卒業式
朝の空気を切り裂く一本の矢。そんな形容を思わずしたくなるような勢いで疾走する自転車。
そして、その自転車のペダルを漕ぐ学生服の少年、与儀直正。
いつもなら朝の気だるさで足取りが重くなる通学路も、今日は軽やかに感じられる。流れる景色は見慣れているはずなのに、今までに感じたことのない彩りを披露している。
通学路と併走する通勤電車の音も、いつもは騒々しいだけなのに、軽やかなステップを踏んでいるようだ。
与儀は、考えていた。昨日の出来事を。運命なんてあるはずがないと。それは夢見がちな中学生だけが、妄想の中に持つものだと。
しかし、あのとき自分の目の前に降り注いだ先輩の微笑みは本物で。それまで、ずっと心の中を覆っていた霧は一気に吹き飛んで。自分の高校生活、いや人生が明るく照らし出されたと思った。
昨日から高校二年生。新学期の初日に運命は訪れた。
普通に高校へ通い、普通に友達と学び、普通に進級する。
世界では様々な出来事が起きていて、物語なんかよりも劇的なこともたくさん起きているのだろう。しかし、個人的には特に何もない一年がまた過ぎるだけのはずだった。
バラ色でもなければ、灰色というほどつまらない高校生活でもない。そんな、平凡な高校生活を送る予定だった。
そんな高校生活で、与儀はふと考えることがある。
自分たちの住んでいる世界は、ゲームのような、誰かの作った幻想で、いつでも早送りや巻き戻しができるのではないかと。同じようなことを、同じような場面で前にも考えていたことがあるような気がするから。
デジャビュのような気もするが、好きな人のことなんていつでも考えているのだから、似たような状況など、実際に何度も経験していても不思議ではない。
全くもって夢見がちである、自分でも考えてしまうほどだった。
◇
そう考えていたのは約一年前。
一年前と変わらない通学路は、線路沿いの信号のない道路。
住宅街を走り抜ける通勤電車とすれ違ったり、追い越されたり。遠くから踏切の警報音が聞こえることもある。
駅から学校へ向かう生徒も多く、同じ学校の生徒をよく見かける。
今日も与儀は自転車を漕いでいた。
一年前と違いペダルを蹴る足に重さ、いや、ぎこちなさを自分でも感じていた。
紆余曲折あったものの、運命の女神である先輩とはそれなりに親しくなった。むしろ、一気に親しくなりすぎてしまったタイミングから、進展させられずにいた。その足踏み状態が続いてもう春まじかである。
二人きりになる機会もたくさんあった。割と良い雰囲気だったのではと思うこともあった。しかし、全く関係が進展する気配はなかった。
自分の本当の気持ちを伝えてしまうと、少なからず先輩にも迷惑をかけてしまう可能性があり、それはできなかった。周りとの関係もあり、少なからず先輩に気まずい思いをさせるのは申し訳がない。もちろん、これは自分の言い訳だ。
そして、もう言い訳をする猶予はない。今日は、先輩の卒業式の当日なのだ。
「今日こそ!」
同じ道を通学路にしている生徒たちから、何事かと向けられる視線。
衆目に晒されていることなど全く気にもとめず、ペダル漕ぐ足に力を込める。気持ちだけは、刺さるような視線を華麗にくぐり抜けている。が、実際はそのようなことはなく、少し気恥ずかしくなったのか、かけ声とともに吹き飛ばしたはずのぎこちなさが舞い戻ってくる。
気持ちを改めようと視線を上げると、交差点に張り出すように伸びた木の枝に何やら動くものが――。
猫だ。
通学路沿いの幼稚園。それほど規模は大きくないが園庭には大きな木々もあり、自然の中で子供たちがはしゃぐ姿はとても微笑ましい。
その園庭に立つ木の枝から子猫が落ちそうになっていた。好奇心に任せて昇ったまでは良いが、細くなった枝先から戻れずバランスを崩したのだろう。
与儀は慌ててハンドルのレバーを力一杯握りしめ、急停車する。
