第三話
「それで、お願いっていうのは何かな」
「私の後輩で、あなたと話したいという子がいるの。その子の為に、これから少しだけ時間をくれないかしら」
「これから? 話せる時間もあまりないと思うけど」
「ええ、それでいい。彼女はバスケ部でね。今日は早めに練習を終えると言っていたから、そろそろじゃないかしら」
そう言うと、恵子は教室の後ろのドアへ、今のままの姿勢で首と眼球を右斜め後ろに移す。まるでそれが合図であったかのように、教室の後ろのドアが、カララ、と申し訳なさそうにゆっくり、こっそりと開いた。
ドアの隙間から、小柄な少女が教室の中を覗いていた。
やがてその少女は窓際の二人を認めると、緊張にしばらく硬直した後、意を決したようにそろりと教室へ足を踏み入れる。そのまま恐る恐るといった足取りで窓際へと向かってくる。慎重に歩いているせいか、足音が一切聞こえてこない。二つに結いた髪も、制服の黒のスカートも一切揺れることなく、彼女は歩みを進めてくる。
恵子の三歩後ろに立ち、その小柄な少女は一つ深呼吸をした。
「遅くなって、すいま、せん」
か細く、若干震える声で、彼女は窓際にいる恵子に話しかけていた。
話しかける際、視線は恵子ではなく、おどおどと陽大の周辺に行ったり来たりさせている。定まらない視点と散大している瞳孔を鑑みるに、どうやら軽い興奮状態に陥っているようだった。
「いいのよ、和美。そんなに待っていないわ。じゃあ、私と交代。ここに座って」
恵子が小首を傾げ薄く笑うと『和美』と呼ばれた少女に席を譲ろうと腰を上げる。彼女は恵子の制服を引っ張り、それを遮った。
「……あの、で、できれば恵子先輩も一緒にいてくれま、せんか?」
じっ、と恵子の瞳を覗き込みながら嘆願する。
恵子はしばらく和美のその様相を眺め――彼女がコクリと一つ頷くのを確かめると、
「和美がそう言うのなら、私はいいのだけれど。宮原くんも――いいかしら」
陽大にも同意を求めた。
「別にそちらが気にしなければ、僕は一向に構わないよ」
「そう、じゃあ、和美はこっちへいらっしゃい」
隣の席の椅子を自分の方へ引き寄せ、ぴたりとくっつけるように並ばせる。おずおずと、和美がそこに腰掛けた。
陽大は、今、恵子と隣り合っている和美という少女に覚えがあった。
たしか一学年下の後輩で、恵子が話した通り女子バスケットボール部に所属していたと記憶している。同じクラスの運動部の生徒たちが、頻りに彼女の噂をしていたことを思い出す。
曰く、全国大会常連でもある強豪女子バスケットボール部スターティングファイブを、白川和美という一年生が実力で勝ち取った。
入部当時、155に満たない低身長と、大人しく受動的な性格から、長続きしないだろうと誰もが思っていたらしい。
中学校時代にもバスケ部に所属していたらしいが、大きな成績を残すでもないチームにも関わらず、選手としてベンチ入りすることなくずっと補欠に甘んじていたという。
そんな背景がありながらも、何故、県下のエリートプレイヤーが挙って入ってくるような、この高校へ来たのか。
バスケットボール選手として入部する意志を持っていた彼女に対して「そんなにバスケットボールが好きならマネージャーとして頑張ればよいのでは?」と、いまの監督からも最初は言及されていたようだ。
しかしそんな生暖かい衆目を、彼女はいい意味で裏切る。
彼女の技術とバスケIQは卓越していた。
ドリブルにパスにと、とてつもない速さと正確さをもって相手を翻弄する。そして、打っては高確率でゴールネットへ吸い込まれる長距離砲を放つ――周りの度肝を抜く活躍で、一躍有名になったというのである。
中学校では目立つことのなかった彼女、公式戦ですら出場していなかった彼女が高校に入った途端、何故ここまでのプレイを魅せることが出来るのか、誰もが疑問に思い、首を傾げているのだという。
さらに和美を有名人たらしめているもう一つの理由があった。
小動物のような愛くるしい外見と、作為的にも見える幼気で無邪気な仕草、そして嫌味のない行動が、男女問わず、彼らのマスコット的な立場を確立してしまったのである。
和美は、陽大の顔と自分の膝元に視線を行ったり来たりさせていた。
その度に、頭が揺れ、左右二つに結んでいる深褐色の髪もピョコピョコと揺れている。その仕草は、小顔に大きな猫目と相まって、エノコログサと戯れる子猫のようで愛らしかった。
三者共にしばらく沈黙した後、ようやく和美が口を開いた。
和美は息を大きく吸い込み、深く吐き出す。記憶を辿っていた陽大の耳に、彼女の鈴の音のような声が響いた。小さいが清涼感のある、とても聞き取りやすい、そんな声。
「1年A組の白川和美と言います。宮原さん、私の事、分かりますか?」
「白川和美さん。女子バスケ部期待の新人さんだよね。確か一年でスタメンに選ばれるほどの優秀な選手だって聞いているよ」
和美の質問に少々違和感を感じたが、記憶にあった『白川和美』の情報に従って答えを返す。
「あ、いえ、そうなんですけど……そうではなくて」
吃ったように口の中で呟いたその言葉に、首を傾げる。
「えと、あ……い、いいです。あ、あのですね、宮原さんに聞きたいことがあるんです」
和美は最初の一声で緊張も緩くなったのか、若干声音を張り上げる。それでも次に繋ぐ言葉がなかなか出てこない。どうやら、とても言いづらいことのようだった。
恵子の手が優しく和美の背中に添えられた。頑張って、と言外に勇気づけるように。
やがて決心したのか、和美は今一度深呼吸をして、真摯な眼差しで陽大を見た。そして、彼女の溢れそうな意識の中から――その言葉が紡がれる。
「なんで、ここにいるんですか?」