第八話
白川和美は、離れた場所から彼らのことを覗っていた。
恵子の後を追いかけ、彼女に気づかれないように街路樹の影からその様子を窺っていた。
恵子は、彼ら――陽大、竜也、梨々花、その三人に背を向けた後、緩慢な足取りでその場を後にする。ピンと張り詰めたような空気を醸しながら、校門前の三人は、その背中を見つめ続けている。
何があったのだろうか。
遠目から彼らのやり取りを見ていた和美には、何の話をしていたのかは分からなかった。けれどその話が、あの堅固だった陽大の心の琴線に触れたことは間違いなかった。
だって、そう、恵子の背中を見つめる彼の瞳には、得体のしれない炎のようなものが揺蕩っている。
しばらく街路樹裏に佇み、和美は自身の思考の中に埋没していた。校門前の三人が立ち去ってからも、その場を一歩も動かずにいる。呆然と三人の背を見送った後も、脳裏から先ほどの光景を消し去れないままでいる。
あれが、恵子先輩?
いつもと違った、高橋惠子。
陽大に縋り付き、稚気あふれる子供のようだった彼女。
周囲を凍りつかせるように態度を豹変させ、雰囲気を変貌させた彼女。
振り返ったときに見た、まるで虚のような無機質な瞳をしていた彼女。
寒風は吹いていないのに、背筋にぞくりと冷たいものが走る。
彼女のその瞳を頭から振り払うように、和美は別のことに思考を挿げ替える。
校門前の彼女――宮原陽大の恋人の存在は既に知っていた。
彼女はこの高校の名物の一つとなっており、和美もまた入学してまだ半年にも満たないが、その姿を何度か見かけたことがある。
彼と彼女は余程のことがない限り、放課後、毎日の校門前で待ち合わせをしている。
彼女は17時30分、ほぼ誤差なく、その時間にそこに現れる。和美がこの高校に入学する約一年前――聞いた限り、その年の夏休み後には、彼女はそこにいたらしい。以降、変わらず、まるで何かの現象のように、同時刻に校門前には彼女の姿があるのだという。
その彼女の忠犬ぶりはこの高校ですぐに有名になった。
しかも、彼女が高橋恵子とはいかないまでも、とんでもない美少女ともなれば尚更だった。
彼女は遠目から見ても分かるとおりに、ものすごくスタイルが良い。
巷のモデルと比べても遜色ない八頭身の肢体と美形の顔。その小さな美顔にはくっきりと大きな二重まぶたの目が収まっており、さらに色香のある肉厚的な唇が、彼女をより一層引き立てている。高橋恵子が白百合や芍薬の花をイメージするのならば、彼女のイメージは薔薇。人を情熱的に引き寄せる。
当然のように、光風高校の誰もが彼女に注目する。
さらに待ち合わせの相手が、長身で整った顔立ちとはいえ、生気がなく根暗で、誰とも話すことのない翳のある男子生徒だと分かると、誰もが二人の関係を邪推し揶揄するようになった。
少数の猛者は彼女を口説くために近づき、体よく追い払われ玉砕していった。
彼女に興味を持った生徒は、友達になろうと話しかけるが、名前すら聞くことが出来ずに拒否されていた。
人当たりはとても良い、と誰もが言う。
ただ、親しくなろうと彼女に少しでも踏み込むと、彼女は誰をも拒絶する。
彼女に誰もが話しかけなくなったとしても、やはり毎日、彼女はそこに居続ける。それが半年経ち、もうすぐ一年を経る今では、周りの彼女を見る目も、除々に、だがはっきりと変わってきていた。彼女が、興味や好奇、羨望の対象から、恐怖あるいは鬼胎の対象へと変わったのだ。
うん、わたしは彼女をとても怖い存在だと認識していた。
健気で従順なだけなのかな? ううん、違う。そんなレベルの話じゃない……もっと偏執的で狂的なもの。
朧気な想像が形となってきたのは、教室での和美自身の言葉、そして先程の彼女の言葉を聞いてから。『なのに、どうして静岡県のこの光風高校にいるんですか』
彼は東京の京南学院にいた。けれど、今は光風高校に来たことは一先ず置いておく。
でも、彼女は昨年の夏休み明けから、校門で彼を待っていたというけれど。
和美は知っている。陽大と彼女は幼馴染であることを。幼少の頃からずっと一緒にいるということを。『幼少の頃』というのが果たしていつからなのか、和美にはそこまでは分からない。
とても気にはなるが、単純に幼少の頃からのおままごとのような淡い恋愛が昇華して、ずっと続いているんだな、と純粋に思う。だが、彼が高校入学を機にこの地へと赴いたことが事実なら、話はおかしなことになる。
彼女も、東京から静岡に来ている。ううん、違う。彼女は東京になんていない、だって――
さらに、和美は沈思する。
そもそも、毎日同時刻、何故17時30分なのだろうか。
和美は一年、今年入学したばかりの新入生だ。だから昨年のことは不明だが、少なくとも昨年から現在まで恵子を含めた学校の生徒たちは、彼がほぼ毎日、教室でその時間まで本を読んでいることを知っている。
時間を潰しているのだ、その時間まで。
つまり、校門で彼女が彼を待っているのではなく、校門に彼女が来るのを彼が待っている、ということになる。
反対、じゃないのかな。
逆に陽大が彼女を迎えに行けばいいのだ。
そうすれば、もっと早い時間に二人は合流でき、逢瀬の時間も伸びるに違いない。
彼女は高校生、それも二つ年上であることは知っていた。ということは現在高校三年生。なのに、いつも変わらずに、彼の元へ通い続けている。