子猫の真下、交差点に少し入ったところだ。
停車と同時に見上げる与儀。
「うが」
「にゃっ」
目の前がブラックアウトし、柔らかいような、くすぐったいような気持ちよさが、顔面を覆う。同時に、おでこや顔の側面あたりに鋭い痛みが走る。
落ちてきた子猫を見上げた顔で見事に受け止めたのだ。
アスファルトの道路に激突は避けられた。
しかし、今ひとつ納得のいかない受け止め方をしてしまい、心境は複雑だ。しかも、慌てて与儀の顔面にしがみつこうとした子猫の爪が痛い。
与儀が、顔からもふもふの子猫をはがして、ホッとすると踏切の警報音が鳴っていることに気がつく。
子猫を受け止めるために急停車した交差点は、十字路の一か所が踏み切りになっており、すぐ側でけたたましい音が鳴っていた。
そのとき、閉まり始めた遮断機をかいくぐるように勢いよく走り抜ける乗用車がいた。線路の向こうから踏切を横断し、そのまま幼稚園横を住宅街へと走り抜けるつもりのようだ。
乗用車のドライバーからは踏切の設備で死角になっていたのか、そもそも慌てており見落としていたのか、踏切を渡り終えた先の状態に気づいてはいなかった。
異変に気づいて、与儀が踏み切り側を振り向いたときには、もう遅かった。
そこには、恐怖とも後悔とも分からない表情のドライバーが運転する乗用車が目の前にいた。
――せっかく助けたのに――
与儀がそのとき考えたのは、手の中にいる子猫のことだった。このままでは子猫が怪我をしてしまうかもしれない。
どうしたらよいのか、答えが見つかる間はなく。
自転車にまたがったまま、与儀も子猫も宙を舞った。
登校途中の学生もしばしば通る道が、一瞬凍り付き、すぐに騒然となる。
周りに居合わせた者は倒れて動かない男子学生を見て動揺するしかできない。
与儀と一緒に宙を舞った子猫は、少女の腕の中にいた。運良く飛ばされた先でキャッチされていたようだ。
その少女は、ツインテールを風に揺らし、抱いた子猫を見下ろし撫でる。
「本当に変わってません。詰めが甘いところも……。学校でお探ししても見つからないと思っていたら、このようなことに……」
「にゃー」
子猫は、木の枝からの落下、事故とかなり激しい体験をしたはずだが、そのようなことなど嘘のように落ち着いた様子で、目を細め気持ちよさそうにしている。
少女は子猫を下ろすと、その場を立ち去る。
◇
「今日こそ!」
先輩の卒業式の朝。
いつもの通学路を自転車で走り抜ける男子高校生、与儀直正。
線路沿いの道を軽快に走り抜ける。時折、すれ違う通勤電車に詰め込まれる人たちの姿を見て、辟易することもあるが、今日は違った。
自転車を漕ぐ足はいつもどおりとは言い難いが、それでも希望はあった。
意中の相手に告白するとき、もちろん断られる恐怖もあるだろうが、うまくいったときの喜びを想像し、大きな希望が心を占めているはずだ。
だからこそ、その行動に移せる。与儀の頭の中は既に幸せ一杯だ。
与儀の通学路である線路沿いの道路は、車の交通量が少なめで、ここを利用する生徒も少なくない。だが、どんな道であろうと考え事をしながら自転車に乗るのは危険だ。
そう思い直した、そのとき。
進行方向で、元気良く踊るふたつのしっぽ、いや、ツインテールが視界に入る。
白時に赤のラインの入ったリボンで飾られたツインテールに一瞬でも見とれる与儀。
「なっ」
だが、見とれていられるほどの余裕はなかった。
――なぜ、そこに――
と疑問を口にする余裕もなく、力一杯ハンドルのレバーを握りしめる。
軽やかに舞うツインテールをゴールテープにしてしまう直前。
後輪を滑らせ、横向きになって停止する自転車。
あと一瞬、反応が遅れていれば、ぶつかっていたかもしれない。
しかし、ツインテールの少女は動じる様子もなく、自然に与儀の方へと体を向ける。
