に差し込む光がまぶしくなるころ。

 一日の授業がすべて終わると教室の中が、再び浮き足立つ。

 いつもなら、この後どこへ遊びに行くか、部活で何をするかなど話題は一気に放課後の楽しみへとシフトしていく。

 しかし、今日は二月十四日。

 男子は最後の希望にすがり、女子は最後の機会を狙う。中には特に感心のないものや、完全に諦めムードの者もいる。

 いつもとは空気が明らかに違っていた。

 そんな若々しい空気など気にとめる様子もなく、教壇に立つ担任教師が淡々とホームルームを進める。

 体のラインを否応いやおうなく強調してしまうシャツにタイトスカート。その上に白衣を羽織った女教師だ。

「先日、渡した用紙に進路希望は既に書いてあるな? 期限は本日までだ、忘れたとは言わせんぞ」

 浮ついた空気を一気に現実に引き戻す、問い掛け。

 生徒たちは己に課せられたことへの責任を思い出す。

 今日の連絡事項の締めくくりとして、担任は教室を見渡し、厳しい表情で言い渡す。

「与儀は、この後、全員から集めて持ってくるように」

 名前を呼ばれた与儀はいつも通りですね、と肘から上を動かして手を上げる。

 それを見てうなずく担任。

「まだ、進路を決めかねているものもいると思うが、そろそろ真剣に考えるように。ろくでもないことを書いたヤツは……わかっているな?」

 ごくり。

 教室内に生唾を飲み込む音が響いた、と一部の男子生徒たちは錯覚する。

 それは、自分自身が無意識で行った動作の結果でしかないのだが、それにすら気づけないほどの高まりが教室内を覆っていた。

 それと同時に、ある単語が男子生徒たちの脳裏に湧き上がる。

――ご褒美――

 そう、とある業界で言うところのご褒美がいただけるのだ。

 白衣の上からでもわかる、扇情的なボディラインの美人女性教師とマンツーマンで進路指導が行われる。その事実だけでも、思春期の男子生徒たちにとっては鼻血モノだ。しかし、それだけでは、到底業界用語としてのご褒美とは言えまい。

 悪ふざけをした生徒に待っているのは、担任教師からのお説教だ。レンズの奥に潜む切れ長の瞳が、心の奥底を掘り起こすかのような力強さをもって、ねめつけてくる。

 想像しただけで昇天しそうな男子生徒もいる。

 しかし、誰でもそのご褒美を受け取れるわけではない。過去に、相当酷ひどいことをしでかした生徒が、震え、おびえて教室に戻ってきたという話があった。そのうわさは、一部の生徒から伝え広げられ、誇張され、いつしか信奉にすらなっていた。

 そして、今の教室の雰囲気に至る。

 当然、女子生徒たちはしらけた雰囲気になり、め息が各所で漏れる。あるモノはさっさと進路希望の用紙の内容を確認し、またあるモノは教科書に目を落とし、あるものはあきれて物も言えないと首を振る。その女子生徒たちは、無視しているモノたちよりも、男子生徒たちをいくぶんか許容しているのかもしれない。だからといって、まともなわけはない。虫けらを見るような目になっている女子生徒もいる。

 ただ、どんな集団にも例外はいる。一部の女子生徒はとろけるような瞳で教壇の担任を見上げている。彼女たちは別格だ。ある意味で、男子生徒たちよりも上級者と言える。美人で格好良い担任は女子生徒からの人気も高い。そのためだ、と割り切るのが正解だ。深く考えてはいけない。

 甘い青春が漂わせる空気は、担任教師の発言により一気に消し飛んだ。

 いつも面倒なことを押しつけられる与儀は、女子生徒たちとは違う意味でのめ息をついていた。

 本来なら書類などホームルームの時間に集めてしまえば良いのだ。しかし、どうしても希望を決めきれない生徒もいる。ほとんどの生徒が大学進学をするが、中には就職する生徒もいる。校外の模試を受けて現実と実力のギャップを感じて迷走している生徒もいる。