和美は、その場に立ち尽くしたまま思考を巡らせる。
佇む和美の姿を見つけ、訝しげにその様子を窺う生徒がいたが、彼女の瞳には一切映らない。
彼女は静岡にはいないはず。でも東京にもいるはずがない。だって彼女は愛知県にいなければならないんだから。足りない――この気持ち悪いパズルの完成にはピースが全然足りない。
「和美」
その声で、和美の思考は中断された。
そこで、今だ校門近くの街路樹の裏で立ち尽くしていたことに気付き、和美は辺りを見回す。その声の主に視線を向けると、どこか憂いている表情の恵子が立っていた。
「こんなところにいたのね。教室で待ってなかったの?」
「あ、あの、ごめんなさい。気になって、それで、」
「私の後、付いてきたのね」
「ご、ごめんなさいっ」
恵子はゆっくりと首を振る。
「隠れてたつもりだろうけど、ずっと目立ってたわよ」
「……え?」
「何か色々と考えてたみたいだけど、纏まったのかな。少しは落ち着いた?」
恵子は和美が隠れていたことを知っていた。
知っていたのに、なんで……和美のその一瞬の疑問は遮られる。
「少し休もうか」
恵子が指差した本校舎右方向には、第二校庭がある。そこは芝生の広場になっており簡易なベンチが幾つか設置されている。
「そう、ですね」
耳にかかった髪をかき上げ、和美に向かって唇を綻ばせた。
無言のまま連れ立って本校舎の方へ踵を返し、誰もいない奥のベンチへ揃って座る。足元の芝生が、和美のふわふわした感情を表すように風に揺れていた。
「ごめんなさいね、和美。私のやり方が拙かったせいで、あなたに辛い思いをさせてしまった」
「違います。恵子先輩のせいじゃありません」
和美が恵子の手の甲に、自分の手を軽く添える。
「わたしの想いを伝えることは出来ました。本当ならそれで充分だったんです。けど……わたしが欲を出しちゃったから」
和美は桜色の舌を覗かせ可愛らしく微笑む。だが、表情は悲痛で歪んだままだった。
「私がストーカーみたいな真似をしたから、余計な言葉を言ったから、宮原さんが怒ったんです」
「彼は、怒ってないわ」
断定するように、恵子は続ける。
「彼は怒ったのではなくて、守ったの」
「まも、った? それって」
彼、宮原陽大は一見、すべてのモノに対して無関心、無反応のように見える。だが、ある事柄、ある事象に対して極めて執心している。その執着の先は彼女――校門前の彼女。彼の状態はアパテイアなどでは決してなく、無意識の防衛反応に近いもの。
恵子は和美にそう伝える。
「よく、わかりません」
「彼は逃げてるの、よ」
「逃げてるって、一体、何から」
恵子はその問いには答えない。
「和美。あなた、校門前の彼女のこと――梨々花、という名前を知っていたわね。どこでそれを知ったのかしら」
「……」
そこで和美は口を噤んだ。口に出してはいけない。言ってしまったら、何かが崩れ落ちてしまう。そんな悲壮感が和美からは感じられた。
恵子は笑みを浮かべ、話題を少しだけずらす。
「彼女、小さな頃から宮原くんと一緒だと言っていたわ。幼馴染なのね。ということは、彼女もまた東京からこの静岡に転校してきたのかしら」
「梨々花さんは……静岡にはいないと思います」
その和美の言葉に、恵子は一つ頷く。そして、和美の台詞が抱える矛盾を指摘する。
「彼女、毎日、光風に来てる。毎日、ね。静岡にいなかったら、一体どこから来てるのかしら」
「それは……きっと」
先程と同じように口を噤む和美に、恵子はそれ以上言及するのを避け、同じように口を閉じる。
事情がある、そう理解する。和美が迂闊に漏らせない――おそらくは彼と和美の関係、その根源にひどく抵触してしまうような事情がある。
「ごめん、なさい。恵子先輩には相談に乗ってもらって、親切にしてもらっているのに……隠し事みたいになってしまって」
「いいのよ。宮原くんのこと、気遣ってるんでしょう。あなたの気持ちは分かってる」
顔を上げ、恵子を見つめる和美の瞳が潤む。
「一つ……一つだけ。彼女は、梨々花さんは、宮原さんと同じ東京の京南学院中等部出身です。ただ、彼女もまた附属高校へ進学しないで、東京を離れたんです」
何故それを和美自身が知っているのか。けれど、恵子には続きを促すことなく、ゆっくりと頷く。
陽大と梨々花。このニ人が東京の京南学院から、この静岡で逢瀬を重ねているのは決して偶然ではない。何かしらのミッシングリンクによって、繋がっている。
そして、その事情を――恵子の眼の前にいる和美はおおよそ理解している。だとすれば彼と和美を繋ぐもの――バスケットボールを介した何らかの事情が存在している。
恵子は和美の言葉に何かを納得していた。
『梨々花』という名前。彼も、知り合いであろう小林竜也も、そして恵子に自己紹介した本人でさえも、不自然な程に口にしなかったその名前。
「わたしの話……宮原さんとわたしが出会った時の話を、聞いてくれますか?」
「あなたが話したいのなら、私に閉ざす扉はない。私にも伝えたいのでしょう。あなたが、宮原くんをどう思っているのかを、ね」
「……恵子先輩には、敵わないです」
照れて顔を朱に染めた和美の顔が、落ちてゆく日に照らされて綺羅綺羅と幻想的に瞬く。
和美はポツポツと、そして段々と、愉しそうに幸せそうに、そして、辛そうにその思い出を語り始めた。