「気をつけてください」
見知らぬ制服を着たツインテールの少女は言った。
自転車にひかれそうになったのだから、ごもっともだ。
「ゴメン……なさい」
与儀は少女の雰囲気に少し気押されて、言葉に詰まってしまった。
「怪我はないですか?」
実際に接触もしていなければ、避けようとして転んだりしたわけでもない。与儀は社交辞令だよなと思いつつも確認した。
――にゃぁ――
少女の返事が聞こえるよりも先に、遠くから猫の声が聞こえた気がした。それはとても小さく勘違いかもしれない。
だが、与儀はその猫を探さずにはいられず、目の前の少女の雰囲気から逃れるように視線を遠くへと飛ばした。
「懲りてませんね……」
「え?」
少女の呟きに、与儀は離れていた意識を戻す。
「怪我はないので問題ありません。とにかく、気をつけてください」
少女はそう言うと与儀が来た道を歩き始める。
「え、ちょ」
急に立ち去ろうとする少女をつい呼び止めよとしてしまう。しかし、見ず知らずの人とぶつかりそうになったからと言って普通は呼び止めたりはしないし、深く関わろうとはしないだろう。それでも、別れの挨拶くらいはした方が良かったのだろうか、と的外れな思考で離れゆく少女の背中を見ながら、本来の進行方向へと向き直る。
進行方向の先、幼稚園前の踏切が警報音を発し始めたそのとき、一台の自動車が勢いよく走り抜けた。
ときどき見かける光景だ。
歩行者でも自動車でも、警報が鳴り遮断機が下がり始めたにもかかわらず無理に踏切を横断する無謀な人たちがいる。今朝は、それが車だったというだけだ。
危ないな、と与儀は考えつつ、学校への道のりを急ぐ。
◇
放課後、通常ならそう呼ばれる時間帯。本日最大にして唯一の催しである卒業式を終えた時間もそう呼ぶべきなのかは分からない。
そんなくだらないことを考えて、教室の窓際の席から外を見下ろす男子生徒がひとり。与儀直正だ。
頬杖をついて、力なく腕に寄りかかる姿は魂の抜けた後のようだ。
窓から見える校庭では、卒業生との別れを惜しむ在校生の姿や、再会を誓い合う、男子生徒の厚い友情が、あちらやこちらで華やいでいる。今の与儀にとって、その光景は眩しくて押しつぶされそうだった。
昼間でも電気が点いていなければ薄暗い教室。まだまだ、冷たい風が吹くこともある季節だが、柔らかな陽の光に照らされる校庭。そこはさながら別世界。自分のいる場所との格差を感じてしまい、心の迷宮からも出られそうもない。
「はぁ~」
思わず溜め息が漏れる。大きく息を吐き出しては、外を眺める。これをずっと繰り返していた。
「どうして、あんなことになったのか……」
一時間程度前のことを思い出して、憂鬱になる。
普段は、一年生のときと比べると、別人のように前向きな性格になったと自他共に認める状況でも、流石に今回はへこまずにいられない。
「明日から学校に来たくないなー。もう一度、……」
ついには教室で登校拒否を求める始末。それほどまでに嫌なら、早く帰宅すれば良いのだが、そうしない。未練がましくも、少しでも同じ場所に、思い出のある場所にいたいと思ってしまうのだ。
そう、未練なのだ。「なぜ?」と疑問しか残っていない。
首は回るのかと言われるほど前向きな自分が、登校拒否を願うほどの現実。それも仕方のないことだった。
◇
時をさかのぼること約一時間。
目の前には憧れの先輩と、先輩の親友さん。そして、周りには先輩のクラスメート。そう、ここは先輩の教室のど真ん中より少し後ろ、先輩の席だ。
先輩には予め卒業祝いを後輩一同で渡したいからと、少し脚色を加えて呼び出す約束をしてあった。卒業式の当日に約束もなしに都合良く時間が取れるとは思えない。そう思っての準備だ。そして、自分が後輩一同が待っている場所へエスコートすることになっていた。
そのはずだった。