 つまり、進路希望を書けずにいる生徒がいるのは毎年のことでもあり、そこを見越してすぐさま回収をせず時間を稼いだのだ。

 生徒を思いやってのことか、結局、この場で回収しきれないのなら与儀に任せてしまえば良いと考えているのかは、崩れることのない担任教師の表情からは読み取れない。

 だが、与儀もこの一年間で成長をしている。こうなることを予想し、既に根回しという催促は終わっており、回収はすぐに達成できる予定だ。

 このあたりの要領の良さを見せてしまったがために一年間、クラス委員を任されることになっていた。

 それでも、書類を集めてから担任のいる部屋まで運んでいると、少なからず時間が必要だ。そして、昨日の下校時の出来事を思い出す。

(あの子、待たせてしまうな)

 律儀にも一方的にされた約束の心配をしてしまうのだった。

 

 ◇

 

 授業が終わり、下校や部活へ向かう生徒でにぎわう廊下。

 与儀は、その人の流れに逆らっていた。

 通り過ぎる昇降口、教室のある棟から別棟へとつなぐ渡り廊下。各階を繋いでおり屋根はあるが、窓がなくベランダのような作り。

 建物の間を吹き抜ける風が、帰り支度を済ませたコートの上からも冷たく感じる。

 教室の中で温まっていた体が一気に冷えてしまったような感覚。

 与儀は、首をすぼめて一気に目的の棟へ向け、自然と足早になる。

 特別教室ばかりの棟で人通りのない廊下を歩き、一番奥の扉を開ける。扉の上には理科準備室と書かれたプレートがかかげられている。本来は教材をしまうための部屋だが、ある人物が業務と称して占拠していた。

 与儀も、状況を良く理解しており、開ける手に迷いはない。

 そして、開け放たれた扉の奥から声がする。

「おう、早かったな。頼んでおいた書類は回収してくれたか?」

「はい」

 全く驚いていない様子で、『少し驚きました」的な発言と手を出している白衣の女性がいる。

 担任教師である。

 足を組んでふんぞり返るように豪華そうな椅子に座っている。年季の入った椅子らしく、担任の動きに合わせてきしむ。

 与儀は、ずかずかと理科準備室に入ると、差し出された手を無視して手頃な机に書類を置く。

「では、失礼しました」

 素早くお辞儀をすると、即座に退出。

 しようとしたが、背後から声がかかる。

「何だ、もう行くのか? はたらいてくれた生徒に茶を出すくらいはするぞ?」

「約束があるので……」

「ほぅ。女か」

 足を止め、意識を担任の方へと向ける。

 その様子を見て、目を細め眺める担任。

「そ、そんなんじゃ……」

 否定しようとするものの、言葉が詰まる。与儀としては見ず知らずの女子に対しての下心はない。かたおもいをしている人がいるのだから。

 しかし、女子からの誘いがうれしくないはずがなく、そこを簡単に見透かしてしまう担任の口の端が自然と持ち上がる。

「ん? 美人教師の茶の誘いを断って、うれしそうに約束があると言えば、女くらいのものだろう。まぁ、大人の魅力は将来いくらでも堪能できるが、女子高生の初々しさを楽しめるのは今だけの特権だしな。大人になってから手を出すなよ、教え子が犯罪者になってしまったら先生は悲しいぞ」

 少しも悲しそうに見えない担任は、さりげなく恐ろしい現実を突きつけ、組んでいた足を入れ替える。

 現役高校生の与儀には、まだ実感できないアドバイスだったが、短いタイトスカートから伸びる脚線美の素晴らしさは理解できた。

「せっかく、特製のチョコカフェラテを用意していたのに残念だ」

 なぜか、気に入られていた。

 自意識過剰かもしれないと思いつつも、明らかに対応が他の生徒と違っているのだ。もちろん成績で優遇されるようなことはなく、そこはむしろより厳しく見られている。しかし、こうして呼び出されて、面白がられるようなことは、他の男子から聞いたことがない。楽しいおもちゃ程度のことかもしれないが。

