第十話
「それ以来、あたしは、宮原さんのことが好きに――い、いえ! いえいえいえ! 宮原さんを選手として! 大好きになりました。憧れになりました」
梨々花の存在に関しては暈していたが、所々で不審で拙い喋り方になってことを感じたのか、恵子は和美を一瞬訝しげに見つめる。
ただ顔を真っ赤にして語る彼女の溢れんばかりの思慕と憧憬を感じ、恵子は微笑ましいものをみるように、慈愛をもって続きを促す。
「……その後、部のみんなから仲間外れにされちゃいました。それは当然ですよね。だって、負けた先輩たちを労うことなく、敵チームのところへ行ってリスペクトしているんですもん」
タハハ、と苦笑いし頬に手を当てる彼女は、何のことはないと強気を装っていたが、実際は辛かったのだろう。
まだ中学一年生の最下級生で、部活内の先輩たちに反駁する形となってしまったからには、肩身が狭いどころではなく、排外される対象だったのではないだろうか。
普段の学校生活ではどうだったのか、練習ではきつく当たられなかったのか、試合には出してもらえていたのだろうか。
恵子は一瞬そう考え――すぐに理解する。
入学した鹿尾の和美を思い返せば、それは自明だったから。
彼女がそれでも部活動を続けていたのは、ひとえに宮原陽大、彼の背中があったからなのだろう。
その環境が、その想いが、現在のバスケットボールプレイヤーとしての白川和美を作り上げたのかもしれない。
「宮原さんたちは、あの時、彗星のように現れたんです。あれだけの実力があったのなら、本来ならジュニアユースなんかで知られていてもおかしくはないんですけど、ね」
けれど、今まで何故か水面下にいた彼らは、とうとう世界に現出し光り輝く道を進み始める。
和美はもはや、その道を辿り、彼を追い続けることしか頭になかったに違いない。
「中学時代には、何度も東京に足を運びましたよ。東京都大会とか色々と。お小遣いが足りなかったから、いつでもってわけではなかったですけどね。それでも、宮原さんのプレイを見ることが何よりの楽しみでした。宮原さん達が主力になってから、もう、ほんっとうにすごかったんですから! 大会では全戦全勝、常勝無敗! 他を寄せ付けない圧倒的な強さで全中を二連覇しました。しかも宮原さん自身は、中学生にも関わらずU-16日本代表メンバーにも選出されてるんです!」
当時のことを思い出したのか、呆と夢見るように宙空を見つめている。
恵子は実感する。これは思慕や憧憬の念だけではなく、もはや崇拝の域に達してるのだと。だからこそ、ふと疑念が湧き上がる。
「あなた、ひょっとして宮原くんたちがこの光風にいることを知っていた?」
和美の熱を持った瞳が、一瞬、凍えたように見えた。
「……いえ、知りませんでした。私がここに入ったのは女バスが強くて全国を狙えるからでしたし、まさか東京にいるはずの先輩たちがここにいるなんて――思いもしませんでした。本当は――全国で宮原さんと再会したかったんです」
「そうなの、ね」
「それに、私は宮原さんたちは未だ京南学院にいると思っていたんです。でも、本当は随分前からおかしいことに気付いてました。あの京南学院の三人が、昨年度の高校三大大会に出ていなかった。それに、あれだけ勇名を馳せていた宮原さんの名前が、高校男子バスケ界では一切聞こえてこなかったから」
「和美、あなたはそんな憧れの人に――宮原くんに会いに行こうとは思わなかったの?」
「……約束……から」
「なに?」
「……何でも、ありません」
言葉を丸め誤魔化した和美は、何らかの情景が思い浮かんだのか、ほんのり頬を朱に染める。
彼に会いに行けない事情――彼女だけの秘め事がある。そして『全国で宮原さんと再会したかった』と彼女は言った。
だからこそ華麗に高校バスケデビューを果たした和美は、今年こそ陽大とコート上で逢えるかも知れないと意気込み、期待に胸を膨らませていたのかも知れない。
