第一話
宮原陽大は教室の廊下側、出入り口に最も近い、一番後ろの席で文庫本を読んでいた。焦点のあっていなさそうな彼の半眼が、振り子のよう揺れ、本の内容を舐めてゆく。
本を読んでいる陽大は、衣替えの季節にもかかわらず長袖のシャツを着ており、そのシャツのボタンを首元の一番上までしっかりと止めている。
彼は身長が高く、手足が長い。更に若干姿勢が悪く猫背なこともあいまって、その姿態はとても窮屈そうに映る。
時折、視線を上げ、ホワイトボード横の掛時計を捉える。そして時間を確認すると、再び活字の世界へと戻っていく。
先程からせわしなく動く瞳は、黒目が大きいにも関わらず、何処かしらピントを外している視点のせいで虚ろに見える。さらに無造作に伸ばした前髪がその瞳を余計に翳らせている。
パラ、パラと乾いた音が静かな教室内に響く。
放課後しばらくたっており、校内には部活動を行っている生徒達の他は、もう殆ど残っていない。
LHRが終わり、クラスに誰もいなくなる時間になっても、陽大はいつも一人で教室に残っていた。周りがそれを奇異に思っていないのは、彼がいつもそこに居続ける理由を知っているからだ。
今日もまた、いつものように、陽大はその席で胡乱げに本を読んでいる。
ただ、今日に限ってはいつもと違う風景が映っていた。
窓際の前から三番目の席にぽつんと座る少女の姿があった。
その少女の肩下で切り揃えられた後ろ髪が、窓から差し込む陽光を浴びて美しく煌めいている。漆塗りの黒髪に浮かぶ天使の輪が、その美しい髪をさらに高調させている。開いている窓から時折吹く風が、彼女の髪をサラサラとさらう。
彼女――高橋恵子は、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
切れ長の怜悧な瞳、美麗な稜線を描く鼻、結ばれた桜色の薄い唇は、たとえ横顔でも佳人であると実感させる。
着ている夏服のセーラーは真っ更な半袖で、そこからは白く長い腕が伸びている。黒のジャンパースカートからも同様に細く白い足が伸長しており、着席していても膝が高く盛り上がり、とても足が長いことがはっきりと分かる。
天日を浴び佇むその姿は、誰もが見惚れる芸術の一作品。
陽大は彼女の姿も視界に捉えていたが、別段気にすることもなく、変わらず本と掛時計に視線を交互させていた。
この二人は特に親しいわけではない。
同じクラスというだけで、入学してこの方、挨拶と学業上の用件以外の会話を交わしたことさえない。
陽大は、この高校の男子生徒が彼女の容姿をしきりに囃し立て、懸想し、遠巻きに窺っていることはよく知っている。彼もまた彼女のことはとても美しいと思っており、その尊顔を正面から見つめた時には、綺麗だ、と嘆息したことだってある。
だが彼らと違い、何か尊いものを崇めるような、そんな信仰はもってはいない。
むしろ心情を正直に一言で言うなら――興味が無い。
窓の外からは、部活動をしている野球部の生徒の喚声が聞こえている。
陽大は無言で本のページを捲り、恵子は微動だにせず窓の外を見つめ続ける。
日が少し翳り、教室に吹きこむ風も少し肌寒いものに変わっていた。
開け放たれた窓をそのままに、相も変わらず風を受けている恵子の表情にも変化はなかった。元より白い陶磁器のような肌色が、冷風に晒されることによって幽玄な透明色のように幻視される。
時計の針が十七時を回った。
掛時計の針の位置を確認すると、手にしていた文庫本をスクールバッグにしまい、のそりと立ち上がる。静謐な教室に、椅子を引き摺った音が響く。
バッグを肩にかけ、気怠そうな面持ちで、そのまま教室の後ろのドアへと向かった。そして、廊下に出ようと引き戸に指をかけた時、
「宮原くん、ちょっといいかしら」
背後から澄んだ声が投げかけられた。
無言で肩越しに後ろを振り返る。
先程までずっと窓の外を見ていた切れ長の瞳が、陽大に向けられていた。