第四話
「なんで、ここに、いるんですか?」
和美が紡いだ言葉は、断片的に、だがしっかりと陽大の鼓膜に反響する。
隣に座っている恵子はそれを聞き、ゆっくりと陽大へと顔を向ける。和美の真剣な目、陽大の敵意を表すかのように鋭く細くなった目、その質問には何か深い意味があることが窺える。
「……どういう、意味かしら」
見つめ合ったままの二人を尻目に、まず恵子が声を出す。
和美はその問いには答えず、陽大に向かって更に言い募る。
「宮原さんって、あの宮原陽大さん、ですよね」
陽大はその問いに、憮然としながらも口を開く。
「あの、という意味がわからない」
「あの、京南学院の宮原陽大さんのことです。京南学院バスケ部の主将で、全中二連覇の立役者で、日本代表にも選出されたあなたのことです」
それには何も答えず、陽大は顔を窓際に向け、はぁ、と軽くため息をつく。
「中学、高校でバスケをやっていて、あなたのことを知らない人はいません。京南学院って中高一貫校ですよね。それなのになんで――ここにいるんですか?」
尖った二人の雰囲気に手を伸ばすように、恵子がここでもう一度もっともらしく口を挟む。
「ねえ、和美。京南学院ってどこの学校かしら」
「東京にあるバスケの名門校です。中高一貫の私立校で、中等部も高等部もバスケ部は全国レベルの強豪校です。宮原さんは全中――全国中学生バスケットボール大会で、その中等部を二年連続で優勝まで導きました。しかもその大会で最優秀選手に選ばれています」
恵子が息を呑む。
対面の陽大は、和美の言葉には何の反応も示さずに窓の外を見つめている。
「わたし、宮原さんのプレイ、知ってるんですよ? 宮原さんを見るためだけに、東京の会場にだって何度も足を運んだんです。宮原さんは本当に凄かった。ううん、凄いなんて言葉じゃ陳腐過ぎる。なんて表現したらいいのか分からないけど……わたしの、いえ、全プレイヤーが憧れるくらいすごい人なんです」
和美は視線を自分の膝に落とし、両拳を握りしめる。言葉が熱を帯び始める。第一声までおどおどと躊躇していた姿がまるで嘘のように饒舌になってゆく。
「なのに……なのに、どうして静岡県のこの光風高校にいるんですか」
視線は落としたままに、和美は言葉を続ける。
「ご家庭の事情……なんですか。でも、宮原さんほどの人ならスポーツ推薦で全国どこの学校にも行けるじゃないですか。寮だって設備だって、ここより遥かに優れた学校が沢山あります。確かに、この光風は女子バスケ部は強いです。全国区の強豪です。でも言っては悪いですが、男子バスケ部は弱小です。静岡県でしたら、すぐ近くに同じような全国区の浜松学園だってあるじゃないですか……正直、ここは宮原さんが選ぶべき高校だとは、とても思えません」
興奮に潤んだ瞳と紅潮した頬が、和美の愛らしい顔を更に引き立てている。
しかし、視線を下に落としていたせいだろう。彼女の上気した顔とは裏腹に、窓際に目を向けている陽大の口の端が少し釣り上がったことに、気付いていなかった。
先程から陽大を観察していた恵子だけが、そのほんの僅かな変化に気付く。
「それとも怪我をしたんですか。リハビリ中なんですか。違いますよね。わたし、学校の先生にも、部活の監督にも聞いて回ったんです。探るようなことして、すごく悪いことだと思ったんですけど……とても気になって。でも、宮原さんは怪我なんてしてませんでした。それだけ才能があって、身体には何の問題もないのに……どうして」
恵子は段々と歪んでいく陽大の表情の変化を見て、眉根を寄せた。
奥歯を食いしばっているのか、頬が引きつり始めている。その様子に恵子が、一旦、和美を静止させようと呼びかける。
「ちょっと、かず……」
その呼びかけを無視し、和美は悔しそうに下唇を噛み、被せるように言葉を吐き出す。
「どうして、一年以上も! バスケをしていないんですかっ!」
和美はようやく視線を上げ、陽大を窺う。そこで初めて、目の前にいる陽大の苦虫を噛み潰したような表情に気付き、口から「……あ」と消え入りそうな声が漏れる。