「私が入学した時、宮原さんのことは全然分かりませんでした。バスケ部にもいませんでしたし、学年が違うのでそもそも接点がありません。ただ、校門前の逢瀬……宮原さんはある意味有名人でした。でもその姿を見ても、その名前を聞いても、私は気がつかなかったんです。中学の時のイメージ……そうですね、印象がまったく違っていましたから」
「宮原くんのこと、いつ気が付いたの?」
「うちの監督が、その有名人の彼に執拗に話しかけているのを、校舎内やグラウンドで何度も目撃しました。それがずっと、頭に引っかかってたんです。その疑問をバスケ部の先輩たちに聞いたら、その正体が宮原さんだと――あの宮原陽大さんだということが分かったんです」
和美の中の彼は正確に像を結ばなかった。
和美が思い焦がれていた彼はそこにはいなかった。
「当然、バスケ部の監督は彼の存在に気付いていた。彼の名前や経歴は入学が決まった時から、すぐに分かったでしょうから。ずっとアプローチを続けていたのかもしれないわね。そんなすごい選手が入学してきたのだから、何としても彼を勧誘したかったでしょう」恵子は嘆息する。「でも、宮原くんは入部しなかった」
「そう、だったみたいです。女子バスケ部に入部してから聞いた話ですが、昨年は男子バスケ部内でも、その関係で色々あったみたいです。それこそ、今の男子バスケ部があんな状態になるくらいに……あ、どうでもいいですよね、そんなことは」
恵子は軽く首を振る。
彼女もそのことについては知っていた。当時の男子バスケ部三年が引退した後、二年の部員も何故か全員が一斉に退部。当該部が機能不全に陥ったことは校内を大分賑わせたからだ。当時のことを思い返すが、彼とは別のクラスだったということもあり、その辺りの事情は分からなかった。ただ、結果としてどうなったかを知っていただけだった。
そこで恵子は何かに気付く。
当然、関係のない恵子にはその原因は分からなかったし、知ろうとも思っていなかったのだが――
和美の漏らした一言で、それが今、繋がりそうだった。
「決定的だったのは、小林さんがバスケ部の練習に顔を出した時です。小林さんも宮原さんと同じ超中学生級のプレイヤーで有名人でしたから。そんな二人が大抵一緒にいるんです」
「小林、竜也くん、だったかしら」
「はい。宮原さんと同じチームの相棒的な存在でした。勿論、それに見合う折り紙つきの実力者です。宮原さんと同じU-16日本代表メンバーにも選出されています」
本来なら各世代の優秀な選手を集め、一貫して将来の日本代表選手に育成しようとするジュニアユースの為のキャンプが開催され、主に中学生U-13からU-15までが選抜される。しかし彼らは中学時代には飛び級で、高校生に混ざりU-16日本代表メンバーとして活躍していたいう。
「話が逸れちゃいましたね。それで、宮原さんたちがこの光風にいることが分かって、今、必死になっているところです」
困ったように笑う和美を、恵子は優しく抱き締めた。恵子の腕の中で、和美の身体が微かに震えているのがわかった。
そんな身体が震えるほどの再開だったのだろう。そんな心が震えるほどの想いだったのだろう。
その想いに感応するように、恵子の瞳に仄暗い光が宿る。
「ねえ、和美」
「……は、はい」
恵子は和美の顔を両掌で包み込み、顔を上向きにさせる。鼻の先がつきそうなほどの近距離でじっと彼女の瞳を覗きこむ。
「あなたは、何がしたいの?」
「……え?」
「あなたは、彼に踏み込みたいのよね?」
「は、はい。もう一度、バスケをやって欲しいんです。また、宮原さんのプレイを見たいんです」
「それだけ?」
顔にかかる和美の吐息を気にすることなく、変わらぬ距離で恵子は彼女の瞳を離さない。素直になれない彼女を責め立てるように――恵子は彼女の瞳を囚え続ける。
「……わ、わたしの」
「わたしの……なに?」
和美がゴクリと喉を鳴らした。
「わたしのことを……知って欲しい」