しかし、与儀の発言で静まりかえる教室。
それもほんの一瞬、すぐさま教室は賑わいを取り戻すが、状況は一変している。
向けられる好奇の目。
勇気を称える声。
行動をはやし立てる声。
先輩の返答に期待を寄せる声。
野次馬根性を発揮するクラスメートの先輩方。
好意的なものも、反感を含むものも、十人十色の反応で渦中の二人を注目した。
『先輩、ちょっと、付き合ってください』
与儀は、そう言った。正直、緊張していた。これから一世一代の大勝負に出ようというのだ。緊張しない方がどうかしているとさえ言える。しかも、普段入ることのない上級生の教室。さらには卒業式後の特別な時間なのだ。そのような状況や心境での発言なのだから、少々とちったところで誰が責められようか。いや、責められまい。多少、うわずった口調になって聞き取りにくかった部分もあるだろう。
そして、一世一代の告白を控えた状態の言葉を、与儀の意図通り正しく解釈してくれるほど教室にいた先輩方は優しくもなければ、暇でもなかった。恋愛絡みの話題は青春真っ只中の彼らの大好物だ。それがたとえ曲解だったとしても。
そんな中、真っ先に反応し、与儀にとって嬉しくない解釈を表明した生徒は、先輩の横に立っていた。
「ひゅー」
先輩の親友さんは口笛を吹き、ニヤリと悪い笑顔を浮かべる。
その瞬間、その親友さんによる曲解が教室中に伝搬し、真実となる。
――ちょっと、あなたそんなキャラじゃなかったですよね、元副会長!――
与儀は驚きとともに、口を金魚のようにパクパクさせながら、心の中で叫んだ。口に出さなかった自分を褒めてあげたいとすら思う。いや、いっそ声に出して場を誤魔化してしまえば、被害が少なかったのではないかとすら思える。しかし、いろいろと冷静に分析しているようで、完全に頭の中はパニックだ。
与儀としては、重大なミスで伝えるタイミングを間違ってしまったが、先輩に与儀の気持ちが正しく伝わっているのなら、それを否定するようなことだけは、したくない。そもそも、今の状況、先輩にとっては完全に事故に巻き込まれた状態だ。恥をかかせるわけにはいかない。
決意を固めてもう一度、先輩に向き直る瞬間。もう一度、事を大きくした張本人へ視線を向ける。先輩の横に立つ、彼女は友永加奈子。先輩の親友であり、元生徒会副会長。先輩が生徒会長時の腹心だった人。細めのレンズの眼鏡をかけ、肩で切りそろえられた髪が、性格の厳しさを表しており、実際に副会長として活躍していたときは<執行者>などと揶揄されていたくらいだ。――そのあなたがなぜ?――と与儀は毒づかずにはいられなかった。公の場では強烈なインパクトを与えてはいたが、やはり、女子高生だったということか。
いつまでも、雑念に囚われている場合ではない。与儀は、今度はしっかりと先輩の目を見つめると言った。
「ずっと好きでした。僕と付き合ってください」
与儀の言葉が、今度こそ確実に教室に響く。
与儀の軽輩を感じ取った卒業生諸氏が注目し、成り行きを見守っていたからだ。
そのような状況であっても、先輩は動揺することなく与儀の前で静かに佇んでいる。
友永は、先ほどまで与儀に向けていた視線とは違う不安と期待の入り乱れた表情で先輩を見守る。
教室の先輩たちも、引き続き様子を見ていた。
教室内の様子を確認した先輩は、与儀を見つめ返すと――。
「ごめんなさい」
そう言うと腰を深く折った。
友永は、仕方のない人だと呆れた表情をした。それと同時に諦めの溜め息をついた。もちろん、与儀にはその真意は分からず、自分に向けられた哀れみの目だと思った。良く見積もっても「残念だったな」と慰めてくれている視線だと受け取った。
「あ、謝らないでください。何も悪くないんですから……」
与儀は精一杯の気遣いのつもりで言葉を紡ぐが、最後はほとんど言葉にならない。
