第九話
白川和美は走っていた。
彼女は地下鉄の改札を抜けてすぐ、小豆色のジャージの前を肌蹴させ、そして走り出した。斜めがけにしている大きめのスポーツバッグが上下に揺れる。小柄な体躯の彼女にはサイズが合っておらず、まるでバッグ自体が飛び跳ねているかのようだ。
その怪バッグは雑多いる人の隙間を、勢いをそのままに駆け抜け、ぐんぐんと進んでいく。出口A4と書かれている階段を駆け上がり、やがて彼女は地上に辿り着いた。
肌を刺す強い日差しが、彼女の吐息を更に熱いものに変える。サラウンドスピーカーのように周囲から流れる蝉の声が、とても煩く、とても心地よい。
複雑に絡み合った東京の地下鉄を乗り継いで、ようやく目的地へ辿り着いた彼女は、きょろきょろと顔を左右に振ると、左前方にある一際大きい建造物を発見し、目を見張った。
口の両端を釣り上げ、その場所に向け、再び走りだす。
その建造物を隠すように覆う濃い緑が、彼女をもまた優しく隠す。木漏れ日を浴び、彼女から流れる汗がキラキラと輝いていた。
東都体育館は、国際的な競技フロアである。
西エントランスから階段を登り上階へ上がることができ、南北二つのロビーに分かれている。その南北口から入場するとメインアリーナの観覧席が目に飛び込んでくる。固定席は六千席もあり、天井の高さと相俟って広大な空間を演出している。
このアリーナでは年間を通じ、様々なスポーツ種目の国際大会や全国大会を開催していることで有名だ。今夏もまた、多くのスポーツの熱い戦いを内包していた。
彼女が目指すのは、まさにその熱戦の場。
八月も終わりに近づいているが、まだまだ残暑は厳しい。その暑さの中、息せき切って飛び込んだその場所では、『全国中学校バスケットボール大会』決勝戦が行われていた。
彼女は、地元静岡県富士市から東海道新幹線に乗り、生まれて初めて東京へと赴いている。
行き先は、この東都体育館。彼女の通う市立吉野中学校バスケットボール部の応援に向かうためだった。
公立であるその中学校は静岡県ではバスケットボールの古豪として勇名を馳せており、全国大会の常連校であるのだが、東海地区代表校として出場はするものの毎回予選リーグでは敗退。
しかし、今回は初めて予選リーグを突破し、さらには決勝リーグを余力を残して突破している。準決勝も順当にクリアし、とうとう決勝戦を迎えるに至っていた。
「はぁ、はぁ……間に合い、ました、か」
自校の応援席へとようやく辿り着き、息も絶え絶えに、必死の形相で尋ねる。
「え、ええ。丁度、開始十五分前よ。それより、今日の応援は家族と女バスの二、三年だけだったのに……よく来る気になったね。お金だってかかるでしょうに」
「こんな最高の舞台で、先輩たちの格好いいバスケを見られるんですもん! お小遣いはたいてでも来る価値はありますよ。ただ、宿泊費まではちょっと厳しかったんで、前日の予選リーグは応援に来れませんでしたけど……えへへ」
「まったく、あんたはホント、バスケ馬鹿って言うか……それより、一回化粧室行ってきたら? すごい格好だから……それに何で制服じゃなくてジャージなのよ」
和美の尋ねた――彼女の二つ上の先輩である佐々木ゆう子が困ったような、呆れたような目をして苦笑いしていた。
見れば、和美の様相はひどいものだった。
ショートヘアにもかかわらず寝ぐせがつき四方に跳ねている髪。走り回ったせいで、それがさらにひどく乱れている。さらにヨレヨレの小豆色のジャージ上下に、汗で張り付いた白のTシャツ。汗でしっかりと吸着しているせいで、薄ピンク色のスポーツブラが透けて見えている。
「ほら、前隠しなさい。仮にも女の子なんだから」
投げ渡されたタオルを受け取りしばらく小首をかしげていたが、彼女は自分の胸元を見ると「うへっ」と慌てて両腕で覆った。顔が完熟トマトのように真っ赤になる。
「そ、それより、先輩たちは」
ゆう子の隣の席が空いているのを確認し、そこに腰を下ろすと、和美は視線を前に向けたまま尋ねる。
「準決勝は余裕ね。スコアは70対48。控えメンバも結構回してたから、体力的には問題ないと思うけど」
「そうですか、何せ初めての決勝リーグ突破ですからね。さすが吉野中男子バスケ部過去最強と言われてるだけあります!」
鼻息をふんっと荒くして、興奮気味に拳を握りしめる。
