第三話
仄暗い、薄暗い街灯近くの壁に備え付けられてるバスケットゴール。
大分、風化してきており、長い年月風雨に晒されていたことが見て取れる。ネットは既になく、錆つき鈍色のリングがポツンと空中に浮かんでいた。
先程から、そのリングを一定のリズムでボールが通過している。リングに当たることなく、通過したボールがそのまま地面に弾む音だけが響いている。弾む音も繰り返し繰り返し一定のリズムを刻んでいる。
その跳ねたボールを――大きな手が掴んだ。
「いい精度だな」
「……竜也」
竜也はそのまま片手でバスケットボールを宮原陽大の胸元へ投げつける。ボールを受け取り、素早くリリース。先程と同様に、音もなくリングを通過した。
「こうやって、毎朝毎晩、シューティングするのも、毎朝毎晩、走りこみをするのも、またあのコートに、」
「竜也」
「……ただの日課、だったな」
「そうだよ、ただの日課だ。僕は健康には気を使う方なんだ」
竜也が口の中で「馬鹿野郎が」と丸めた言葉は陽大に聞こえていたのだろうが、彼はあえて無視しているようだった。
「竜也もやるだろう?」
陽大がリング側に高く放り上げたボールを、竜也はそのまま空中でつかみリングに叩き込んだ。
「そのリング壊すなよ。脆いんだから」
「やっぱり、お前のパスはいいな。お前の……パスで、ゴールを、」
竜也はそこで口を閉ざす。震える口調を誤魔化すために、剛気にガハハと笑い陽大に振り返る。
「あれから一週間経ったけどよ。和美ちゃんの攻撃はまだ収まんないのか?」
「……ああ」
陽大はうんざりした顔で首肯した。
「毎日のようにバスケットボールを持ってきてるよ。『これ受け取ってください』と。ただ、教室に来るわけでもないし、梨々花のいる校門前に来ることもない。帰りの下駄箱でほんの僅かの時間関わっているだけだ。それ以外、何もしてこない。実害も特にないし、何かの現象だと自分を納得させてるよ」
「あれ、すげぇよな。はじめは怖かったけどよ。今ではもう、あの子を座敷童みたいな感じで捉えてるわ」
竜也と陽大は顔を見合わせて、お互い苦笑する。
しばらく笑い合った後、
「ああやって、バスケのことを思い出させたいのかね」
「何回来ても、幾ら言っても僕はあのボールを受け取ることはないよ」
竜也は陽大の細めた瞳を伺う。あの時の陽大は、何かを沈思している時だと分かっている。陽大はあの和美のパフォーマンス、行動に一体何の意味があるのかを考えているのだろう。ただ現象のように、同じ行動をとっているだけで終わるはずがないとも思っているだろう。
「ほら、竜也」
再び陽大がパスを投げ込むと、空中で受けた竜也はそのまま身体を反転させ後ろ向きにボールをリングに叩きこんだ。その勢いでリングが揺れ、そのリングを止めていた金具が緩んだのか、その向きが斜め四十五度に曲がっていた。
「あ、馬鹿!」
「うおっ! リングがあっ!」
「直すぞ! バカ竜也っ、かがめっ」
陽大は竜也を強引に屈ませ、肩車の形で持ち上げてもらう。その後しばらく、汗を掻きながら必死に力技でリングの金具の向きを直していたが、なかなか直らないようだった。自分の肩の上で泣きそうな顔をしながら悪戦苦闘している陽大を上見て、すぐに竜也は顔を伏せる。
――やっぱ、バスケ大好きなんじゃねぇかよ。忘れられてねぇじゃねぇかよ。
こんな壊れかけのゴールを必死になって直そうとするくらい。そしていつも日課と称する練習の前に、必ずボールを始めとする備品を綺麗に整備するくらい。和美から突きつけられる、彼の大好きだったメーカーのバスケットボールを見て、毎回動揺するくらいに。
竜也は下を向いたまま、溢れてくる涙を堪える。
――なんで、こうなったんだろうな。
夢は続くはずだった。竜也と陽大、そしてかつてのチームメイト松岡茂の三人で掲げた大きい夢。全中二連覇までは順調だった。まさしく順風満帆だった。歩んできた道の両端は美しい花々に彩られ、その先も文字通り薔薇色の競技者生活が自分たちを待っているはずだった。
竜也は、こうなった理由をすべて把握している。彼がバスケを辞めた理由も、こうして彼の祖父母のいる静岡県に逃げてきた理由も、そして竜也が憧れていた陽大と梨々花、二人の関係がああなってしまった理由も。
――知ってはいる。でも理解はできないんだよ。
しばらく俯いていた竜也を怪訝に思ったのか、頭上の陽大が不審げに伺う。
「どうした。重いか」
「……ああ、また重くなりやがったな! 早く直せ!」
「まだ成長期なんだ。それにこれを壊したのは、竜也が……」
「ああ、俺が悪かったから、早くしてくれ」
言及された陽大はいそいそと、再度作業に没頭する。とりあえずの修理が完了したのはそれから十分後のことだった。お互いに違った役割で汗だくになり、壁に背を預け一息つく。
「はぁ、まったく……明日で良かったんじゃねぇか? 明るいところでやればよかったんだよ」
「そうしたら、朝の日課に響くじゃないか」
その言葉に、竜也は呆れた視線を送る。「まったく、お前は」先程買った、スポーツ飲料のボトルを陽大にポイッと放り投げて渡した。
「ありがとうな」
「別に、俺のせいだからな。奢りだ」
「いや、そうじゃなくて、だな」
「あん?」
「……僕と、一緒に来てくれて、そして側にいてくれて……ありがとう」
その陽大の消え入りそうな声を聞いて、竜也はしばらく口をポカンと開け、放心していた。彼の顔を――その少し照れ臭そうに揺れている真摯な眼差しをそのままじっと見つめていた。そして、涙腺に胸中に脳内に熱いものが湧き上がるのを自覚して、慌てて彼から顔を背ける。
「……馬鹿野郎。当たり前のことに、感謝するんじゃねぇよ」
「それでも、ありがとうな、竜也。お前は、かけがえのない親友だ」
「……馬鹿野郎」