先輩は、与儀の言葉を聞いても反応は見せず、自分のタイミングで顔を上げた。
そして――、
「私は、あなたとお付き合いをする資格がありません。私は、一年前に初めてお話してから、ずっと気になっていました。そして、学園祭のころから私はあなたに惹かれていきました。そして、あなたが私に向けてくださる好意にも気づいていました。ですが、あなたと一緒の時間を過ごせば過ごすほど、私は思い知らされました。あなたとは一緒にいられないのだと。ですから、あなたとはお付き合いできません……。だから、ごめんなさい」
もう一度深々と頭を下げる先輩。
見事なまでの公開処刑。
あまりの無残さに、気がつけば教室は先ほどまでとは異質の静けさに包まれていた。期待に満ちた静寂ではなく、胸をえぐられるような静寂。
男子生徒たちは、一様に悔しげな表情を浮かべている。中には胸の辺りを力強く握りしめている者もいる。
一瞬の静けさに耐えられなくなったのか、はたまた好奇心を抑えられなくなったのか。すぐに小さな声が聞こえ始める。
「常勝無敗が更に勝ち星を増やしたぞ」
「顔色ひとつ変えずにフルって本当だったんだ」
「ねぇ。告白されて好きなのに付き合えないってどーゆうこと?」
「変なフォローしても相手の子が傷つくだけよね」
「氷結のスマイルって本当だったんだね」
不動の人気を誇る生徒会長と言われていた先輩でも影ではいろいろとあるらしい。
永遠にも感じられた静寂をかき消したのは与儀自身への声ではなく、先輩を中傷する声。与儀はギュッと胸を押しつぶされる感覚に襲われる。いっそ自分を笑う声であれば、どれほど良かったか。滑稽な自分を囃し立てる声であれば、どれだけ救われたか。
与儀は、早まった自分のせいで教室のど真ん中で告白されることになり、返事をしなければならなくなった先輩に対して、申し訳ない気持ちで一杯だった。しかも、具体的な内容はともかく、先輩自身の気持ちすらも打ち明けることになった。それでも誠実な対応を冷静にしてくれた。そんな先輩が、なぜ酷いことを言われなければならないのか。
その状況が辛く。奥歯を力強く噛み締める。
そして、
「お騒がせしました!」
精一杯の声を振り絞ると、そのまま教室の出口へ向かって走り出した。
◇
朝の自分の浮かれよう。卒業式後の暴走。何度も思い出して「どうして」と繰り返す。
窓の外を見下ろす視線は、そこにある景色を写していても、そこで何が起きているかは全く認識していない。
公開処刑の詳細はあっという間に校内に知れ渡るだろう。過去に先輩が告白されると、その噂は翌日には校内に広がっていた。しかし、先輩に告白した相手のことは良く覚えていない。皆、先輩に興味はあっても、その相手にはそれほど興味はないのだ。現実問題として人の噂も七十五日というが、もっと早く自然消滅するだろう。
一度だけ、このことについて先輩に話題を振ってみたことがある。「また、告白されたみたいですけど、先輩って本当に人気あるんですね」と、何げなく口にしてしまったのだ。口にした瞬間に失敗したと与儀は後悔した。
しかし、先輩は嫌な顔などせず「たくさんの人に慕われるのは嬉しいけれど、今の私にそんな余裕はないの」と言った。普段と変わらない落ち着いた様子で。でも、その表情に透けて見える悲しげな表情を、与儀は忘れられそうにない。その直後「心配してくれて、ありがとう」の言葉とともに見せてくれた笑顔は、今も胸に焼き付いている。
少々不謹慎かもしれないが、そのときの表情を今、思い出してもクラッとくる。心臓を完全に掌握された気分と言っても過言ではない。
――何が、どうしたのですか?――
与儀の妄想とは別世界で声がする。
瞳が映したものを必ずしも脳が認識するとは限らないように、耳でも同様のことが起きていた。
与儀の目の前に立ち、可愛らしい声を発した存在に対して、全く反応する様子はない。
