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校門前の彼女  作者: 平原みどり
第二章
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第八話

 キュッ、キュッ、と床とシューズが擦れる音が聞こえる。ダム、ダム、と床とボールが重なる音が聞こえる。バスケットゴールにボールがぶつかる音、ネットを揺らす音、そして絶えることのない荒い呼吸音が聞こえる。幾重にも重なりあったその音が、体育館内に反響していた。

 ただその重音は――ひどく物悲しかった。広く高いその室内で、とても寂寞を感じさせる音だった。

 そこには、和美がいた。彼女はたった一人そこにいた。彼女のほか誰もいないその場所で、全身から汗が吹き出すのも気にせず、荒い呼吸を整えることすらせず、ひたすらに体を動かし身体をいじめ抜いていた。まるで、何かを吹っ切るように、何も考えなくても済むように、無茶な動作を繰り返していた。既に、彼女が体育館に来てから――その自棄が始まってから一時間が経過していた。


 和美はそこでもう限界だったのか、糸が切れたように、ごろん、と仰向けに転がった。瞳を閉じて、ぜぇぜぇと肺に空気を取り込もうと必死に胸を上下させる。しばらくそのままの体勢でようやく落ち着きを取り戻し、彼女はゆっくりと瞼を開けた。そこには体育館の天井が思いの外、遠くに映っていた。その視界に影がよぎる。


「おはよう、和美。お疲れ様」


 そう言って冷えたスポーツ飲料のペットボトルを差し出したのは恵子だった。そのまま和美の顔へそれをくっつける。


「ひゃあああ」


 その冷たさに思わず仰け反り、ゴロゴロと和美は転がっていった。「……ひどいです。恵子先輩」



 恵子と和美は揃って壁に寄り掛かり、しばらくお互いに口を聞かなかった。時折、和美がボトルを口に当てゴクゴクと喉を鳴らす音だけが響く。和美はようやく一息ついたように、深く息を吐きだした。


「どうしたんですか、こんな早い時間に」

「今日はちょっとやりたいことがあってね、早く登校したの。そしたら、体育館からボールの音が聞こえて、覗いてみたら和美がいるんだもの。ふふっ、驚いた?」

「はい、だってまだ朝七時くらいですよ。一体何の用があったんですか」


 恵子はそれに答えず、


「……和美、いま、辛いの?」


 視線を前に向けたままボソリと呟いた。和美が隣で目を見開き、恵子を凝視している。そのまま彼女は言葉を続ける。


「しばらく和美を見ていたの。あなたはとても辛そうだった。必死に何かを振り切ろうとしているみたいに見えた」

「だって、それは」

「そうね。あんなことがあったばかりだものね。あれだけ頑張っていた、三年間頑張っていた和美の先輩たちが、最後の大会に出場することなく引退してしまった」

「……はい」


 悄然と項垂れる和美は、鼻をグズっと鳴らす。


「あんなに頑張って練習したにも関わらず、その成果を出せないまま――結局、有終の美も飾れなかった」

「……やめて、ください」

「彼女たちの三年間は一体何だったのかしらね。大学に行って続ける人もいるでしょう。趣味で続ける人もいるでしょう。そのまま辞めてしまう人もいるでしょう。でも、十代の三年間――二度と戻らない青春に賭けてきたものが、欠落してしまった」

「やめてください! 何でそんなこと言うんですか! その三年間は無駄じゃありません! だって友達と、仲間と、一緒に頑張って絆を深めてきた大切な、輝くような時間なんですよ!? 欠落なんてしていない!」


 真っ赤な顔で声を張り上げて睨む和美を、恵子は困ったような憐れむような寂しげな表情で見つめ返す。


「本当に、そうかしらね」

「そうに決まってます! ……もう、わたし行きますから」


 そう言って立ち上がった和美は、恵子に背を向けたまま「……飲み物、有難うございました」体育館への出口へと歩を進めた。彼女が、ドアを開けようと手を伸ばした時、その背中に恵子の声が投げかけられる。