 春にクジ引きでクラス委員に任命されてから、幸か不幸かいろいろと不純な理由も含めて律儀に働いてしまった結果、本来なら前期だけのはずのクラス委員を後期も拝命することとなってしまった。

 そして、今日も担任に書類を集める仕事を仰せつかり、約束の相手を(恐らく)待たせている状態で、校舎の中で最も古い棟、更にその中でも最奥の理科準備室まで来ていた。

 担任が目配せをした先にはビーカーがアルコールランプで温められ、黒い液体が揺れていた。

 あれが、チョコカフェラテなのだろう。

 ときどき、飲み物や食べ物を勧められることがあるのだが、必ず理科の実験で使うビーカーやフラスコ・バットなどで提供されるため遠慮している。

 今日のメニュー? がチョコなのは、一応バレンタインだからなのだろうか。

 自分の担任にそのような発想があるとは思いもよらず、与儀はいつも驚かされる。

 それでも、チョコという言葉に無駄に反応してしまうあたり、思春期男子の宿命なのだろうか。お世辞抜きで校内ダントツトップの美人教師なのは間違いない。その本人からのチョコである。惜しいとは思うが、担任からご褒美をもらいたがっている男子生徒たちに知られたら、と思うと身の危険を感じずにいられない。

 その迷いを自然に読みとる担任は、微笑を浮かべて、

「もったいないことをしたな。そら、早く行け。青春は待っていてはくれないぞ」

 他人のことをあごで使って時間を費やさせたくせに勝手な言い方である。

 与儀は、少しムッとすると理科準備室の扉を閉める。そして、理科準備室へ向かってきたときとは逆の方向へと廊下を進む。

 昨日の見知らぬ少女と具体的な時間の約束をしたわけではなかった。ならばこそ、あまり時間を費やすわけにはいかない。下手をすると随分前から待ち続けているかもしれないのだ。

 そう思う与儀は、昇降口への近道を選んだ。校舎内を通らずに裏庭を突っ切る形で外から昇降口へ回り込む作戦だ。いつもは人通りも少なく、上履きで歩いていても口うるさく言う先生にも会わない。

 通用口を開け放ち、外に飛び出す。

 足早に進む先に視線を向けると、今は廃部になって久しい茶道部の茶室が見える。茶室を回り込めば昇降口まですぐである。

 そのとき、声が聞こえた。

「ずっと君のことが好きでした。付き合ってください」

 それほど大きな声ではない。

 緊張して震えているようにも感じる。

 しかし、声の主の気持ちがハッキリと伝わる。

 とてもストレートな言葉。

 与儀は、驚いて思わず近くの壁に背中を寄せて身を隠し、息を潜める。

 壁に近づくまでに見た光景は、緊張で身を固くした男子生徒の後ろ姿と、少し困った表情の貴宮伊純。

 二人は、校舎と古ぼけた茶室の間で向かい合っていた。

 植木もあり密会をするには最適な場所だ。

 茶道部が廃部になり、いつの頃からか告白スポットとして有名になっていった。

 与儀は思う、先輩はいったい何度ここに呼び出されたのだろう、と。

 告白した男子生徒は、与儀には気づいていない。

 しかし、貴宮とは目があった気がした。ほんの一瞬だが、男子生徒の脇から見えた貴宮は間違いなく与儀のことを認識していた。それでも、気づかないふりをして男子生徒と向き合う。