――今のわたしがあるのは宮原さんのおかげなんです。和美が吐露したのは、そんな真剣で深淵な想いだった。
彼にずっと励まされ続けていたこと。
彼をずっと尊敬し続けていたこと。
彼にずっと憧れ続けていたこと。
彼をずっと追いかけ続けていたこと。
そして――
彼をずっと愛し続けていたことを知ってほしい。
恵子の胸の中で優しく髪を撫でられながら、まるで彼がそこにいるように和美は気持ちを伝えていく。彼のどんな表情が好きか、彼のどんな仕草が好きか、彼のどんな物言いが好きか――バスケをしていない『彼』を語るその呟くような声が、段々と熱を帯び始めてくる。
「和美が大好きな宮原くんは、とても素敵な人なのね。そして、あなたにとってもとても大切な人。そのあなたの想いは痛いほどに伝わってくる。そして、私に話してくれたその想いを、どんな形であれ彼に伝えたいのね」
恵子の優しく包容するような話し方に、和美は肩の力を軽く抜き、ふぅと息を吐いた。相談事というものは、得てして相談者が最初から答えを持っている。相談される側は、相談の意図や質問の方向性を見抜き、それを肯定し導くことを求められる。
少なくとも恵子は、それを自覚していた。
たとえ相手がヒートアップしても、常に冷静に神妙に相手の出方を窺っている。そして煽るでもなく、恫喝するでもなく、平坦に和美を自己開示させていく。
「……でも、今の宮原さんには伝えられないです。わたしの、わたしの知っている宮原さんじゃなくなってしまった、から」
「それはあなたの穿った、一人よがりの見方ではないの? それが、本当の彼の姿かも知れない。それをあなたが知らなかっただけかも知れない」
「そう、なのかな。でも、入学してから私が見た宮原さんは――中学時代とはまるで別人でした。人ってあそこまで変わることができるんですか」
誰もが心の底から信頼していた彼は、誰にも信頼されなくなっていた。
誰にでも分け隔てなく優しかった彼は、誰にも優しい面は見せなくなった。
誰よりも素敵な笑顔を向けてくれた彼は、誰にも表情に感情を見せなくなった。
「そう、彼は変わってしまったのね。本当の彼ではなくなってしまった。そして彼が変わってしまった原因は――」
胸の中の和美の震えが激しくなった。
「……矢向梨々花さん、きっと彼女が原因です」
「そう……矢向梨々花さんね。あなたがそう思う理由は聞かない。聞かないけれど……あなたはその彼女から、彼をどうしたいの?」
「私は宮原さんから色々なものを貰いました。その、お返しが、したいっ。あの人のことを……助けたいっ!」
和美が纏った雰囲気をガラリと変えると、恵子はそれを抑えるように和美を包みこむ両腕に力を込めた。興奮気味に次第に上がってくる和美の声が、恵子の身体の中で反響する。そこから先はただの繰り返し。
助けてあげたい。救ってあげたい。守ってあげたい。
扶けてあげたい。済ってあげたい。護ってあげたい。
援けてあげたい。掬ってあげたい。衛ってあげたい。
同じような口舌が幾つも幾つも恵子の耳に、身体に流れてくる。その恵子の身体から、甘く濃厚な香りが浮かび上がり、匂い立つ。同調するように、恵子はポツリと彼女の耳元にささめいた。
――ああ、あなたは彼を変えてしまった相手が、とても、とても憎いのね。
「そうです! 私は宮原さんを変えてしまったあの女が心底憎い!!」
和美が恵子の抱擁を払い除け、両拳を握り、頬を赤く染めて言及する。
和美の視線と恵子の視線が交錯した。
和美ははっとしてすぐに視線を逸らしたが、その顔はさらに赤くなり、頭の天辺から湯気が湧き立つのが幻視できるようだった。
「ねえ、和美」
「……は、はい」
恵子は、自分に現れた激情に戸惑い伏せた和美の顔を、今一度両掌で優しく包み込み、上向きにさせる。鼻の先がつきそうなほどの近距離でじっと彼女の瞳を覗きこむ。
「あなたは、何がしたいの?」
「わ、わたしは」
「私は……なに?」
恵子がゴクリと喉を鳴らす。
「私は、あの女から宮原さんを奪い取りたい」