「わたしたち女バスは、残念ながら全中には出れなかったけどさ。あいつらの応援しっかりして、わたしたちの分まで頑張って優勝してもらおうよ」
「はい、勿論です! あの先輩たちが負けるはずありません」
一列に並んでいる、市立吉野中学校女子バスケ部一同は、期待を込めた目でメインアリーナを見守る。目前に映る、同校の男子バスケ部生徒がとても頼もしく映っている。彼女たちの心意気と同期したかのように自信に満ち溢れており、負ける気は微塵もないようだった。
「そういえば、相手はどこになったんです」
「関東ブロック代表の私立京南学院みたいね。えーっと、予選リーグは一位通過、決勝リーグは、結構ギリギリ。私たちと同じ東海ブロックの開星館に50対46。うちは66対41だから――スコアだけ比較すれば、順当に勝てそうではある」
全国中学校バスケットボール大会予選リーグは、各出場校を全国ブロック毎に分け、それぞれのブロックが被らないように配置される。
和美たちの市立吉野と、私立開星館は同じ東海ブロックにあたり、市立吉野はブロック代表を決める際に同中学校と対戦しており、そこでは圧倒的なスコアで下していた。
「これは、ますます栄冠が近づいた感じがしますね。えへへ」
奇妙な声と共に、にやりとする和美の表情を見た女子バスケ部全員の表情にも、同じような安堵感が広がる。
だが、対戦には絶対的強者というものがいる反面、実力が一定水準以上のチーム同士では相性というものが存在する。また、その水準の対戦では戦術、戦略というものが関わってくるため、過去の相対成績だけでは一概にチームの比較、強弱はつけがたい。
それでも、尚、市立吉野の男子バスケ部、そしてそれを応援する女子バスケ部は、安穏な雰囲気に包まれていた。
「第二クオーター終わって、32対8! えーっと、トリプル、違う、クアドラプルスコアですっ!」
「まだ安心できないけど、もう決まった、かな」
和美が歓声を上げ、ゆう子がその勝利を確信し始めている。
「向こうは、メンバーチェンジするみたいよ。背番号から言って二年生かしら。三人も出してくるか。これは消化試合かもね」
京南学院のベンチは慌ただしい。スコア的には二回り以上離されているにも関わらず、主力であるレギュラーメンバー三年生五人のうち、三人を交代。それも二年生とだ。和美はブックを読み、その二年生たちが初出場だと知る。
「もう今後に向けての育成なんですかね。わたし、こういうのはあまり好きじゃありません。最後まで、ずっと戦ってきた三年生にやらせるのが筋じゃないですか」
「ほらさ、京南って言えば、東京のバスケ名門で中高一貫だから。今後に向けて考えるさね」
「はぁ、そういうものですか。うちはそういう習慣ないから、よくわからないです」
首を左右にふるふると振り、納得できないというようにため息をつく。
和美のポリシーは、勝てなくとも最後まで正々堂々と全力で挑み、力の限りを尽くすことだった。
だからこそ、目の前の京南学院が後半戦が残っているにもかかわらず、今後のためとはいえ、その燃焼する機会を奪ってしまうチーム事情に憤慨していた。まだ充分に挽回できる得点差なのだ、まだ、全力で挑み続けられる時間帯なのだ、と。
だが、それはすぐに、とても的外れな想像で――とても残酷な現実であることを理解することになる。
「京南学院の期待の新人さんってところですかね。えーと、このメンバー表では……うわっ、身長高い! 15番小林竜也、Cで190cm!? わー、中二で190って! 私152なのにっ」
少し恨みがましい目で階下を見やると、当該人物が動的ストレッチを行っていた。
中学生らしからぬ身長に驚き、さらにその体格の良さに目を瞠る。
「あとは、SGも変わったわ。14番、松岡茂、173cmか――え、PGも変わるの!? 13番、宮原陽大、182cm。ガードにしては大きい。PG/Fかしら。うちのPGとはミスマッチだけど、まぁ、平気、か?」
ゆう子が唇を尖らせて、むぅ、と唸る。
和美はその言葉を聞き、どこか嫌な予感が脳裏を横切る。しかし払拭するように開き直り、言い募る。
「でも、一番、二番、五番の主戦力が全員代わって、うまくいくはずないですよ。だって、彼ら初出場なんですよ。なんの問題もありません」
再び、拳を握りしめ憤慨する和美に合わせて、皆も盛り上がってゆく。