 与儀は、この近道を通ることを諦めて引き返す。まさか、告白をしている横を堂々と通るわけにはいかない。

 近道をしようとして遠回りになってしまった。急がば回れとはよく言ったものである。

 もとた道を歩き、廊下を進みながら与儀は先ほどの男子生徒の言葉を思い出す。

 とても素直な気持ち。それを伝えていた。

 自分はどうだろうかと自問自答する。もちろん、答えは分かっている。

 あのときから、伝えることを諦めてしまっていたような気がしていた。そんなことはないと思いたいが、大切にしまっているだけでは、意味がない。大切にしすぎて何もできず終わってしまうかもしれない。伝えなければ、この気持ちはないのも同じだ。そう考えると今まで何もしていない自分が腹立たしくなってくる。

 他の男子たちに負けてなどいられないのだ。たとえ、貴宮の記録の礎になったとしても悔いはないはずだ。気持ちを伝えられずに終わる方より、スッキリすっぱりフラれる方が断然良いはずだ。

 今日の約束をした見知らぬ少女もそうだ。真っぐにぶつかってきてくれている。先輩のように答えなければいけないし、負けていられない。

 気持ちが引き締まり背筋が伸びる感じがする。

 

 ◇

 

 校門へと続く道は、一日という長い教室生活から解き放たれた生徒でにぎわっている。

 部活へ向かう途中の生徒。

 校門へと向かう生徒。

 友達と立ち話に花を咲かせている生徒。

 それぞれが、それぞれの青春を謳歌おうかするべく振る舞っている。

 その生徒たちの中を与儀も校門へ向かって歩く。

 待たせてしまっているのなら申し訳ないとも思うが、具体的な時間を約束したわけでもないし、一方的に言い放って去っていったのだ。多少のことは目をつぶってもらおう。

 うちからにじみ出る決意が自信となり、浮ついた様子は見せない。

 具体的に本人を目の前にしたときに、どうすれば良いか考えているわけではなかった。

 しかし、考える暇などなく校門に辿たどり着く。そこには、例の見知らぬ制服を着た少女の姿が見える。

 与儀に気づいたようだが特に動く気配はなく、むしろ近づいてくるのを待っているようだ。

 目の前まで到達すると、少女は視線を合わせて言った。

「遅かったですね」

「ごめん……」

 与儀は素直に謝る。『担任に用事を頼まれて』などと言い訳はしなかった。

「まぁ、良いでしょう。こうして私の前に来てくれたのですから」

 少女は特にとがめることはなかった。

 与儀は、少し意外に思った。細かい時間を指定しなかったとはいえ、待たされたら怒るのではと思っていたからだ。

 しかし、向かい合う相手の表情からは特別、何も感じ取れなかった。

「……」

「……」

 そして、どちらも次の言葉を探しあぐねて沈黙が流れる。

 与儀としては呼び出されたのだから、少女の方から何か話題をふってくると思い込んでいたし、少女はと言えば、具体的に何と切り出せば良いのか全く考えていなかった。

 ふたりのそばを生徒が通り過ぎる。

 友人と世間話をしている生徒。

 自転車で颯爽さっそうと走り抜ける生徒。

 部活のランニングに出かける生徒。

 昨日も校門のところに立っていた、見知らぬ制服の女子生徒に皆、視線を向ける。

 昨日ほど好奇の目はないものの、当然、目立っている。

 もちろん他校の生徒など珍しくもない。しかし、女子生徒の美しい黒髪、整った顔立ち。視線が吸い込まれても不思議はない。

 幾人かの男子は恋慕のおもいを、幾人かの女子は羨望のまな差しを、二人に向けている。

