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校門前の彼女  作者: 平原みどり
第二章
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第四話

 い草の匂いがまだほんのりと香る畳に、ゴロンと転がった。両手を大きく広げ仰向けになる。二階の床板はなく梁が剥き出しになっており、煤けた屋根裏が視界に映る。この離れには、以前は囲炉裏があったそうだ。その造りの名残が、家屋の歴史を感じさせている。

 居候をしている竜也に充てがわれたこの部屋は古色蒼然としてはいたが、新しく張り替えられた畳と隅まで綺麗に清掃されているせいか、埃っぽさは一切なく、むしろ快適に過ごすことが出来ている。

 竜也はこういった昔ながらの家屋を愛好しており、この部屋で高校三年間を過ごすことが決まった時には、それまでどんよりとしていた心境が若干晴れた気がしたものだった。


 陽大と竜也、二人の付き合いはもう六年になる。


 二人共、高校二年であることを考えると、人生の約三分の一、それなりに長い。

 竜也からすれば、二人の間で密度の濃い時間を共有してきており、深くつながっていることを自覚していたが、こうして今この場所にいる自分を鑑みると少し不思議な感覚にとらわれる。


 陽大が東京から、祖父母のいるここ静岡に転校先を決めた時、学校を去る事情を知っており今後のことを想定していた竜也は、迷うことなく陽大に追従した。

 竜也の両親は、この訳の分からない他県への転校に、当然のように難色を示す。東京の中高一貫校に通学していたにもかかわらず、しかも理由も一切言わず、縁もゆかりもないこの地に転校すると言うのだから。

 しかし、説得、恫喝、哀願、懇願――どのような手段にも決して折れない不退転の決意に、とうとう竜也の両親が折れた。静岡県にいる陽大の祖父母の実家に下宿し、迷惑をかけないことを前提に許可が下されたのである。

 東京にいる陽大の両親と竜也の両親が仲がよく、陽大自身が信頼に足る人物だったことも一助になっていたのであろう。

 竜也にとっては初めての土地に最初は若干の戸惑いもあったが、親友とその家族という集合の中は大変心地よく、すぐに順応した。元来、温和で腹をたてることも滅多にない、誰からも好かれるような性格の竜也である。高校に入学してからも、新しい友人たちにも囲まれ、頼りにされ、それなりに充実した学生生活を送ることができてはいた。


 竜也は汗を流した後、いつもこうして一人、今日という一日を振り返りながら就寝する。

 瞳を、閉じた。


 竜也は白川和美のことを思い出していた。

 件のトラブルがあってから、毎日のように下駄箱で陽大のことを待っている白川和美。陽大に執心しているように見えて、彼に「これを受け取って下さい」とただバスケットボールを差し出すだけで、他には何もしない白川和美。

 その不思議な行動をする彼女のことを――竜也はここ静岡に来る前から、既に知っていた。




 竜也がこの光風高校に入ってから初めて和美と出会ったのは、いつものようにバスケ部に手助けと称して顔を出した帰りに、不意に声をかけられたことが切欠だった。そして、それは竜也にとっての邂逅だった。


「小林さん、ですよね」

「うん?」


 声をかけられたその時に初めて、竜也ははっきりと彼女のことを認識することができた。

 新入生として入ってきた――女子バスケットバール部の新人として入ってきた彼女のことを、声をかけられるまでは全くわからなかった。二つに結いた髪をいつもピョコピョコと跳ねさせている、その小顔に収まる大きな猫目が印象的な、とても愛らしい後輩の女の子としか見ていなかった。


「わたし、白川、と言います。今年、女バスに新人として入部しました」

「おう、知っているよ。白川和美ちゃんだよな。結構やるじゃん。スキルもスピードもあるし、何より視野が広くて判断が早い。ちゃんと考えてプレイしてるのが分かったよ」

「あ、わたしのプレイ見てくれていたんですか。嬉しい。わたしも小林さんのこと見てました。相変わらず、力強くて柔らかなプレイスタイルですね」


 唇を綻ばせるその彼女の様相に、竜也も同じように微笑み、笑窪をつくる。


「俺のこと、やっぱり気付いてたか」

「京南学院にいた小林竜也さん、ですよね」

「ああ。君は、あの『寝癖ちゃん』だろ」


 その言葉に、彼女が一瞬で沸騰する。顔が真っ赤になる。


「や、やめてくださいよ。その名前で呼ぶの」

「うはは、和美ちゃんは京南学院ではちょっとした有名人だったからな。覚えてるよ。ただ、随分と可愛らしくなったから初めは分からなかった」

「か、可愛らしくって、も、もう」


 中学二年の時の全中決勝戦で、京南学院のベンチに駆けてきた少女。

 その時のインパクトと、それ以降、試合がある毎に、かなりの割合で観客席でその顔を見ることが出来たこと。京南学院男子バスケ部では、いつも寝癖で髪がボサボサのその少女のことが度々話題にのぼった。

 『あの子、いつも来てるよな』『主将のこと見に来てんだろ?』『まあ、ファンになっちまうのは分かる』『でもあの子、それだけじゃないよ。俺達のバスケを真剣に見てる。戦術を分析してる』部員の口に上るものには、好意的なものが多かった。

