第五話
陽大は吐息を漏らす。
窓を締め、倒れた椅子を元に戻し天井を仰ぎ見る。
瞼を閉じ、冷静になろうと腹式呼吸を行う。
しかし、一度聴き入れてしまった和美の呪詛が耳から離れず、強制的に頭の中に入り込んできてしまう。こめかみを押さえながら、仕方がない、と諦めかけたその時、誰かが教室に入ってくる足音が聞こえた。
「もう時間だぞ。急いだほうがいいんじゃねぇか」
その声に顔を向ける。
軽く手を上げた陽大の親友――小林竜也が、教室前のドアから鞄を片手に近づいてきていた。ノソリとドアを潜るように入室してきた彼は、陽大の姿を見て悪戯っぽくニヤリと笑った。彼の短髪に刈り上げられた精悍な顔に笑窪ができる。190を超える筋肉質で厚みのある彼の体型と懇篤そうなその笑顔のギャップが、先程の空気を一新するように柔和な雰囲気を陽大にもたらしていた。
「天使が飛び去っていったな。あの子のあんな姿、初めて見たぞ」
「天使って、なんだ」
「高橋恵子さんの別称だよ。他には女神、聖女なんてものもあるな」
「ふうん」
素っ気ない返しに、竜也は呆れたように肩をすくめる。
「お前は興味も関心もないんだろうけどな、男子の中では学年問わず偶像化されてるぞ。ま、あのご威光だ。色白の美しすぎるご尊顔に抜群のスタイル、そして汚れのないつや髪に浮かぶ天使の輪。ありゃ神様の祝福受けてるよ。世の中にはあんな人間がいるんだな」
竜也の賛美に、陽大の脳裏は、先ほどの風に靡いていた恵子の髪を映し出す。
美麗な顔貌ではなく、完璧なスタイルでもなく、何故か、その美髪が思い浮かんだ。
恵子の肩下で揃えられた髪は確かに美しい。光沢を放つその髪は毛先まで煌き、枝毛の一つもないように見える。
ただ、半年ほど前まで、彼女は髪を腰のあたりまで伸ばしていた。そして、今よりもその美しさは際立っていたはずだ。
彼女に興味のなかった陽大ではあったが、知らずのうちに、その過去を思い起こしていた。
「高橋さん、髪切ったよね。あの長くてとても綺麗だった、あの髪」
「突然、なんだ。まあ、バッサリといったよな。ちょっと勿体無い気もしたが――今の髪型もすごく似合ってるんだし、いいんじゃねぇの」
「賢者の贈り物みたいに、どこかに売ったのかな」
「アホか。でもまあ、本当に高値で売れそうだけどさ」
軽口を叩きながら、行こう、と竜也と連れ立って教室を出る。
陽大と恵子の教室――二年F組は本校舎二階の端に位置する。教室から出て右手の廊下の先が渡り廊下になっており、別棟へと続いている。別棟の一階からは体育館へ赴くことができ、丁度この時間帯は体育館を使用した部活の生徒が、別棟から二階の渡り廊下を経て本校舎へと戻ってくる頃だった。
教室を出た陽大と竜也が、ふと渡り廊下の方を見やると、その先からバスケットボール部であろう一団が歩いてきていた。五人の男子バスケ部の面々が疲労感を漂わせた雰囲気でありながら、和気藹々と徒党を組んでいる。それを見た陽大と竜也は一瞬立ち止まったが、踵を返し、彼らとは反対側を歩き始めた。
男子バスケ部の先頭を歩いていたその一団の中でも、一際長身で目立つ生徒が、目の前の二人に気付き、ぎょっとしたように足を止めた。
後ろから追従していた他の部員たちが不審げに、突然足を止めた彼の視線の先を辿る。
そして、彼らもまた二人を認めると、同様に複雑そうな顔を二人に向けた。
「こ、小林っ!」
その生徒が竜也の広く大きな背中に向かって、呼びかける。
その声に、竜也がさも今、気がついたというように振り返った。
「今日は練習手伝ってくれて、その、ありがとな! また、よろしく頼むよ!」