「和美、いま、()()()、辛いの?」


 その言葉に、ギチギチと、まるで錆びたブリキの人形のようにぎこちなく和美が身体を向ける。


「あなた、三年生がインターハイ出れなくても、本当はそこまでショックじゃなかったんじゃない?」

「……え?」


 錆び付いていた人形がとうとうその動きを止めた。


「自業自得、だとか、ざまあみろ、とまでは思ってないでしょうけど。仕方ないな、程度の感情じゃないのかしら。だって、和美にはまだ先がある。まだ一年だもの。だから自分にはさほど影響がない、そこまでの大事じゃない、そう思ってるのではなくて?」

「恵子、先輩? なに、言ってるん、ですか?」

「あら? 違うのかしら。当たらずとも遠からずと思っていたのだけれど」


 その場を離れようとしていた和美が、ゆっくりと恵子の元へと戻ってくる。


「……いくら恵子先輩でも、言っていい事と悪い事があります、よ」

「ふうん、私、何か変なこと言ったかしら、ね」


 その恵子自身が発した言葉は何の自覚もなく、表情は何の逡巡も見せず我関せずそのものだった。その様相を見た和美の裡に、静かに炎が宿り始める。


「恵子、先輩……わたし……怒りますよ」

「あなたが? 私に?」


 馬鹿にしたように苦笑した恵子を見て、和美の頭に一瞬にして血がのぼる。


「……このっ!」


 そのまま座っている恵子の元までツカツカと進み、薄く嗤っていた彼女の口元を隠していた手を掴んだ。そして、そのまま立ち上がらせ、文句をぶち撒けてやろうと口を開きかけた、その時、


 ――自分を下から覗き込んでいるビー玉のような無機質なその瞳を見た。


 恵子のその恐ろしく整った顔には何の感情も浮かんでいなかった。能面のようなその顔でジッと和美を観察していた。


「ひぃっ!」


 和美は恵子の手を離して尻餅をつく。そして、後ずさる。その姿勢のまま、ズルズルと必死に恵子から距離を置こうと努める。和美が感じているのは恐怖だった。まるで、人間ではないものを見たかのような、不気味の谷を超えた時の否定的感情が発露してしまった時のような。


「ねえ、和美」

「……あ、あ……あ」


 恵子は、尻餅をついた姿勢のままの和美の前に屈み、その怯えきった顔を両掌で優しく包み込み、上向きにさせる。鼻の先がつきそうなほどの近距離でじっと彼女の瞳を覗きこむ。


「あなたは、三年生がインターハイに出れなくても、本当はそこまでショックじゃなかったの」

「そ、そんなこと、ない」

「そんなこと、あるの。だって、」


 ――あなた、男子バスケ部が潰されると聞いた時、それ以上のショックを受けたでしょう? 女子バスケ部のことなんて、忘れてしまったでしょう?


「……っ!」


 和美の心音が高く跳ね上がる。千切れそうなほどに心臓がばくばくと脈打ちはじめる。それは動揺や戸惑いなどではなかった。自分自身にも隠蔽していた自分の本音が、他人の口から暴かれた衝撃そのものだった。


「あなたはね? 自分より他人の思いを優先するような、そんないい子じゃないの。だからもう、自分を誤魔化すための自己陶酔はやめなさい。そんな自棄や偽善はやめなさい」

「わ、わたしは、そんな自己中心的な考えなんて」

「いいえ、あなたはひどく人間的だわ。その本質は利己的なもの。程度の差こそあれ、それは誰も彼も変わらないから安心していい。だから、自分を偽るのはもうやめなさい」

「い、偽ってなんか」

「いいえ、あなたはひどく独善的で利己的で強欲で――とても強い心を持っている」

「――――え?」

「あなたは、男子バスケ部の廃部にあなたと宮原くんの未来を見てしまったのね。だから女子バスケ部のこと以上にショックを受けたの。さらに、そこにあなたは宮原くんとの過去も見てしまった」

