プロローグ
海を見下ろす高台。
少女がひとり佇んでいる。
空は晴れ渡り、見渡す限り雲ひとつない。
海から吹き込む穏やかな風が、少女のかぶる大きな麦わら帽子を優しく揺らす。付き添うようにゆれる長い髪は、左右で一房ずつ結ばれているようだが、結び目は帽子に隠れて見えない。
落ち着いた海面を綺麗に彩る陽の光は、少女にも直接降り注ぐ。
穏やかな夏の日だが、少女の表情は冷ややかで、目の前に広がる景色を楽しむ様子はなく、ただ、遠くを眺めるだけだ。そして、その厳しい眼差しは、まだまだあどけない子供には全く似合わない。見た目の幼さとは裏腹に周りに漂わせている雰囲気は子供のそれではない。
少女の纏う重たい空気をかき回すように、近くで何かが倒れ引きずられる音がする。そして、子供の泣き声が聞こえてきた。
しかし、少女は全く気にするようすもなく、ずっと海の方向を見つめている。
近くに、大人がいてすぐに助けることだろうし、子供ひとりの世話をしたところで、何が変わるわけでもない。
周りのことなど我関せずと、じっと佇む少女の背後にひとりの男がそっと立つ。休日に散歩を楽しむ近所の健康志向な人物……には到底見えない。黒服のいかにもな屈強な男だ。
男は腰をかがめると、そっと耳打ちをする。
「み……様。たった今、――されました」
耳打ちされた側ですら聞き取れたか怪しいくらいの小声でささやかれた内容に、少女は確かに頷く。
「わかりました」
動揺も戸惑いもない。返事をするときも視線を逸らさない。
男はメッセージを伝えるとすぐにその場を離れて姿が見えなくなる。
そして、しばらくの後、虫の鳴く声だけが響く夏の静けさに辺りが、再び支配されるころ。少女の視線の先、遠くに立ち並ぶ高層ビルの上空で閃光がはじけた。
光は恐ろしい勢いで炎と爆発の威力を周囲に伝え、一瞬で街を崩壊に導く。
立ち上る大きなキノコ雲に押しつぶされて、瞬く間に見えなくなる街並み。
一九八五年、冷戦は終結した。もちろん、悪い意味で。
東側諸国から東京への核攻撃が行われ、微妙なバランスで保たれていた東西冷戦の拮抗は崩れさる。そして、悪夢のようにささやかれていた第三次世界大戦へと世界は押し流されていく。
少女は嘆息する。また、だと。
これはほんの序章にすぎない。本当の災厄は八年後の一九九三年に始まり、人類は滅亡の危機へと貧する。
それらの光景を幾度となく確認することになる少女。
目の前の光景を全く身じろぎひとつなく眺める少女。
悲壮感の漂う表情は、目の当たりにしている状況のためなのか、それとも他の理由なのか。
少女は黙ってその場を立ち去る。
◇
海を見下ろす高台。小高い山に作られた公園の一角。
少女がひとり佇んでいる。
空は晴れ渡り、見渡す限り雲ひとつない穏やかな昼下がり。
海から吹き込む風が、少女を照りつける陽の光から守る麦わら帽子を揺らす。帽子に合わせて白いワンピースの裾が、少女の素足をさらすのを恥じらうかのように舞っている。
落ち着いた海にクルーザーが疾走した奇跡も見える。
穏やかな夏の日だ。しかし、少女の表情は険しく公園で遊ぶ子供の声など、全く耳に入っている様子もない。
――この光景を見るのは何度目でしょうか――
少女は考えていた。
何度同じことを考えたかすら、もう覚えていない。
どんなに悲惨な光景も繰り返し見続けていると、何も感じなくなってくる。徐々に麻痺して慣れていく自分を感じる。それは、ずっと昔からだった。最近は、時代が移り変わり直接的な場面を見る機会は減っている。だからと言って気持ちの良いものではない。それはずっと変わらない。
それでも、確かめないわけにはいかない。これから、起こるであろうことを。
少女は展望台に設置されたベンチに座り、清楚な装いどおり、行儀良く手を膝に添え、背筋を伸ばし、遠くに広がる高層ビルの街並みを見つめる。