竜也は表情に満面の笑みを貼り付けると「おう、またな」と手を上げ彼に返答する。そして、その巨体を翻すと笑顔をしまい、少し先を歩いていた陽大に小走りに追いつく。
その二人の後ろ姿を見送る彼の目は既に竜也を見ておらず――その隣にいる陽大を切なげに凝視していた。
「今日は、バスケ部の練習に付き合ってたんだね」
「まあな。待ち合わせ時間まで時間余りまくってたしよ。丁度いいタイミングでお願いされたからな。暇つぶしだよ、暇つぶし」
竜也が「暇つぶし」という言葉を言う時の寂しげな表情に、陽大は気付いていた。だが、敢えて知らぬふりをし、茶化したように言う。
「先に帰っていても良かったんだ。別に僕達に付き合う必要はないんだから」
「一緒に遊ぶって約束したから待ってたのに、それはねぇだろうよ」
まったく、とぼやく竜也に、陽大は苦笑する。
「ここの男バスなんだけどよ。昨年トラブル起こして当時の二年――三年が全員いなくなったのは知ってるよな?」
「ああ、確かそんなことがあったっけ。別にどうでもいいことだから気にも留めなかったけど」
竜也は「はぁ」と一つ嘆息する。
「相変わらず校内の事には興味ねぇのな。でな、今の男バスは、うちらの学年のやつらが立て直そうと奮起して頑張ってんだよ。人数も少ねぇから、練習だってそりゃあ大変さ。五対五やるときには、女バスと混ざってやってんだぜ?」
「ふうん」
「だから、たまに俺が練習相手になってやってんだけど……」竜也は頭を掻く。「まあ、どうでもいいか」
「……ああ、どうでもいいよ」
「さっき、俺に声をかけたやつ知ってるよな。安藤直樹だよ。今の男バスの主将やってる。東海地区の開星館にいたやつだ。なかなかいいプレイするやつで、俺達も結構手間取ったじゃねぇか……そいつがな、やっぱり、お前とも、」
「竜也」
「お、おう」
「……竜也はさっき何があったか聞きたいんじゃないか?」
竜也は先程の自分の話をすぐさま打ち切る。そして、待ってました、と言わんばかりに、沈んでいた表情を明るくした。
おそらく竜也は、和美が教室に入っていったこと、叫んでいた何かの言葉、泣きながら出て行ったことは把握しているだろう。陽大を迎えにいったのはいいが、教室の中で何やら深刻そうに話している三人に遠慮して、廊下で待っていたに違いない。だからこそ恵子が教室から走り去った後、若干時間をおいて完璧なタイミングで教室の中に入って行けたのだ。
「結局、お前はなんで高橋さんを怒らせたんだ?」
にやけた顔の竜也に、
「単に僕の言動が気に入らなかったみたいだ」
と、陽大は嘯く。
陽大を探るように見つめた竜也は、何かを納得したように頷き、
「白川和美、だろう?」
陽大の方へ振り向き確認をとる。
その言葉に呆れたように肩をすくめた。
「盗み聞きはよくないんじゃないか」
「お前を迎えに行こうと思って教室を覗いたらさ、何か知らねえけど窓際で深刻そうな話をしてるじゃん。入っていけねえよ。しばらく廊下で待ってたら、小せえのがお前の教室から飛び出してきてさ。なんだありゃ、と思ってしばらく突っ立ってたら、今度は高橋さんが飛び出してきた」
竜也はガリガリとつむじ辺りを手で掻く。
「小さい方もすぐ分かったよ。白川和美っていや、女子バス期待の新人だ。練習相手になってる時にもよく見かける。かなりやるぞ、あの子」
「そう、みたいだね」
「お前達が何をしていたのか、何を話していたのかは分からなかったけどな。まあ、予想はつくんだよ」
揃って階段の踊り場まで歩いていた竜也が、そこで足を止める。
腕を組み、うーん、と一つ唸ると、
「実は前から知ってたんだ。練習中に俺のところに既に来ててな。ま、お前の時と違って一人だったし、もっと淡白だったけどよ。勿論、バスケのことだ。根掘り葉掘り聞かれたよ」