「あ、あ、ああ……す、すいません、わ、わたし、み、宮原さんのことが、あの、どうしても」
挙動不審に言葉を続けようとするが、乱れてしまう。
「だ、だから、ですね。あの、事情を、ですね、その、知りたくて、それで、私にできることが、あれ、ば」
そこまで言い募ったところで、パンッ、と乾いた音が響いた。
驚き、目を見張る和美の目の前で、片手で机を思い切り叩いた陽大が立ち上がっていた。
「そろそろ時間なんだ。帰らせてもらうよ」
乱暴にバッグを肩にかけ、座っていた椅子を机にしまう。そして、そのまま教室を出ようとドアへ向かった。先程の一驚で、動作と言葉を失っていた和美が、教壇の前を通り過ぎた陽大を見て、ようやく硬直をとく。
「ま、待ってください!」
和美の清涼感のある声が、張り上げることによって、鋭い刃のように教室を伝播した。
しかし、その刃は刺さることなく素通りする。陽大はその声を無視し、教室を出るためにドアを開けようと手を伸ばした。
「……あの人、梨々花さんが原因なんですか」
ボソリと呟いた鈍重な言葉にもかかわらず、和美のそれは今度こそ陽大に突き刺さった。
陽大が手を伸ばしたまま――固まる。
和美は固まったままの陽大を、キッと睨みつけるように、貫くように見つめる。口の中で、やっぱり、と丸めた言葉を唾棄する。
「事情があるなら、わたしに話してくれませんか! あなたにまたバスケをして欲しいんです! またコートに戻っていただけるまで、わたしがなんでもしますから! わたしのことが信じられないのなら、信頼されるまで何度でも私の想いを伝えます! 梨々花さんのことは――わたしが絶対になんとかします!」
心からの想いを、澄んだ大声に乗せて伝える。
「わたしがあなたを助けますから!」
「――君は、誰だ。君みたいなヤツが、何を知ってるんだ」
「……え?」
よく聞き取れなかった言葉に、和美は呆けたように陽大を見つめた。
そして陽大は振り返ると、先程まで熱く叫声に近い声をあげていた和美の顔をじっと凝視する。
薄く嗤いながら彼女の元へと歩いていく。
陽大が一歩一歩近づいていくにつれ、興奮に紅潮していた和美の頬が、さらに赤く染まり始める。糸が切れたように、ぽすん、と椅子に落ちた。
陽大は彼女の前で立ち止まると、前髪で隠れるその昏い目を合わせ、逸らさずに言い放つ。
「白川和美さん。僕は君の助けなんかいらない。バスケにも君にも興味がない。もう二度と僕に近づかないでくれ」
何が起こったのか和美は理解していない。
しばらく頬を染めつつ放心していたが、刹那さあっと頬の朱が色褪せる。
どうやら理解が及んだらしい。
緊張と羞恥と絶望から顔をさらに蒼白にし、猫目から涙をじわじわと溢れさせる。一筋、涙が頬を伝った。
和美は目元を袖で素早く擦ると、陽大の脇をすり抜け脱兎のごとく教室から駆け出していった。立ち上がった時の勢いで彼女の座っていた椅子が、カンカン、と音をたて跳ねながら倒れた。
それを横目に陽大は深く嘆息する。
「相談事は解決できたね。これでいいかな、高橋さん」
「……最低ね」
恵子は柳眉を吊り上げ、侮蔑と憐憫の混じった眼の色を持って、そう吐き捨てた。
和美が来る前までの、穏やかで慈愛深き眼差しがまるで嘘のように、正反対の視線が陽大に突き刺さる。穏やかだった風は、もう窓から吹き込まない。
「確かに、あなたのことを探るように聞き出したり、一方的に気持ちをぶつけた和美が悪いとは思う。でも、あの子が真剣な想いだったのは分かったでしょう? もう少し……もう少し、優しくしてあげて欲しかった」
「君がそれを――言うのか」
「どういうこと、かしら」
「君が最低と言ったのは、僕のことかな。それとも――」
そこで言葉を区切った陽大を、恵子はしばらく無言で睨み続ける。「ごめんなさい」呟き、和美を追いかけるために小走りに教室を出て行った。
苛立ちを孕んだ目つきで走る彼女の姿に、廊下を歩いていた部活上がりの生徒たちが驚いて道を開けていた。普段の静謐な姿だけを知っている彼らは、その初めて見る彼女の様相に、皆一様に驚愕に目を見開いていた。