その可愛らしい声を発した少女が、腰を折って顔を近づけてみる。高校生男子が女子にこれほどまで接近されて動揺しないわけがない。
完全に無視されていると分かると少女は目を細め少し眉間にしわを寄せる。
「どうして、学校へ来たくな・い・の・で・す・か?」
繰り返された問いの最後におまけが付け加えられ、柔らかな感触が与儀の神経を刺激する。
その衝撃は脳髄を突き抜け、一気に引き戻される意識。
視界いっぱいに迫った、見知らぬ少女の顔。
「――!?!??」
突然の出来事に驚いて声も出せず、大きく身を引いた。
その様子を、腰を折ったまま見ていた少女が「男子はこのようなことが好きだと思っていたのですが……」と不満げな表情で姿勢を戻す。体を戻す勢いで少女のツインテールが揺れ、白地に赤のラインが入ったリボンが踊る。
その間も与儀は「な、な、な」と声にならない声を出しているだけだった。
物足りなさそうな表情をしつつも、少女は与儀が落ち着くのを待っているようだ。自分が無視されていなければ良いのかもしれない。
しかし、与儀の前で両手を後ろに回して組んで立つ姿は随分と冷たい印象を受ける。
「う……」
与儀がようやく眼前の少女に向き合えるようになると、そこには冷めた目つきで自分を見下ろす姿が見えた。
「な、何かな?」
折角、ひとり浸って青春の辛酸を味わった雰囲気で窓の外を眺めていたところに、突然の仕打ち。いや、ご褒美と言うべきか。
少なくとも孤高の高校生活を送ってきた与儀にとっては渇望し続けた行為なのだから悪いことではないはずだ。
ただ、青春真っ只中の純粋な与儀としては、複雑な気持ちと言わざるをえないだろう。やはり、初めての相手は心に決めた女子でありたいと願ったとしても、誰がそれを責められようか。
他人の好意を素直に受け取りたくても受け取れない。それが与儀の今の偽らざる素直な気持ちだ。好意であるかはもちろん不明なのだが……。
そして、少女と視線をかわして気づく少女の美貌。与儀は思った。この学校にこんなに可愛い女子がいたのだろうか、と。しかも、その子に唇を奪われたのだ。
停止しかけていた与儀の思考回路を無理やりに再起動するものの、現状把握は全くと言って良いほど進まない。
しかし、与儀はふと思った。
――これ、何てギャルゲー?――
それは、意外にも思考の混乱を落ち着かせる方向へと導く。
体は依然として驚きの様子を示したままだが……。
それでも、目の前に立つ少女を改めて確認する余裕はでてきた。
カラスの濡れ羽色の髪は頭の高い位置でふたつに結ばれており、いわゆるツインテールという髪型だ。前髪はそろえられ、両サイドに一束ずつの髪が耳の前に残されていた。鋭い目つきは、威圧感すら感じさせる。それは、大きく胸を張ったポーズがつまり只の見た目が理由ではなく、存在感自体が普通の高校生のそれではなかった。
いろいろな意味で普通ではない少女。与儀は、自然体のはずなのにとてつもない威圧感に満ちた姿を見上げる。そして、少女自身が思っているよりもきっと大きくない、と下世話な思考もできるくらいには冷静さを取り戻していた。
少女は、与儀のくだらない妄想など知る由もなく、与儀が自分の存在をちゃんと認識したと判断し、その可愛らしい口を開いた。
「君は、なぜ学校へ来たくないのですか?」
「え……? なんでも……ないよ」
先ほどの質問が当然のように繰り返され、視線を逸らす与儀。
なぜと言われれば、明日にでも広まるであろう、あの惨劇の話題から逃れるためだ。どんなに素直に切り込まれても、朗々と語り出せるほどプライベートを明け透けにはしない。幾ら相手が美少女だからといって、いきなり心を開いて失恋話を暴露する義理もない。むしろそんな恥ずかしいこと披露したくはない。
しかし、――。