ムードメーカーが鼓舞するときには必然、全体もまた盛況になっていくのだ。
そして――運命の第三クオーターが始まった。
「……ふざ、けんな、よ」
和美には、隣で呟くゆう子の汚い言葉は耳に入っていない。
眼前の光景に、ただただ魂を抜かれたように口をだらしなく開け、刮目している。
第三クオーターが始まった後、状況は一変してしまっていた。
「なんで控えの二年の方が強いのよ! 反則じゃん……こんなの」
必死に堪えているのだろう。ゆう子の声は嗚咽で、ひどく震えたものになっていた。
目の前で信じがたいものが展開されている。京南学院がメンバーチェンジした後、32対8の四倍離れていたスコアは、第三クオーターで34対34の同点にされていた。そして第四クオーター残り三分となった現在、スコアは36対58。一方的な展開になっていた。
その怒涛の逆転劇の中心は、代わって入ってきた二年生三人。
筋骨隆々の大きな身体で、制空権を完全に掌握している小林竜也。
リバウンドにポストプレイにと、その恵まれた体格を遺憾なく発揮させている。市立吉野のゴール下が弱いわけでは断じてない。この決勝戦までの戦いでは、185cmのCを筆頭に182cmのPF、180cmのSF、フロントラインでは圧倒的な高さと強さを誇っていたのである。
「何なのよ、あのセンター……あの身長なのに何であんなに高く飛べるの……まだ中二なのに、あの身体能力ってどういうことなの」
呻くゆう子を尻目に、彼はまたリバウンドをもぎ取っている。
「あのシューティングガードもすごいです……さっきからシュート落としてません。それにモーションが早すぎます」
スリーポイントラインからボールをリリースする松岡茂。
美麗な弧を描いたボールがそのままリングにかすりもせずに、ネットを揺らした。マンツーマンでついている市立吉野の選手が必死に手を伸ばすが、そのクイックモーションにまったくついていけていない。
「でも……一番異常なのは、彼よ。ポイントガード、宮原、陽大」
先程から、会場が静寂に包まれる瞬間がある。宮原陽大にボールが渡った時だ。
今、まさに会場が彼一人に注目していた。
ダム、と強くボールを床に弾ませ、彼が前方を向く。
相対するディフェンスが必死に腰を落とし、彼の進路を阻もうとしている。
だが彼が一瞬視線のフェイクを入れた後、そのディフェンスはそのまま体を硬直させることになる。
圧倒的な速さのクロスオーバー。
182cmの体がそのスピードでディフェンスを透過したかのように錯覚させる。
そのままペイントエリアにペネトレイトしていく。吉野中学のフロントライン三人が彼を食い止めようと必死に手を伸ばす。
そして、彼の手にあったボールが――消えた。
認識できないような速さと正確さで、フリーになっていたSGの松岡のもとに、いつの間にかボールが収まっていた。彼はそのまま余裕をもって、ボールをリリースする。パッ、という乾いた音とともに更に点差が開いていた。
静寂に包まれていた会場がその瞬間、歓声と喝采で異様な盛り上がりを見せる。
「……スピードもテクニックも、中学レベルじゃないわ……上手すぎる」
周りの慟哭の中、和美だけは違った想いを抱いていた。
確かに、ドリブルもパスもシュートも、恐ろしく高いレベルで纏まっている。彼女の先輩たちの誰もが対応できないのは間違いない。
でも、そんな瑣末なことよりも、彼女が一番恐ろしいと感じたのは、
あの、ゲームデザイン。
彼――宮原陽大はコート上すべての動きを把握しているようにしか見えなかった。
相手ディフェンスの動き、彼に合わせて動く周りのメンバー、パスの流れ。ただのナンバープレイではない。俯瞰して、ゴールへ至る最適解を最速で算出し、ディフェンスの裏、相手の心理の裡を取るように、自身の動きを以って指示を出している。
故に、彼の仲間は誘導され、当たり前のようにフリーの状態でシュートを放つ。
彼のドリブル、彼のパス一本で、ディフェンス全体が崩されている。
すごく視野が広いんだ。それに判断がものすごく早い。
今のはどうやったの……なんであんなところにパスが出せるの。
あ、今度は自分で! スリーポイントまで打てるんだ。
和美の瞳孔が一点を見つめ散大していく。
周囲の慟哭も叫声もすべてシャットアウトして、宮原陽大の一挙手一投足に執心していた。
頬が熱くなり、胸が高鳴る。瞳が潤み、身体が小刻みに震える。