 本来は周りの視線が気になって仕方のない状態だが、ふたりは全く気にしない。いや、気にする余裕がなかったのかもしれない。

 与儀はこれから自分が行うことへの罪悪感に支配され、少女は初めての行為への緊張感にまれていた。

 ある意味では、完全に二人の世界を作り上げていた。

 だが、それもすぐに崩れ去る。

 少女が動いたからだ。昨日は制服姿でカバンも持っていない不自然な状態だったが、今日は小さな手提げカバンを持っていた。

 少女はカバンに手を入れると、綺麗きれいな包装紙に包まれた箱を取り出す。

「これを、差し上げます」

 そう言って、少女は与儀に箱を無理やり押しつけてくる。

「えっ――、ちょっと」

 周りが少しざわついた。もちろん、二人にその様子は伝わっていないし、それはすぐに放課後の喧噪けんそうにかき消される。

 与儀は強引な渡され方に戸惑う。

 受け取ってはいけない、そう考えてここに来たはずだったが、それでも少女から渡されるものを拒みきれなかった。

 返さなければ。

 そして、言わなければ。

 君の気持ちは受け取れないと。

 もちろん、ただの義理チョコの可能性もある。

 有り難く受け取っておけば、それで高校生活にバラ色の思い出が追加される。

 だが、自意識過剰だと言われようとも、わざわざ他校の生徒が校門で呼び出しし、待ってまで渡そうとするチョコレートが義理なのだろうか。

 与儀は、声が出せない喉を叱り付ける。

 たった一言。

 それだけなのに。

 先輩は、いつもこんな気持ちだったのか。

 相手の気持ちがうれしくて、受け入れられないことが悲しくて、たった一言が口にできない。

 告白することは難しくて、断ることは簡単だと勘違いしていた。

 ぶつけられたおもいには、誠意を持って応えなければならない。

 与儀は、喉を鳴らし、大きく息を吐く。

「ごめ――」

 ゴトッ。

 やっとの思いで口にしかけた言葉が、鈍い音に遮られた。

 実際にはそれほど大きな音ではなかったはずだ。その証拠に周りの生徒は誰も気にしていない。

 しかし、誰の耳に響かなくても、与儀の耳にだけは大きく響いた。

 それまで、周りの喧騒けんそうなど全く耳に入っていなかった。それなのに、硬い通学カバンがアスファルトに激突する音に混ざって聞こえた音があった。それは、小さな、小さな金属音。

 その音を忘れるわけがなかった。

――ありがとう――

 大切な言葉とともに、大切な人の笑顔が脳裏をよぎる。

 そして、音の聞こえた方を振り向く。

「……ッ」

 そこには、全校の憧れであり元生徒会長・貴宮伊純が立っていた。いつもの柔和な笑顔はなく、瞳は光を失い、綺麗きれいに整えられているはずの髪が広がり、舞い上がっているように見える。

「違うんです、先輩」

 与儀は、自分の手の中の箱をどうして良いか分からず戸惑う。

「違う?」

 チョコレートを押しつけた手を持て余していた少女が与儀の言葉に反応する。

 そして、与儀の視線の先にいる女子生徒を見て、苦々しそうに目を細めた。

 対する貴宮も、与儀に包みを渡した少女を見て納得する。

「やっぱり……そうよね」

「何が……」

 与儀は問い掛けたつもりだったが、声にならない。

「間違っていなかったよ。あなたには、ちゃんと大切な人がいる。分かっていた。分かっているつもりだった。それなのに、私はひとりで勝手に期待して裏切られたと思い込んでる。最低な女。やっぱり、私には私の目標を追いかける以外には何もしちゃいけない」

