第七話
直進路も半分を過ぎ、遠目に校門が見え始めた頃、陽大と竜也の背後から、タッタッタッ、と軽快なリズムを刻んだ足音が聞こえてきた。
段々と近づく足音に路の真ん中を歩いていた二人は、進路を開けようと端へと寄る。
しかし、足音は向きを変え、二人の背中のすぐ近くで止まる。はぁはぁ、という少し上がった吐息が聞こえる。
「宮原くん、待って」
その足音の主は恵子だった。
二人に追いつくと、膝に手をついて呼吸を整える。心肺が強いのだろう、すぐに呼吸が平常に戻っていた。
横目で竜也のことをチラリと見て、軽く会釈をする。瞬間、竜也の顔が、ボンッと音が聞こえたかのように赤くなった。
「さっきは『最低』なんて、きついことを言ってごめんなさい」
切れ長の大きな双眸を潤ませ、陽大に近づく。
駆けてきた際に上気したであろう頬がほんのり紅に染まっており、とても艶っぽい。
上目遣いに瞳を陽大に合わせ、シャツの袖口を掴んだ。
「和美、まだ校舎内にいるの。憐憫や同情でもいい。少しだけでもいいから、話を聞いてあげてくれないかな」
「もう話すことはなにもないよ。あの子にも言ったでしょう、もう近づくなって」
にべなく拒絶する陽大の態度に、恵子は何かに耐えるように下唇を軽く喰んだ。
そして、掴んでいたシャツの袖に力を入れ、自身の方に引っ張る。両腕を陽大の腕に絡ませ、柔らかい身体を密着させながら、さらに言い募る。
「あの子も謝罪したいと言っている。あなたの言ったことも、もう気にしていない。だからお願い。今日じゃなくてもいい。もう一度、落ち着いて話を聞いてあげて。もう一度、私に機会をください」
「離してくれないかな」
腕を抱きしめる恵子を鬱陶しそうに振り払うと、そのまま一瞥することなく陽大は校門へ足を向ける。それでも恵子は諦めない。陽大の肩にかかっているバッグの紐を掴み、引き止める。
陽大は小さくため息をついた。
「もう待ち合わせ時間を十分は過ぎてるんだ。高橋さん、逢瀬の邪魔はしないんだよね」
恵子は眉を顰める。
「そう、そうだったわ。じゃあ、私もお詫びするためについていきます。話しながら行きましょう」
「なんでそうなるんだ」
いまだバッグの紐から手を離さない恵子に辟易し、陽大は諦めたように歩を進めた。
高橋恵子が誰かに懇願し執着しているその光景に、竜也は信じられないものを見たかのように、二人の後ろで唖然としていた。どこか稚気を感じさせるその振る舞いは、いつも見ている冷静で老成したその雰囲気とまったく異なるもの。年相応の少女の我儘のように映る。
相変わらず「少しでもいい、彼女と話をして」と哀訴嘆願する恵子を横目に、陽大はそれを無視し歩き続ける。
やがて校門の柱に寄り掛かる一人の少女が、遠目に見えた。
白いインナーにポンチョ風の茶色いカーディガンを羽織り、脚には黒色の細身のデニムを合わせている。足元のウェッジサンダルは同系色で、ヒールを低めに抑えている。校舎正面に対して体を四十五度にして足を∨字型に開き立っており、両腕を組んでツンとすましている肢体は、彼女の長身と相俟ってとても格好いい。そして、ベージュ色のマッシュボブに収まる、形良い卵型の顔の頬が不機嫌そうにふくらんでいた。
遠目からその様子が分かった陽大は、彼女を見て額に手を当てて天を仰ぎ見た。
諦めの境地で校門へと引き続き歩いて行くと、彼女が陽大に気付く。一瞬顔を綻ばせ、そしてすぐはっとしたように、きりりと眉毛を釣り上げる。私は怒っているんです、とアピールをしているようだ。
そして、いつものように陽大の前にやってきて、
「ずいぶんと遅かったね」
腕をとり、そこに自分の腕を絡ませる。
細身の体には似つかわしくないたわわな胸を押し付けると、ぐいっと引っ張った。
その拍子に、陽大のバッグの紐を掴んでいた恵子の手が離される。
「で、その後ろの子はなに?」
訝しげに恵子を見つめ、陽大と彼女の二人の距離を引き離すように、間に立つ。
じいっ、と穴が開くくらいに彼女を見つめ、
「……ふぅん」
と彼女の美貌を目の当たりにして、若干気圧されるように声を漏らした。
「彼女は、高橋恵子さん。よくわからない理由で付きまとわれている最中」
「よくわからない理由って、なにかしら。あなたは自分のしたことの自覚はないの?」
陽大はその言葉に、小馬鹿にしたように口角を釣り上げる。
「高橋さんも自分のしたことに自覚がなさそうだけどね」
「……へぇ」
何かを口にしようとした恵子が唇を震わせ、そのまま押し黙る。
しばらくの間、お互いに含みを持った瞳で無言のまま見つめ合う。
間に立っていた彼女もまた、頭に疑問符を載せつつ、陽大に合わせ恵子を睨みつける。
三者の後ろでその状況をハラハラと見守っていた竜也が、ようやく声を出した。
「えー、とりあえず、ここは校門前だし目立つからさ。話し合いするなら、別の場所にでも」