「もしかすると、先ほど見かけましたが。三年生の教室での出来事を気にしているのですか?」
「?!」
「あれは悲しい事故でした。見ているこちらの胸も痛むような無残な光景でしたから……」
少女は芝居がかったしぐさで悲しみをアピールする。
「……!!!」
その言葉としぐさは的確に与儀の心を突き刺した。今現在一番触れられたくない部分を狙い澄ましたような突きを、何の迷いもなく繰り出す。
このとき、与儀は少女の瞳に込められた殺気のような鋭さまでは感じ取れなかった。
それは、少女の言葉に含められた事実に気をとられていたからだ。なぜ、見知らぬ制服を着た少女が自分の行動を知っているのか。
頭を支配する少女への疑問が与儀の行動を著しく制限する。それは決して与儀が混乱しているという意味ではない。どちらかと言えば警戒心だ。
しかし、与儀の内心など気にすることなく少女は質問を重ねる。
「ですが、なぜあの場で告白をしたのですか?」
「いや、あれは――」
告白ではない。与儀はそう主張しようとして飲み込んだ。最初はあの場で告白するつもりはなかった。しかし、その場の流れとはいえ、最終的にはハッキリとあの場で気持ちを伝えたのだ。
「常勝無敗などと噂されるような相手に挑んでも、結果は分かっていたのではありませんか?」
「それは――」
初対面のはずの少女から容赦のない切り込みを受け、戸惑いを隠しきれない反面、いっそ清々《すがすが》しさを感じる。
だから、与儀は心の内を吐き出す。
「それは、何もできずに終わるのが嫌だったからだよ。先輩との出会いが、僕の中にあったモヤモヤしたものを取り払ってくれたんだ。子供のころ、自分の失敗のせいで子猫を怪我させてしまった。ずっとそう思い込んでいた。けど、それは間違いで、頑張った上での失敗で、僕がいなければ子猫は死んでいたかもしれない。それを思い出させてくれたんだ」
少女が何かに反応する。
「だからって劇的な出会い方をしたわけじゃないし。近づけば近づくほど遠のいて、関わっていられるだけで良いって思っていたこともあった……。けど、バレンタインのときに自分の気持ちを一生懸命に伝えようとする人を見て、このままじゃダメだって思ったんだ。願う未来があるならそれに向けて行動しなきゃって……」
少女から先ほどまでの余裕は消えていた。
それは、少女の中に違和感が生まれていたからだ。
――なぜ?――
疑問が少女の頭をよぎる。
最初はツラそうだったのに、最後は嬉しそうに語る与儀を見て苛立ちすら覚えた。
――あのときのことを――
少女は、冷たく見据える。
だが、それと同時に苛立ちすら覚える自分に戸惑ってもいた。
だから、続いて自分の口から紡ぎ出された言葉に驚きを隠せなかった。少女の目の前にいる相手が、そのようなことは考えないはずだと信じていたのだから。自分とは違うと思っていたから。
「それほどまでに前向きで立派な考えをお持ちでしたのに、やり直したいなどとお考えになるのですね。もう一度機会があればうまくやれた。そうお考えなのですね」
「え……」
与儀こそ、驚きを隠せなかった。少女は、与儀の独り言をすべて聴いていた上に、心の中を読んだかのように心境を言い当てたのだ。
与儀にとっての願望。ただの愚痴。
少女の見下ろす視線が与儀に突き刺さる。
「でしたら、その望み叶えて差し上げます」
与儀は相づちを打つことさえできない。蛇にらまれたカエルのようだと思った。
もともとただならぬ雰囲気の少女だったのだ。その少女が本気で、いや少女にとってはほんのお遊び程度のことなのかもしれない。それでも、ただの高校生を射すくめるには十分な迫力だった。
「さて、いつからやり直すのが良いでしょうか」
「ちょっと……」
「そうですね……」
少女は、思案するように手を口元にあてる。
与儀は困惑して、どんな言葉をかければ良いのかわからない。全く何を言っているのか理解できなかった。