 当時、ジュニアバスケの世界では超がつくほどの有名人だった宮原陽大をはじめとする三人には、他にも男子女子問わず取り巻きともいえるミーハーなファンがいた。しかし、地方から東京へと試合を見るためだけに遠征するような、観客席でいつもノートを広げスタッツをつけ、戦術を分析しているような彼女ほど真剣なファンはいなかった。

 だからこそ、竜也は彼女のことが記憶に残っていたのだ。


「そ、それでですね。あ、あの」


 途端、吃り挙動不審になった和美に、竜也は片眉を釣り上げる。


「陽大のこと、だろう」

「あっ!」

「まあ、な。聞きたかったことは、それしかない、か」

「……は、はい」


 どうしたものかと、竜也は沈思する。だが、宮原陽大が高校バスケットボール界にいないこと、その原因、その真相に関しては竜也は口が裂けても言えない。


「あいつが、今はバスケをやってないのは知ってるだろ。いや、実際はちょっと違うんだけどな。ただ、もう高校では……公式の場には出ない、のかもしれねえな」


 迂遠に発したその言葉の衝撃に、和美の時間が止まっていた。口をぽかんと開けたまま、目を最大限に見開く。


「……え? なんで、ですか」

「いや、まあ、ちょっと事情があってな」

「だ、だって、け、怪我とかしてないですよね。あれほどの選手がもう公式の場には出ないって、どういうことですか!?」


 竜也は困ったように笑い――それ以上、そのことに関しては口を開かないことを堅固にする。宮原陽大はもう高校バスケには関わらない、それだけしか伝えるべき言葉がないからだ。


「東京から静岡のこの高校に来たことと、何か関係があるんですか!? ねえ、小林さん! 教えて下さい! 何で京南学院のあの三人のうちの二人が、この高校に来たんですかっ!?」

「俺は、陽大についてきたんだ。今のあいつを一人には出来なかった。それに、俺はあいつのバスケに惚れてるからな。あいつと一緒じゃなけりゃ、俺、だって、よ」

「こばやし、さん」


 竜也のそのどこにも行き場がない苦痛に満ちた表情を見てしまったのか――和美はそれ以上追求することをやめていた。

 暫くの間、二人の間に沈黙が降りる。


「……宮原さん。いつも校門前で……待ち合わせしてますよね」

「……ああ」

()()()、本当に宮原さんなんですか」

「それは、どういう」

「だって、あの人は、まったくの別人にしか見えない。何か、実体が掴めないっていうか、虚ろっていうか……あの快活だった、優しい顔をしていた、輝いていた、あの宮原さんじゃ、ない」


 そうだな、と声に出さずに、唇だけを震わせる。


「それに……」


 そこで和美は言い淀む。その先の口にしてはいけない禁句を扱うかのように、それは彼女の中で葛藤を生んでいるようだった。

 竜也はその言い淀んだ言葉の先の想像がついていた。だが、その先――その核心は、竜也にとっての本当の禁句だった。


「……あの、校門前の、彼女。だって、あの人は」

「和美ちゃん。俺、そろそろ行くわ。また、なんかあったら気軽に声かけてくれよな」


 その言葉を遮って、竜也はそのまま背を向けた。

 彼女は気付いている。白川和美は、校門前の彼女が一体誰なのか、知っている。

 それはそうだろう。陽大を、彼のプレイを、彼を取り巻く人間を、ずっと彼女は見てきていたのだから。その中でも、彼女の琴線――憧憬だった想いからされに昇華されたその感情は、彼の隣にずっといた彼女のことを決して見逃すはずはないのだから。




 東京でバスケをしていた俺達がこの高校に入ったことで、あの子、白川和美とここで再会したのは、おそらく、まったくの偶然だ。


 運命的なもんだな、とボソリと呟く。

 和美にとってはまさしく運命的だっただろう――が、その運命の輪はおかしな方向へと廻り始めた。本来なら、もっと感動的な、それこそ導かれ合うような再会になっていたはず。


 そう言えば、あいつ。


 なぜ、彼女のことが()()()()()()()のだろう? だって、当時、彼が一番彼女のこと――白川和美という存在のことを気にかけていたのではなかったか。


『お前さ』

『うん?』

『……白川和美、あの子のこと本当に分からないのか?」


 そこで何を聞かれているのかすらまるで分からない、そんな表情をしていた。


 竜也の背筋に冷たいものが走る。

 そんなはずは、ない。

 たとえ彼女の名前を知らなくても、外見が小綺麗に可愛らしく変化していたとしても。


 あいつは絶対に間違わない。気付かなければ、おかしい。


 その背中を走る悪寒に耐え切れず、上半身を起こし、自身の体を抱き締める。部屋は若干汗ばむような温度にも関わらず、先程から寒気が止まらない。

 竜也には一つ、それに関して思い当たることがあった。

 それは陽大と共にいた六年間の中で一度だけ垣間見た、彼を捉えた呪縛――その、狂気。


 切り離しちまったんだ、あいつは。当時のあの子のことを――自分の世界から。


 それによって歪み始める世界の輪郭など彼は一切気にしない。

 彼はその世界が壊れようとも、何の感慨も抱かない。

 そして、彼は二度とその世界には戻らない。


 馬鹿野郎っ。それだけはやっちゃいけなかった。彼女は、和美ちゃんは、そういう存在じゃなかっただろう……!


 竜也は()()を一人で抱える。

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