ああ、これが本当にすごいものを目の当たりにした時の感覚なんだ。
打ち震える躰を両腕で抱きしめ、溢れる思いを抑える。
和美の人生で――人生とも呼べない13年の中で――それでも、感動したことは少なくない。もともと喜怒哀楽が顕著だと言われている和美だ。その情動の中でも、物事を素直に受け止め自分の中に落とし、真っ直ぐに感動する力は他人より秀でている。
それでも――この瞬間の感動は――彼女の人生の中で初めてのものだった。
和美の目指すバスケットスタイルがそこにはあった。
和美が憧れる人物がそこにはいた。
和美がずっと追いかけ続けたいと思った背中がそこにはあった。
彼女の身体が熱く火照っている。
熱に侵されたように頬が紅潮し、瞳が潤む。
もう既に、この時には和美は恋に落ちていた。
憧れの英雄を目の当たりにした彼女は、宮原陽大の信奉者になっていた。
和美の身体がぶるりと打ち震える。
目下の光景を、両手を組み、祈るような姿勢で目に焼き付けていた――宮原陽大のプレイの一つ一つを焼き付けていた。
ゲームが終了し、コートの中央でお互いが礼を交わし合う。
終わってみれば、結果は36対72。圧倒的な大差をもって、京南学院が勝利をもぎ取っていた。
市立吉野の選手たちは呆然としたまま、誰一人として声を発することなくベンチへと幽鬼のように歩んでいく。彼らを下した京南学院の面々は互いにハイタッチをしあい、ゲームを逆転させた二年生は手荒い賞賛と祝福を受けていた。
その様子を見て、ゆう子達、市立吉野の応援団はどこか諦観した表情で、椅子から一歩も動けずに居た。コートへ降りて選手たちを労おうにも、慰めようにも、なんと言って声をかけていいのか分からなかった。
そんな中、あずき色のジャージを着た小柄な影が、物凄い勢いで階段を駆け下りていく。
「ちょっと……和美!?」
和美はゆう子の声が背後から聞こえていたが、その声を無視し、そのままアリーナの一階へと駆け下りていった。
これで終わってしまう。終わってしまったら、もう二度と会えないかもしれない!
和美の瞳の中には、もはや同じ中学の男子バスケ部メンバーは映ってはいなかった。
背後にいるゆう子達は、彼女が男子バスケ部の選手の元へと駆け寄ったとばかり思っていたが、彼女の思惑はまったく異なっていた。
彼女は、悲壮感漂う表情を浮かべ肩を落としている先輩を一顧だにしない。
その反対側――京南学院中等部バスケ部へと、脱兎のごとく人の間を駆け抜けてゆく。
そして、とうとう、和美は未だ勝利を讃え合っている京南学院バスケ部ベンチへと辿り着いた。突然現れたあずき色のジャージ姿の少女に、京南学院の選手たちはきょとんとして、静まり返る。膝に手をつき、はぁはぁと呼吸を整えている目の前の少女を、不審げに見つめている。
「あ、あの、あの……っ!」
息も絶え絶えな和美の様相に、周囲からは失笑が漏れ始めていてが、彼女はそれをまったく気にせず、
「宮原、陽大さんは、いますかっ!」
大きくはっきりした声で、目的を叫ぶ。
その声に最初は驚いて目を丸くしていた目の前の――たしか、和美はその選手を小林竜也だと認識していた――大男が苦笑しつつも頷く。
「おーい、陽大。おきゃくさんー」
スポーツタオルで汗を拭っていた陽大が、顔を上げた。
その声に「なんだ」と無愛想に返すその姿を見ただけで、和美の顔がぼんっと真っ赤に変化した。 その様子を見ていた竜也が、くっくっくっと短い笑い声を漏らしているのを聞いて少し恥ずかしくなったが、それどころではなかった。
さっきまでコート上で、神業を繰り広げていた至高の選手が私の眼の前にいる! そう思っただけで、心臓ははち切れんばかりに鼓動していた。
陽大がつかつかと、彼女の目の前まで歩いてくる。
「宮原だけど。どうしたの? 何か用かな」
薄く微笑み、和美を見下ろす彼は、とても爽やかだった。
ゲーム後の汗を拭ったタオルを肩にかけ、上気した顔で尋ねる彼は、とても優しげだった。
和美はその質問に答えられず、思わず、ぽーっとその姿に見惚れてしまう。
「あの、どうしたの、かな?」
陽大の笑いが引きつり始めた頃、ようやく和美は我に返り、口をアワアワとさせる。
「あの、あの、私、吉野中学のものですけど」
「吉野? さっきの対戦相手だよね。何の用だろう?」