そろそろだろうかと少女は身構える。
「わ、あ、ダメだ。うぁぁぁぁ」
そのとき、甲高い子供の叫び声が響いた。
「ふぎゃ」
「にゃ」
そして、何かが落下したような鈍い音と、蛙をつぶしたようなうめき声。そして、不思議な鳴き声が重なる。
少女は、その声と音に反応し、視線を彷徨わせる。
声の主を探しながら、疑問がよぎる。
――なぜ?――
少女は、自分でも不思議だと思う。なぜ、今更になって子供の声に反応したのか。これまで似たような状況は幾らでもあったはずだ。それなのに、と考えるが、この手の上のものが原因だとしか言えず、思い直す。
視線と思考を巡らせると、声の主は少女のすぐ後ろ。ベンチ脇の芝生に横たわる形で、すぐに見つかる。
見れば体中が傷だらけで、腕からは結構な出血もあるようだ。
声にならない声をだしてうめきながら起き上がろうとしている。
少女はその様子を見つめる。
しばらくすると、男の子は起き上がり、視線を彷徨わせ何かを探す。
そして、少女の手元を注視して、ほっと息を吐き出した。
「にゃー」
男の子は少女の手に乗っている子猫を見ていた。
「ごめんね……でも、よかった……」
男の子は、安心して気が緩んだのか目から涙が溢れる。
木から落ちた痛みなのか、子猫が助かったことへの喜びなのか。それとも――。
少女には男の子の心情はわからないが、少なくともそろそろ限界っぽいことは察することができたため、ベンチから立ち上がり男の子に近づく。
すると、少年は子猫に手を伸ばすようにしてそのまま目を閉じた。
力の抜けた体は少女に抱きかかえられるように横たわる。そして、少女の膝へ頭を誘導された。
「にゃ」
子猫が無邪気に男の子の顔を見上げて、ぎこちない動きで頭に前足をかける。
男の子はしばらく目覚めそうにない。少女はそう悟ると長い溜め息を吐いた。
――全く、何をしているのでしょうか?――
男の子の眉間にしわがより、表情が険しい。
打ち身が痛むのか、うなされているのか。
少女は黙って見守る。時折視線を外し、遠くを見るがすぐに男の子へと視線を戻す。
「う……」
やはり、うなされているのだろうか。
すると、突然、少年の目が大きく開かれ、そのまま硬直した。
大きく胸を上下させて、荒い息を落ち着かせようとする男の子。
男の子は、目覚める瞬間に誰かの声が聞こえた気がした。
『なぜ、ちゃんと受け止められなかった』
強く、責めるような口調で。
「目覚めましたね。怖い夢でも見ましたか?」
少女が声をかけると、視線だけが反応する。
男の子の目の前に見知らぬ少女の顔が写る。
男の子は状況を理解できていないらしく、硬直したままだ。
しかし、すぐに気がつくと慌てて体を起こす。そして、周りを見回した。
「子猫は?!」
声を上げ、四つん這いに移行しながら、更に周りを探る。
その様子を見ても特に慌てることなく少女は、男の子の疑問に一言答える。
「無事ですよ」
そして、四つん這いになっている男の子の真下を指し示す。
男の子が、顔を下に向けるとそこには、元気な姿の子猫が見上げていた。
「幸か不幸かその子は私の上に落ちてきましたから、無事だったようです。ただ、あの高さから落ちたので、足を痛めているようです。獣医に連れて行くと良いでしょう。ただ、子猫よりも、君の傷の方が病院へ行くべきかもしれないですね」
男の子は全身が擦り傷まみれだし、落ちて打ち付けた体がズキズキしてバラバラになってしまいそうだったが、少女の忠告など耳に入っている様子も自分の状況も理解している様子はない。
そのような体でも自分を見上げる子猫に手を伸ばそうとする。
そして、――。
「ごめんね。ごめんね」
男の子は子猫の無事に喜ぶよりも、ただひたすら謝った。