もちろん、言葉自体は理解できるが、『やり直す』ことなどできない。時間は巻き戻らないのだ。
与儀は、もしかするとヤバい――中二病的な――人物と関わってしまったのかと考える。それなら適当にやり過ごせば良いはずだ。雰囲気に呑まれて怖がる必要もない。
「やり直すって……どういうことなんだよ……」
しかし、完全に場の空気に呑まれてしまった与儀は、疑問を口にしてしまった。
「言葉どおりです。やり直すのです」
「?」
与儀の疑問に少女は答える。もちろん、答えた相手は理解できない。そのようなことは分かっていたように気にすることなく続けた。
「理解できないのも無理ありません。今までに、すぐに理解できた人は、ほとんどいませんから。それに、今の君が理解したとしても意味はありません」
少女が、大きく手を横に払う、何もない虚空を。
そして、空中で何か模様を描くようなしぐさを繰り返す。
「そうですね。二月からやり直しましょう。そうすれば、告白するかどうかも含めて考え直せますから」
何をしているか、与儀には全く想像もできない。中二病よろしく空中に魔方陣でも描いているのだろうか。
宣言する言葉も正直、怖い。
「メンテナンス……」
手を動かしながら、少女が脈絡のない単語を呟く。適当に考えた呪文といった幼稚さはない。
「スナップショット……」
少女から伝わってくる雰囲気に演技のようなものは感じない。ただ、事務的に作業を行っているようにすら感じる。
「今年の二月……」
良く分からない単語が並べられる中、日時に関わる情報がでてきて与儀はハッとする。
「ちょっと待って。だから、二月からやり直すってどういう」
そんなことできやしないとは思う。しかし、言い表せない不安が心を支配する。
「やり直すって、これからのことじゃないの?」
そう、与儀は思った。
――これからだって二人の関係はやり直せる――
そこで、与儀は引っかかる。何をやり直すと言うのか。その自分の考えが新たな戸惑いとして心をかき乱す。どうして、初対面の相手にそんなことを思ったか。だが、考える暇は与えて貰えそうにない。
「これからやり直す、ですか? 甘いですね」
少女は、息を大きく吐き出す。
「そのようなこと、出来はしません。それは、ただの誤魔化しです。失った時間を人生という尺度と比較して見たときに、誤差として許容できると思い込んでいるだけなのです。死ぬのはずっと未来。いつのことか分からない未来。それはもう到達しないに等しいと錯覚しているだけなのです。人の一生などほんの一瞬。やり直している暇はないのです。今日、悲惨な結末を迎えるかもしれないと、知って君は同じことを言えますか? 目の前で刃を向けられた状況で、まだこれからだと思えますか?」
与儀は唾を飲み込む。実際には、カラカラになった口の中から唾を飲み込めたのかすら怪しい。完全に、少女の雰囲気に呑まれている。
「私は、何度も悲惨な光景を、結末を見てきました。救えなかった未来を見てきました。だからこそ、わかるのです。明日の自分を心配する必要性を感じていない君にはわからないのです」
少女は与儀と目を合わせてそらさない。じっと見続けている。
与儀にも少女の逆鱗に触れてしまったことくらいは理解できる。だが、何がそこまでさせているのか。さっぱり、分からなかった。
「選択肢の選び直しができるのです。可能ならそうすべきなのです。何度でも……。望んだ過去になるように。君も、先ほどのような恥はかきたくないのでしょう? できるのなら帳消しにしたいでしょう? そのチャンスを差し上げると言っているのです」
「そうじゃない――」
与儀は反射的に声を出す。
――違う、やり直したいのは、それじゃない――
しかし、その声が届く前に少女は、動かしていた手をある一点で止めた。
そして、世界は暗転する。