「あ」

「かつて宮原くんという存在を知った時、憔悴していた自分の仲間たちのことすら放り出して、彼のところへ駆けつけたくらいだもの」


 和美の顔が一瞬で青褪めた。和美の顔を包んでいる恵子の手のひらに、微かな震えが伝わる。手触りが徐々に冷たくなっていく。

 恵子は近距離で見つめ合っていたその顔を離した。そして、和美を優しく抱擁すると、彼女の背中をゆっくりと上から下へと撫で付ける。


「あなたに殻が出来てしまったのは中学生の時かしらね。辛い三年間だったんでしょう。たった一度、自分の想いを貫いた結果が、あなたの孤立に繋がってしまったから」

「……あ」

「だからこの高校に来てからはその性質を変えようとした。あなたが入学してからしばらく内向的だったのは、周りがそう認識していたのは、そのせいなのね」

「……あ、あ」


 恵子は、和美の背中を優しく撫で続ける。


「ようやく迎合できて、周りも認めてくれた。あなた本来の屈託ない明るい性格も戻ってきた。頑張ったのね。そして、今の居場所が出来た――女子バスケ部はとても居心地がいいのでしょう? 失いたくないのでしょう?」

「……あ、あ、あ」


 恵子の腕の中で、和美の震えが大きくなる。


「わ、わたし」

「うん」

「ちゅ、中学の時、わ、わたし、何度も、何度も皆に謝ったんです。せ、説明したんです」

「うん」

「じ、自分の気持ちを、自分の想いを、先輩たちを、蔑ろにしたわけじゃ、ないってことを」

「うん」

「でも、みんな、わたしのこと無視、して。いつの間にか、校内にも、その話が広がって、いて」

「うん」

「友達だった、子も、クラスの、みんなも、わたしのこと、び、ビッチとか、お、男好きとか、言って」

「うん」

「部活の時も、誰も組んでくれなく、て。パスだって誰もくれなく、て」

「うん」

「だから、連携なんて、できないし。監督も、そんなわたしなんか、試合に使ってくれるはずもない、し」

「うん」

「ずっと、ずっと一人で頑張ってきたんです。陰口言われても、無視されても、試合に出れなくても、絶対辞めるもんか、負けるもんかって」


 恵子の腕の中で、和美が嗚咽を漏らす。


「あなたは、頑張ったわ。とても、とても頑張った」

「頑張ったんです。ずっと頑張ってきたんです……! たった一人の人だけを、ずっと想って、頑張ってきたんです!」

「そうよ。だからあなたは報われていい」

「いいんです、か」

「いいのよ。もう、あなたは自分の想いを我慢しなくても、貫いてもいいの。今度は一人じゃない。今のあなたには居場所がある。友達が、仲間が、そして――私がいる。だからね、今は女子バスケ部より、あなたの気持ちを、宮原くんへの想いを優先させなさい」

「……恵子、先輩」


 自分の過去を認めてくれて、自分の過去を褒めてくれた。

 自分を認めてくれて、自分を褒めてくれた。

 だからこそ、

 和美はそれがただの論理のすり替えだとは、決して気付かない。

 恵子が和美に、本当は何を誤魔化したのか、何を有耶無耶にしたのか、決して気付けない。


「だから、ね」


 恵子は和美に微笑みを向けた。女神が天に(いざな)うように慈愛深く、そして最後の契約を迫る悪魔のように蠱惑的に。


「利用しましょう」

「え?」

「今の状況を、バスケ部にとってのこの大変な状況を、有意義に使いましょう」

「……え?」


 ――宮原くんがもう一度あなたの元へ戻ってくるために、ね。


 まるで呪詛を聞いた時のように、和美の表情が痙攣するようにひび割れていった。

 それは、天使が堕天した瞬間だった。

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