男の子が目を覚ますまでの間も逃げなかった子猫に謝り続ける。
子猫を助けられて良かったと感じるよりも、後悔が先に出てしまっていた。
「なぜ、それほど謝るのですか? 子猫は無事ですよ」
少女の疑問も当然だ。木から落ちて子猫が大怪我をしていたのなら理解できなくもない。しかし、実際には少し足を痛めているかもしれない程度なのだ。大抵は喜ぶところのはずが、この有様である。
「僕がちゃんと助けられていれば、高いところから落ちることもなかったし、足を痛めることもなかった……。だから、だから……」
涙で声にならない男の子。悔しさ、いや、恐怖だろうか。暗く沈んだ表情からは渦巻く感情を読み取ることはできない。
だから、少女は問い掛けた。
「では、もう一度同じことをすれば、助けられますか?」
先ほどまでとは別人のような冷たい視線で男の子を見据える。そこに、先ほどまでの穏やかさはない。
その雰囲気に気圧されそうになる男の子。
それでも、その言葉の意味を考え、もしかしたらと、希望の色を瞳に宿す。だが、その次の瞬間には光は消え、絶望の色に染まった。
明るく笑顔になったように見えたのは気のせいだったのかと思うほどの一瞬。
幼い少年にでもわかることだ。やり直しはない。
あと少し手を伸ばせていたら――。
あと少し強く握っていられたら――。
あと少し早く気がついていたら――。
あと少し――。
あるはずのない光景が脳裏をよぎり、後悔が際立つ。
その間も子猫は男の子を見上げる。
優しく『にゃー』と鳴いて。
助けようとした対象すら目に入らず呆然とする男の子。
少女はその男の子の肩に手を置き、多少あらっぽく体を揺する。そのお勢いで男の子の上体を起こす。
少女の正面に男の子の顔が現れ、見えているのか見ていないのか良く分からない瞳をしっかりとのぞき込み話しかける。
「そんなに自分を責める必要はありません。この子猫は君が救ったのです。君がこの子の未来を作ったのです。これ以上、何を望むと言うのですか?」
少女の言葉に男の子の瞳に色が戻り始め、その瞳に見つめ返され、続ける少女。
「これ以上は、むしろ傲慢というものです。人には限界があります。ましてや、あなたは子供なのですから。十分、立派でした」
「でもっ……。僕はただ助けたかったんだ――」
男の子は納得できないと声を絞り出す。声とともに少女へと向けられる瞳の必死さは、ここではない遠くを見ているようですらあった。そして、目の前の悲劇を放置できない力強さと、自分の未熟さへの悔しさが籠もっていた。
改めて子猫を見下ろしてから見せる悲しそうな笑顔。
男の子に重なるものを感じ、続ける。
「完璧でなくても良いのです。完璧を追い求めるがためにツラい思いをすることもあるのですからっ」
少女は言い終わるよりも早く、男の子の手を力強く引いて、立ち上がらせる。
「わっ、何をするんだよ」
勢いよく引っ張り上げられた男の子は戸惑いを隠せない。
少女は男の子の戸惑いを無視し、歩き出す。
「近くに水場があったはずです」
少女の言葉の意味が理解できず、男の子はされるがままに引っ張られ、歩かされる。
その後ろを多少ぎこちないが、ついてくる子猫。
随分と懐かれたものである。子猫も恩義を感じるのか。心配そうについてくる姿が非常に健気だ。
水場に到着すると少女は蛇口を勢いよくひねり、男の子を溢れる水流にぶち込んだ。
まったくの遠慮もなく、男の子の汚れた顔や腕、足に水をかけ洗い流す。
正直、男の子の服はびしょ濡れだが、今日の天気ならすぐに乾くだろう。
傷の多い場所を洗われるたびに男の子はしかめっ面をする。消毒液ではなくても傷が深めの場所は痛む。ましてや他人の遠慮のないさわり方なのだから、尚更だ。