あの子が内向的な性格って話、嘘だろ? と、その時の光景を思い出したのか、くつくつと笑う。それでよ、と愉しげに次の言葉を発しようとしたその時――
――隣から、チッ、と舌打ちする音が響いた。
陽大が、竜也の前に回り込み、頭半個分上にある柔和な瞳を下から威嚇し覗き込むように睨む。
「竜也、お前か?」
突然の豹変に、竜也が気圧されたように一歩下がった。
「は、はあ? 何のことだよ」
「お前が、あの子にくだらないことを吹き込んだのか、と聞いている」
竜也の第二ボタンまで開いていたシャツの襟口を掴み、そのまま引き寄せる。
「あの子は、梨々花のことを知っていた」
至近距離で竜也の目を覗きこむ陽大に薄暗い狂気を感じて、背筋に冷たいものが走る。それでも、目を逸らすことなく「そりゃ、知ってるだろうよ」と気丈に睨み返す。
「バスケのことだって、梨々花さんのことだって何も喋ってねぇよ。梨々花さんはこの高校の超有名人じゃねぇか、皆知ってるよ」
「違う。梨々花という名前を知っていたんだ。僕と梨々花とバスケが繋がっていることを分かってたんだ。あの子は、僕がバスケを辞めたのが――梨々花のせいだと言ったんだ」
陽大の瞳が仄暗く濁ってくる。
竜也の襟口を掴む手の握力がより増してくる。
竜也は喉に来る圧迫感に、軽く咳き込んだ。
「落ち着け! あのなぁ、あの子は、単純に昔のお前と今のお前を結びつけただけだろ。教室であの子がなんて言っていたか思いだせ! そんな決定的な言葉は吐いちゃいないはずだ。お前と梨々花さんのことは何も知らないんだよ!」
陽大は訝しげに片眉を上げ、竜也の襟口を放す。そして、顎に手を当てて、焦ったように何かを顧みている。
竜也が襟口を整え、一つ深呼吸をする。この馬鹿力が、と悪態をつき、視線を彷徨わせている陽大を軽く睨んだ。それを余所に、陽大はぶつぶつと何かを呟いている。
「……事情は知らない? ……私の気持ちを……伝える? 助ける……誰を? 何から?」
ストン、と何かが憑き物が落ちたように、陽大の表情に飄々としたものが戻ってきた。二、三度軽く頷くと、髪をかきあげる。額に滲んだ汗を軽く手の甲で拭う。
「うん、そうだね。竜也の言うとおりだ。あの子は何も分かってない。何か事情があると勘ぐっているだけだ。中学時代の僕を知っていたから、尚更気になったんだろうね」
ははっ、と余裕を持って笑みを浮かべる陽大を見て、竜也は安堵と憐憫の入り混じった複雑な表情を向ける。
「東京にいた俺らが静岡にいるなんて普通は思わないだろうけどな。それでも分かる奴には分かるんだろうよ。俺に言わせれば、たかだか中学バスケで活躍した程度の選手をよく覚えているもんだ、と感心するけどな」
「僕を知っていたあの子は、バスケをやっていないことに憤っただけ。それで原因を探しているうちに、僕と梨々花のことを変に勘繰ってしまった。そして、梨々花のことに気が付いてしまった」
「そう、だろうな」
「後で梨々花に謝らないと。僕が迂闊なせいで、梨々花に疑いをかけられてしまったから」
「……そう、だな」
竜也も疑ってしまって悪かったね、と頭を下げ平謝りする陽大に、竜也は軽く肩を叩いて困ったような笑顔を見せる。二人は階段の踊り場を過ぎ、本校舎一階の玄関口まで辿り着く。そのまま下駄箱まで進んだところで竜也はついと口を開く。
「お前さ」
「うん?」
「……白川和美、あの子のこと本当に分からないのか?」
怪訝な顔で竜也を見る陽大に、
「いや、なんでもない」
何か物恐ろしさを感じて、慌てて聞くべき言葉を切り捨てた。