「あ、いえ、用、というか。あの! さっきの試合、すごかったです! 宮原さん、すごかったです!」
最後の方は再び叫ぶ形となり、目の前の陽大が、酷く驚いたように身体を一歩引いた。
「あ、ああ。それは、どうも。ありがとう? でも、いいの? 敵チームの、しかも自分のところに勝った相手に、そんな」
「それは、悔しかったですけど……でも、勝敗関係なく、宮原さんはすごかったんです! 感動しました。特に……あのゲームデザイン!」
陽大は目を見開いた。
「君、僕たちの動きが分かったの?」
「はい! 始めは通常のペネトレイトからボールを散らすオフェンスパターンでしたけど、途中から14番に宮原さんが中心になってダウンスクリーンをかけてましたよね? 14番のシュート力があれば簡単にアウトナンバーが生まれます。たとえ他のディフェンスがヘルプに入っても、宮原さんをフリーにさせたら終わりですから。それに、数種類のフェイク――14番がフリーになるためのフェイクを指示していたのは宮原さんですよね? これだけのフェイクとスクリーンが連続で行われたら、もうどうにもなりません」
興奮した面持ちでそこまで一息で言うと、和美は「ふぅ」とようやく息を吐いた。
「驚いた、な。俯瞰してたとしても、そこまで解るんだ。君、バスケの戦術に詳しいんだね。きっと、バスケ、大好きなんだね」
「……はいっ」
彼に褒められたこと、彼に笑顔を向けてもらったこと、そしてこうして会話を続けられていることで、和美の心は幸せに包まれる。
もっとお話がしたい。
もっとバスケのことを話し合いたい。
もっと彼のことを知りたい。
もっとわたしのことを知ってほしい。
和美が次の話題を口にしようとした時、それを遮る声が彼の背後から聞こえた。
「陽ちゃん、優勝おめでとう。もうすぐ表彰式だよ」
陽大の背後、肩口から腕を絡ませ抱きつく少女がいた。
身長は高く、170は優に超えている。
漆のような美麗な長い黒髪を、アレンジしたローポニーテールにして結いているその少女は、愉しげに彼の肩口から顔を覗きこみ、お互いの口唇がふれあいそうな距離で言葉をかわす。
そこから覗く少女の顔にはくっきりとした二重の美しい瞳と、スッと通った高い鼻、肉厚でぷっくりとした口唇が配置されている。華やかで可憐なパーツが、スタイルの良い肢体と相俟って、彼女をより一層美しく引き立たせていた。
その少女が、小豆色のジャージに包まれた、ボサボサ髪の小じんまりとした垢抜けない子に、チラリと視線を送る。軽く吹き出したのがわかった。
「この子、知り合い?」
「あ、いや。決勝で対戦した吉野の子みたいなんだ。僕と話をしたかったみたいで、さ」
「へえ?」
そう言って、にやにやと笑みを浮かべるその少女に、和美はムッと嫌悪感を抱く。
どうやら見下されているようだと、薄々――どころか、はっきりと分かる。挑発されているのだと実感する。
「もう、話は終わったでしょ?」
「あ、あの、まだもう少し、お話がしたいな、って」
目の前の少女は、その言葉を無視し、
「さ、早く行こう。みんな待ってるからね」
陽大の腕を抱き寄せ、腕を組んだまま和美に背を向ける。
彼が背中越しに、和美に「ごめんね」と困ったような顔で片目をつむった。慌てて、和美も頭を垂れる。
そして顔を上げ、二人の背中が見えなくなるまで見守ろうとじっと眺めていると、ふと腕を組んでいるその少女が頭だけを――視線を和美に向けた。その美麗な顔を意地悪く歪めると「べぇ」舌を出して和美を嘲笑った。
うがああああ!
地団駄を踏みつつ、ぐぬぬ、と唸っている和美に、まだそこにいた竜也が哀れみの眼差しを向けていた。和美は竜也のその視線に気付き、見せた失態を恥じるように、乾いた笑いと共に「それでは、これで」と走り去る。
陽大と話ができたこと、それ自体は、とても幸せなことだった。
だが、最後、あのような形で彼を奪われてしまったことは、歯ぎしりするくらい悔しかった。
ただ――現段階では、和美は彼女には絶対に逆らえない。その自覚はあった。
自分のことを見下した居丈高な美姫のことを、和美は既に知っていた。
和美より二学年上。つまり陽大より一つ年上で、現在中学三年の京南学院中等部女子バスケットボール部主将。そして、その少女を、バスケットボールをしている女子中学生で、知らないものは居なかった。
――その少女は『女王』矢向梨々花と言った。