四人の周囲には、興味深けに好奇の視線を向ける帰宅中の生徒たちがいた。
この時間帯は生徒もほとんど帰宅しているが、それでもまだ居残っている生徒はちらほらといる。
この学校の有名どころの宮原陽大と校門前の彼女、そして高橋恵子である。
修羅場と思しき場面を鑑みれば、否応でも野次馬根性が出るはずで、明日中には口伝えで学校中に知れ渡るに違いなかった。
「いや、話し合いなんてしない。もう全部終わっている。待たせて悪かったね、今日はどこか寄りたいところはあるかな」
肩を抱き寄せ振り返らせると、彼女だけに向けられる優しげな顔で笑いかける。その陽大の顔を仰ぎ見た彼女の表情が、パッと花開く。
彼女の身長は170センチを優に超えており、女子としてはかなりの高身長なのだが、陽大の身長は185センチとさらに大きい。頭半個分は陽大を見上げる形となっている。
それでも彼女にとって理想の身長差というものがあるのか、靴はヒールの高いものを履いておらず、陽大の首筋あたりに視線が来るように努めていた。
「ど、どこでもいい。陽ちゃんが行きたいところに付いてくよ」
その笑顔に当てられた彼女は、先程までの不機嫌顔の演技をすっかり忘れたように、表情を弛める。その陽大の優しげな微笑みを見て――恵子は目を瞠った。
「そうか、じゃあ、今日は駅前のモールでもまわろうか。時間は少ししかないけど、お茶くらいはできるだろう。茜屋に行こうよ。あそこは値段が少し張るけど、美味しい甘味があるからね。遅れたお詫びに奢る」
「割り勘でいいよ。遅れたこと、本当は怒ってないし。茜屋のほうじ茶パフェ大好きだし」
あっさりネタばらしをする彼女に陽大は苦笑する。そして、彼女は陽大の腕をとり、再び自分の腕を絡ませると、頭を肩口に寄り添わせた。
「じゃあ、行こう。時間もったいないもん」
恵子の存在を無視するように、二人の世界を築き始める。
何故か目を見開いたまま言葉を失っている彼女を気遣ってか、竜也が両手を合わせ必死に謝っている。それを尻目に、二人は校門の外へと進み始める。
「あ、ちょっと待っ……」
ようやく意識を戻したかのように恵子が片手を伸ばし、陽大を捕まえようと後を追いかける。
それを遮るように、竜也がその間に体を滑りこませ、二人に追従した。大きな背中越しに恵子を見やり、もう諦めて早く戻れ、と目で訴える。
「ちょっと待てって。俺を置いていくんじゃねえよ」
恵子の言葉に被せ気味に放った竜也の声に、陽大と彼女が揃って顔だけ向ける。
「えー、たっちゃんも来るの? 奢ってくれるなら付いてきてもいいけど」
「相変わらずひどい! 今日は俺も一緒に遊ぶって約束してたじゃないですか!」
クスクスと笑う彼女に、竜也が泣きそうな表情で応える。
「ふふ、嘘だよ。早く行こっ」
偉そうに胸を張る彼女とは対照的に、竜也はホッと胸を撫で下ろす。
そして今一度、背中越しに恵子を見つめる。真剣な眼差しで「早く立ち去れ」と促す。
先程からメッセージを発し続けている竜也を、恵子は一瞥し――そして、表情を堕とした。
「まだ――話は終わってない。私と、ちゃんと、向き合いなさい」
陽大を引き止めようと出したその声は、くぐもっていた。鈍重でありながらも、聞いた人間を麻痺させるような鋭利さを含んでいる、そんな声音だった。
竜也はその声で、足元を凍らせる。陽大も同様に、足を止め――歩みを進め――られなかった。
「逃げるな」
彼らのみならず、遠巻きにやりとりを窺っていた生徒たちすべてが、その声で静寂に支配された。
あの清楚で温厚、いつも光輝に微笑んでいるはずの『天使』高橋恵子の発した声に――恐れを抱き、畏れを抱く。周囲の人間は凍りつく。
周りが時間を止めている中、誰よりも先に、彼女がその声に反応した。
頭をゆらりと回し恵子を一瞥、そのまま陽大から腕を離し身体ごと後ろに振り返った。
そして、無駄のない動きで恵子の所までつかつかと歩み寄る。
彼女は恵子の前に立ち止まり、挑戦的でどこか蔑むような薄暗い目つきで見下ろす。
「高橋恵子さん、だっけ」
「はじめまして。待ち合わせ遅れさせてしまったみたいですね、申し訳ありませんでした」
「陽ちゃんとは、どんな関係なの?」
「同級生、ですよ」
同級生、ねぇ。そう呟く彼女はアヒルのように唇を尖らせ、そこに人差し指を当て――
「あなたは――『梨々花』さんは、宮原くんと、どんな関係なんですか」
――その指を強く喰む。
「……恋人だけど」
「とてもお似合いですね、宮原くんと『梨々花』さん。もうお付き合いも長いんですか」
「……小さい頃からずっと一緒、だけど。それより、あんた、なんで名前――」
「私、もう戻りますね。お邪魔、しました」
唐突に切り上げた恵子の瞳を、彼女は訝しげにじっと覗きこむ。
薄く笑みを浮かべている恵子が、その視線を切り、背を向けた。