「さぁ、これで少しは目も覚めたでしょう」
突然の出来事でされるがままに洗われていた男の子は完全に混乱していた。
そして、その戸惑う男の子の手の上。
ポンと子猫が乗せられる。
律儀に少年が洗浄される間も待っていたらしい。
「子猫を連れて帰ってください。その子猫がいれば怪我のことを細かく詮索されることもないでしょうし、いじめを心配されることもないでしょう」
少女は、先ほどとはうってかわって穏やかに言った。
そして、男の子の体を公園の出口へと向けると、背中を軽く押す。
男の子の足は不思議と抵抗なく進み、その場を立ち去ることになる。
子猫を大事そうに抱きかかえながら歩く。しかし、その手つきは危なっかしく、子猫の扱いに慣れているとはお世辞にも言えない。そのような状況でよく助けようと思ったものである。
男の子の後ろ姿をじっと見守る少女。
「珍しいこともあるものですね」
突如、少女の背後から男の声がかかる。その声は低く落ち着いており、休日の公園を散策して過ごす紳士のような出で立ちと合っている。ただし、動きに隙はなく、勘の良い人なら一般人ではないと感じられる何かがあった。
少女はその男を一瞥すると不機嫌そうに溜め息をつき、
「何がですか……」
と、小さく呟く。
「はい、笑顔でいらっしゃいましたので」
「私が?」
「はい」
「気のせいです」
少女は否定する。
しかし、男の指摘に対して自覚はしていた。自分が笑っていたことに。
正直、少女自身驚いていた。笑顔などとっくに忘れたと思っていたからだ。いや、そもそも知らないのではとさえ思っていたのだ。
どうして、自分は笑顔になったのか。
すぐにはわかりそうにない。
――考える時間なら幾らでもある――
少女はそう思考を切り替える。気まぐれに時間を費やしたが、それよりもやらなければならないことがある。これから起きるであろう終焉の有無を確認するのだ。
これまでも、幾度となく無限のような策を講じては、確認の繰り返しをしてきた。既に策は出し尽くし、次の一手に苦慮していた。
だから、現状できることは確認がてら次に備えて考えること。
何度も見てきた冷戦の終わりを告げる合図。
今回は大分先になるはずだったが、近々起きないとも限らない。
その誤差すらも、いつものことだと慣れたように感じられる。
そして、いつもの慣れた場所へと戻る。
◇
今回も冷戦は終わりを告げる。
それは、少女が何度も見てきた悲劇ではなく、言葉どおりの終わりであり希望への道行きだった。
もちろん、その道行きが平和に繋がるのか、それはまだ分からない。
世界では大なり小なり事件は起きているし、悲劇は起きている。
しかし、八年後に決まって起きる終焉の始まりは訪れなかった。
それまでの間、きっかけになるような出来事を追い続けていたが、それらしい痕跡もない。
少女の当面の問題は解決してしまっていた。それは、いともあっけなく突然のことだった。少女は特に何もしていないのだから。
とはいえ正確なところとしては、まだ断言はできない。地道な調査が必要だろう。それでも、山場を超えたと言っても過言ではなかった。
だが、少女の頭の中は全く釈然としていない。
それも当然のことだ。少女のあずかり知らぬところでことが運び事態が変化したのだ。
そのことで、ずっとモヤモヤとしていた。
胸の中をひっくり返したくなるような苛立ちにもだえていると、ときどき思い出す。あの子猫を助けようとして落ちてきた男の子のことを。あの悔しそうな顔と、危なっかしそうに子猫を抱えるときの顔を。
理由はわからない。だが、胸に引っかかるものがあった。
過ぎたときを考え、彼はそろそろ高校生だろうかと、思う。
――会ってみたいですね――
ふと考えたことに自分で驚きながらも、立ち上がる。
そして、歩き出す。