第六話
竜也は黒の革靴を下駄箱から取り出し、すのこの前にポイと投げ、不揃いの靴に足を通す。サイズ三十センチの大足を綺麗に揃え、そのまま玄関口を出て軽く伸びをし、その巨体を弛緩させた。
日の入りも近いのか、空が薄明るい。
本校舎、と呼ばれる中央棟の校舎の玄関口から校門までは一直線。距離にして二百メートル程ある。直進路の両端に植樹された桜の樹が、今の季節は新緑に身を包んでいる。
また所々に街灯が設置されており、今時分に明るく点灯し始める。校門を出た先は片側一車線の狭い車道が横切っており、くすんだ鈍色のガードレールとアキニレの街路樹が境界となっている。
玄関口付近で竜也は足を止め、陽大が出てくるのを待っていた。
殆ど差もなく陽大が出てくると、そのまま揃って歩を進める。竜也が左手首に巻いている腕時計に目をやった。
「時間十分オーバーってところだな、走るか?」
「いや、いいかな。遅刻は五分も十分も三十分も、梨々花の中では同じなんだ」
諦めが肝心だ、と肩をすくめる。
「そうだ、結局なんだったんだ。高橋さん、何でさっきの話に関わってるんだよ?」
「ああ」
上を向き街灯の光を仰ぎながら、口を開く。
桜木がぼんやりと照らされて、直進路に淡く影を落としている。
「後輩のお願いを聞いて場をセッティングしたって言ってたよ。仲が良さそうだったな。知り合い、いや、中学からの先輩後輩の関係なのかもしれないね」
「ふぅん、それで付き添ってたわけか。で、あの惨状は、和美ちゃんに心ない言葉を吐いたお前への憤慨みたいなもの、と」
「そんな感じ」
もったいねぇな、と本気で哀れみの視線を向ける竜也に、再度、肩をすくめる。
「それにしても感心するね。後輩、先輩問わず、いつも親身になってあげているだろう、彼女」
高橋恵子はその類まれな美貌から、男子生徒にはアンタッチャブルな憧憬の念を抱かれてはいるが、その実、同姓からは非常に好感を持たれている。
美しさもある域を超えると、同姓でももはや嫉妬の念はわかないのだろう。学年の差すら越えて、学校中の憧憬と羨望と信頼を一身に集めている。
「そうだね、高橋さんの周りにはいつも人が溢れてる」
「取り巻きっていうか信者っていうかな。彼女、能力もずば抜けてるしな。定期考査は常に一位だし、運動だって他の部活のヘルプに入れるくらい万能だ。それに皆から頼られても、嫌な顔一つせず助けてあげる人格者」
自分のことのように得意気に話す竜也を呆れたように見つめ、
「たしかに彼女はとても綺麗で、とても優秀で、誰からも好かれる人なんだろう。でも、ね」
一旦言葉を区切って、言い切る。
「彼女は誘蛾灯だよ」
「はあ? 誘蛾灯?」
俺らは害虫かよ、と竜也は口の形をへの字にし腕を組んで考える。
「意味がわかんねえ」
そこで、陽大は一度立ち止まり、上を向き街灯を指差す。釣られて竜也もまた、街灯を見上げる。
「もう結構明るく見えるね。多分、この学校の殆どの生徒があれなんだ」
「はあ」
「で、高橋さんが誘蛾灯」
にべもなく言い放つ陽大に、竜也はよけいに理解らないといった様に眉をひそめる。
「いや、わかんねえよ」
「今日は、幸いにも高橋さんと話す機会があったからね。今まで興味がなかったから、あまり彼女を知らなかったし知ろうとも思わなかった。だけど、その中で、独り善がりにだけど、僕なりに分かったことがある」
そういえば、中学の時から陽大は観察眼が優れていたな、と竜也は顧みる。
人の所作を細部まで観察し、次の行動を予測したり、その言動の意味を考察する。彼がバスケットボールで選手として突出していた理由の一つがそれだ。
かつて陽大はその観察眼によって人の心理の裏をついたり、動きを誘導することで、緻密なまでにゲームをデザインしていた。同じコートに立っていた竜也は、いつの間にか自身の手元にボールが入っており、いつもフリーでシュートを打てていたことを思い出す。
「高橋さんは不自然なんだ」
「いや、あれは自然美ってやつだろ? メイクなんてしてないし、せいぜいリップくらいだろ」
「違うよ、そういう意味じゃない」
「じゃあ、あれか。人格者というのは嘘で、ただの偽善者。人気取りのために仮面をかぶってる、とかな」
陽大が眉をハの字にさせる。
「いや、あれは素だと思うよ。強迫性に近いものはあるんだろうけど、困ってる人を放っておけないんだろう。そういう優しくて残酷な環境で育ってきたんじゃないかな。天使っていうのも、正鵠を射ている」
「残酷? ……だったら、なんなんだよ」
「灯はさ、周囲を明るく照らすのが目的だ。そしてその光は強いほど様々なものを惹きつける。でも誘蛾灯は同じ灯りのように見えても目的が違う。誘引して捕虫する。中にまで踏み込んだ虫を溺死させたり、焼死させたりする」
今は、電撃殺虫の方が主流なのかな、とこめかみに指を当て呟く陽大に、竜也は顔をひきつらせる。
「彼女……高橋さんは部活に入ってるかな。委員会とか生徒会活動をしているかな。親友は何人いるんだろう。恋人はどうだろう?」
突然疑問を並べる陽大に、竜也はその意図を慮る。
「そういや……どれも聞かねぇな。いつも人に囲まれている、相談に乗ってあげている、頼りにされている、でも」
「そう、彼女は憧憬や尊敬の念で、皆から一線を引かれてるように見えて――その実、自分自身で弾いてる。深く関わってくるものには属さない。だって、彼女の中に踏み込んだら、殺されてしまうから……殺してしまうから」
物騒な言葉に、竜也は眉を顰める。
「だから、なんで殺されるんだよ」
それには答えず、目を細めたまま話し続ける。
「彼女は自分がどんな存在なのかを完璧に理解している。そして、偶像足りうる自分には誰も踏み込ませない。そういう行為、感覚がもう自然になっている。身についている、というよりはそれが彼女自身なんだよ。ただね、目的を達するために、今日の彼女はその境界線を安易に消していた気がする」
迂遠な表現に竜也が頭を悩ませていると、その様子を見た陽大が軽く吹き出す。
「簡単に言うと今日の彼女は、目的のためには手段を選ばないっていう陳腐な言葉を体現してた気がするんだ」
唸っていた竜也がそこで頓狂な声を発した。
「はあ? 高橋さんが手段を選ばないってか」
「人に踏み込ませないくせに、自分から胸襟を開く。自分が踏み込むくせに、人を敬遠する。不自然で矛盾している。少なくとも僕には――そう見えた。思い過ごしかも知れないけどね」
ため息を一つ。
「お前の話はよくわからん」
「街灯が点き始めたからね。それに合わせて強引に繋げてみただけ」
いつも取り巻きに囲まれているはずなのに、窓際で一人佇ずんでいた彼女。
教室には誰も入って来ず、陽大とずっと二人きりだった彼女。
自分の席に陽大を呼び、机と開いた窓を挟んで対面させた彼女。
和美が教室の外にいるのが分かっていたかのようなタイミングで目配せをした彼女。
予め打ち合わせをしていたかのように、あの場に同席をした彼女。
開いた窓から流れこむ風に乗って、彼女から漂ってきた甘く濃厚な落ち着く花の香り――イランイランの香り。
「女の子って甘くていい匂いがするよね」
「……なに言ってんだ、お前」