「そ、そんなこと……ない」

 与儀には何もやましいことはない。自分の慕っている先輩に対して隠していることもない。強いて言えば、自分の気持ちをハッキリと伝えていないことくらいだ。

 だが、与儀の言葉は歯切れが悪かった。

「そんなこと、なくないよ」

 何も言えない。

「だって、罰だから。偽善者には偽善者らしい生き方しかできない。私みたいな女を相手にする人なんていない。いちゃいけない」

 与儀の表情が凍り付いたように動かない。

 声を出すこともままならない。

「あのときの約束、うそでもうれしかった。学園祭から、ずっと楽しかったよ。でも、本当に迷惑をかけちゃったね……」

 揺れる瞳からついに透明な液体があふれ出す。

「ありがとう、さようなら」

 貴宮は走り出す。

 いつの間にか近くにいた友永が、置き去りにされたカバンを拾い上げ追いかける。

 そのとき、与儀と目が合った。しかし、その瞳には責めるような威圧感はなく、ただいつも通りだった。

 貴宮の後ろ姿に手を伸ばすだけの与儀。

 他には何もできなかった。

 いつの間にか、下校時間帯の喧噪けんそうがやみ、門の前を通り過ぎる車の音だけが、時が動いていることを示していた。

 与儀を含め、周りに居合わせた生徒たちは初めて見た。この学校が始まって以来の人気を誇ると言われる貴宮伊純の涙を。

 それは、あまりにもろはかない姿、誰もが持っている貴宮のイメージからはかけ離れていた。いつも柔らかな物腰で、にこやかで、明るく元気で、それでいてしっかりと芯の通った振る舞いを貫いていた。生徒の中心に立つ姿はまさに輝いていた。

「――待っ」

――待ってください、あなたに伝えたいことがあるんです――

 与儀は、その一言すら声に出せない。

 目の前が真っ暗になる。

 伸ばしていた手も力なく下がってしまう。

 貴宮に反応するように向きを変えた与儀の顔は、少女からまともに見えない。しかし、どんな表情をしているかは、背中を見れば容易に想像できた。

「ちょっと?」

 少女は与儀に呼びかける。反応はない。

 構わず与儀の正面に回り込む。

 そこには、この世の終わりのような暗い顔があった。

 終わったとしても青春の一ページくらいのものだろう。それでも、笑い、泣き、喜び、悲しみがぶつかってくる青春。簡単に割り切れるほど大人でもない。

「君は、どうしてそれほどにツラそうなのですか?」

 反応はない。

「どうしてそんなに悲しそうなのですか?」

 やはり、反応はない。

「私のプレゼントは、何の意味もなかったのですね?」

 与儀に正面に立った少女は、瞳に映っていても見えてはいない。

「君の中でこれほどまで彼女のことが大きかったのですね……。少し人並みっぽいことをしてみましたが、効果はないようです」

 少女は、自身の認識の甘さを内心認める。

 もちろん、そのようなことは微塵みじんにも出さないし、出していたとしても目の前の抜け殻のような男に悟られるようなことは、なかったのだろう。

「ですが、どうしてこんなにも胸のあたりがモヤモヤとするのでしょうか。イライラとは少し違う」

 歴史に何の名も残さないようなモブのような君なのに。私の方から会いに来たというのに。君は私との出来事を忘れただけでなく、他の女性との思い出にすり替えていた。屈辱的です。

 だから、君のあの日の卒業式に向けての決意を確かめようと、このタイミングに戻しました。

 それなのに、君の決意は変わるどころか、もっと深いことが分かってしまいました。

 少女は、自分でも思考の流れを止められなかった。そして、胸の奥にモヤモヤとしたないはずの刺激を感じる。いっそ服を脱ぎ捨ててかきむしりたいとすら思える。

 目の前の少年を見ているともどかしい。

――どうして、私のことを覚えていないのか――

――どうして、あの女が君を救ったことになっているのか――

――あのとき、君を救ったのは私だ――

 そう、面白くないのだ。

 これまである意味で、世界を思い通りにしてきたのだ。

 たったひとりの君すら思い通りにならない

「正直、面白くありませんね」

 そうつぶやいて、決意する。これからの方針を。

 そして、指先で空中をでる。

 続けて、払うようなしぐさや、たたくようなしぐさをする。

 何度か似たような動きを繰り返し、一瞬、躊躇ちゅうちょしたかのように硬直する。しかし、それはただの確認であったのか、一呼吸置いて突き出された指先に迷いはなかった。

 その瞬間、世界を拒絶していた与儀は、そのまま世界から突き放された。

 瞳に映っていた景色は暗く深い闇に変わり、何が起こったかを認識するすべはない。

 ただ、それだけだ。

 世界は闇に包まれ、少女がひとり、立ち尽くす――。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