第二話
「話があるの。相談、というかお願いかな」
窓際、廊下際という教室の端と端であるにも関わらず、その声はしっかりと耳に入ってくる。少しの間呆けた陽大は、向けていた目線を再度、教室の掛時計に送った。
「……構わないよ。二十分くらいでいいのなら」
「ええ、あなた達の逢瀬の邪魔をするつもりはないわ」
時計を見つめいていた陽大の瞳に、一瞬、剣呑な色が宿った。
だが、すぐにいつもの茫洋なそれに代わり、視線をずらして恵子を見つめる。
「とりあえず、私の席に来ない? 話をするにしても、廊下側だと何かと落ち着かないでしょう」
「そうかな」
片眉を微妙に釣り上げて、仕方なく、といった緩慢な動作で、恵子の席まで赴く。
近づくにつれ、窓から入り込む初夏の風が全身をふわりと包み込み、後ろへと流れていった。
風が通り過ぎる際に、濃厚な甘い花の香りが鼻をくすぐる。落ち着く香りだな、と陽大はその匂いに深い安堵を覚えていた。
恵子が座っている前の席にバッグを放り、その椅子を引き、彼女に対し体を横に向けたまま浅く座る。
先ほど嗅いだ甘い香りが、一際、鮮烈に鼻孔を刺激する。その匂いが彼女の身体から漂っているのだと気付き『ああ、なるほど』と得心する。
横目でチラリと恵子を窺った。
彼女はいつの間にか机に両肘をつき、その端麗な小顔を両掌に乗せていた。下から覗きこむように陽大を目だけで見上げている。その美顔を支える白く細長い指を見て、美人は指まで綺麗なんだな、と感心する。
「こうしてあなたと話したことは、今まであったかしら、ね」
何かを期待するかのような瞳で、彼女は上目遣いに視線を合わせる。
「いや、話したことはあるよ。高橋さんには挨拶もしてるし、日直も一緒にやっただろう」
その物言いに、呆れた声が返ってくる。
「そういう形式的や業務的なものじゃないの。友人同士が話すような閑談のことよ」
「そういった話をしたことはなかったかな」
さして興味が無いように嘯く陽大に、恵子は眉根を寄せた。
あの『高橋恵子』と放課後の教室で二人きり。そして一つの机を挟んで見つめ合い雑話をする。
今の状況こそ、この高校の男子にとって垂涎であることは間違いない。
だが、陽大はあくまでフラットだった。
逆に、恵子は普段からこのような態度の応対に慣れていないのだろうか。微かな戸惑いが見て取れた。
「――風、気持ちいいな」
窓の外に目を向けボソリと呟く陽大に、恵子は軽く目を見張る。
「そう、ね。梅雨明けのこの時期、とてもいい風が吹くわ。ここは自然が多いから緑の匂いがとても強い。校庭の乾いた砂と山の湿った土、そして新緑の濃い香りが混ざりあうと、もっと素敵な風になる。なんだか――とても、懐かしい」
眼下の第一グラウンドでは、野球部やサッカー部などの練習もそろそろ終わりなのだろう。下級生と思われる幾人かがグラウンドの整備を行っていた。グラウンド整備用のトンボを引きながら、愉しげに談笑している。
遠くには緑に包まれた山々が目に優しく映り、裾野に広がる街並みには家庭の光が淡く瞬き始めている。今日は天候に恵まれたからなのだろう。うっすらとだが、山の峡から美しい富士の山が覗いていた。
「高橋さんは詩人だね。まあ、そんな台詞を君以外の人間が言ったら、笑われるのだろうけど」
恵子はその言葉を否定も肯定もしない。
「宮原くんは、私の表現は嫌い?」
「いや、自分に陶酔している感じがして、好きだよ」
一瞬呆気に取られていた恵子が、ぷっ、と吹き出して、陽大の腕を軽く叩く。
「何よそれ、全然褒められている気がしない」
「そうかな、褒め言葉なんだけど」
その言葉で、陽大と恵子はしばし無言になる。
互いに外の風景を双眸に映し、流れる風の心地よさに身を任せる。
陽大も木々の湿った匂いを感じていた。
恵子は、自然が織りなす風の匂いを感じているようだった。
冷たくなってきた風がより一層その香りを引き立てているのだろう。どこか懐かしい郷愁を誘う感覚が身を包んだ。
――だがそれ以上に、知らずのうちに、
陽大は恵子から漏れる甘い体臭に心を落ち着かせていた。