カツンと一蹴り
ふらりふらりと歩いていた帰り道、足にカツンと硬い感触。
んん、と朧げな視線を巡らせはしたものの、僕は特別気にもせず歩を進める。
いいのだ。無礼講、無礼講。
何せ今の僕は、天下無敵の酔っ払い。
上司を挙げて讃えて午前二時、体を張った凛々しき企業戦士なり。
僕は見慣れた街並みの静寂の中を、ふらつく足取りで闊歩する。
街の賑わいから少し離れた片田舎。深夜ともなれば、人や車の往来はほとんど無い。
我が物顔で縦横無尽に道を横切っていた僕だったが、ふとある角を曲がった自動販売機の前に、若い女の子の姿を発見した。
明るい栗色のボリュームある巻き髪。胸を強調するようなTシャツに、だらけた灰色のスウェットパンツ。
成る程。いかにも深夜の徘徊に相応しい姿。
「お姉ちゃん、ジュースくらい奢ってやるよお」
ヘラヘラと笑って、僕はすれ違い様に彼女の手元に千円札をヒラリと舞わせる。酔いの力とは恐ろしいものだ。
彼女が地面に落ちた札を拾って振り返るより前に、僕は次の角を曲がっている。
ふらりふらりと歩く。
真夏の夜風が、じっとりと温い。
少し先の街灯の辺りに、気怠げに歩く人影を見付けた。
またもや若い女の子だ。ありがちな栗色の巻き髪に、ありがちな若者らしいワンピース。
短い裾から覗く白い足に、さりげなく視線を送りながら通り過ぎる。テクテク、テクテクと、自分の足音が耳に軽い。
コンビニの駐車場の隅に、膝を抱えて座る女の子を見つけた。またもや栗色の巻き髪。服装はよく分からない。
心地良い夜風のせいか、酔いが少しずつ醒まされてきたようだ。
ほんの少しだけ冴えた頭で、近頃の未成年は本当に個性が無い、などと考えた。
もうすぐ我が家だと思った頃、いつも行く馴染みの酒屋の前に、じっと佇む女の子を見た。
やはり栗色のゆったりした巻き髪、服装も若者特有の気怠げなもの。
「夜中はあ、酒の自販機は止められてるよ〜」
軽口を叩き、けれど背中に走った悪寒は何だろう?
僕は少し早足になる。
足早に進んだ道の先に、またもや若い女の子の姿。
鮮やかなキャミソール、痩せて尖った肩を覆うのは、栗色のたっぷりとした巻き髪。
「……」
無言で通り過ぎる僕の背中を、密やかに振り返る気配がする。
「……っ」
ゾワリ。
冷たいものが走り、全身が一斉に泡立った。
(何だよ……)
更に歩くスピードを早めながら、僕はゴシゴシと腕を摩る。
(夜道に怯えるなんて、それこそ小娘じゃあるまいし)
嘲笑気味に、軽く自分を叱咤してはみるものの。
ふいに頭に浮かんだのは、不吉で良からぬ嫌な記憶。
(そういえば)
三カ月ほど前に、近所で起こった死亡事故。
(確か、さっき通って来た場所が……)
免許取り立ての若い女の子が、深夜にアクセルとブレーキを踏み間違えて、電柱に猛スピードで激突。
運転手の少女は即死。その遺体はあまりにも惨たらしく、駆け付けた母親はそれを見るなり、
……気が触れて、おかしくなってしまった程だったとか……。
「……」
ぞくり。
悪寒と共に、残っていた酔いが瞬時に遠退く。
(さっき、事故現場の横を通ってきたよな)
そうだ。確かにそうだが、駅から自宅までのルートなのだから仕方ない。ずっと前からいつも歩いている道だし、何よりあの事故の後だって何十回も通っている。事故のことなど気にしたこともない。
……なのに、今に限ってこんなにもあの事故が気になっているのは何故か?
カツン。
小気味よい音。
靴の先に当たる固い感触。
僕の革靴が弾いて飛ばした。
(何を?)
アスファルトの地面に叩かれ弾んだあれ。
(……写真立て)
そう、写真立てだ。
先程僕が蹴り飛ばしたのは写真立て。真っ白な花が活けられたいくつもの花瓶の前に、下に白いハンカチをひいて丁寧に置かれていた……。
(事故で死んだ女の子の写真が入った……)
ゾワアッ。
そこまで考えて、僕は慌てて頭を振った。
下らない。
いい年して、一体何を考えているのやら。
わざとらしく馬鹿に明るい鼻歌など漏らしてみる。少し先に、ようやくアパートの明かりが見えてきた。
(……やれやれ)
見慣れたその姿にホッとする。一つ安堵の溜め息を吐くと、僕は何とはなしに来た道を振り返り。
次の瞬間、深夜の静寂に霰もない大絶叫が響き渡っていた。
振り向いた視線の先には、無惨に潰れてひしゃげた軽自動車が横たわっていた。
生々しくオイルを垂らし、燻った黒い煙を上げる、かつては自動車だった鉄の塊。
歪んで砕けた窓の隙間から、今まさにぬるりと突き出したのは、血まみれの人の手ではないのか。
ビクビクと痙攣しながら折れたワイパーを掴み、ぎこちなく軋んだ音を立てて少しずつ這い出してくる。
「……あ、あ、あ」
口を絶叫の形のまま開きっ放しに、僕はその場に固まって喘いだ。
(まさか、だってあんな、あんな事くらいで!)
街灯の薄い光に影を引き、横転した車の窓からゆっくりと、血に塗れた少女の頭が突き出してくる。
「ひっ……!? う、うぁあああああ!!」
その無惨な顔を見てしまうより早く、僕は恐怖に弾かれて猛然と走り出した。
(わざとじゃない、わざとじゃない! 酔ってたから、だから)
必死で言い訳を念じつつ、死に物狂いでアパートを目指す。心臓が恐ろしいくらいに激動し、涙と汗がドッと噴き出して流れる。
(悪気なんか無かったのに! あんな、あんなことくらいで、こんな)
僕は歯をガチガチと鳴らしながら、アパートの階段をもつれる足で駆け登った。
……、
カンカンカンカン!!
一拍子置いて、後ろから階段を駆け上がってくる足音。
「ヒィッ!?」
短い悲鳴を上げ、脱兎の如く自室の扉に駆け寄る。
鍵、鍵、鍵、鍵!
部屋の前で落ち着きなく足踏みしながら、必死でポケットをまさぐる。
指先が鍵に触れたと思った瞬間、開くはずのない扉が突然開いた。
「!?」
驚きに目を見張ったその次には、いきなり二本の腕に肩を掴まれ、否応なく部屋の中に引きずり込まれる。
背後で叩き付けるように扉が閉まる音、鍵の掛けられるガチャンという音に絶望した。
「き……、きやあぁあああっ!?」
閉じ込められた、と慄いて見開かれた僕の目は、闇に浮かぶ彼女の惨状を至近距離から見てしまう。
蒼白な顔の中にある、白く濁った目を。半開きになった土気色の唇から覗く、灰色の舌を。暗く虚しい死者そのものと成り果てた、かつては美しかったであろう少女の砕けた赤い顔を。
「きゃあぁ、きゃあああっ!!」
再び女のような情けない悲鳴を上げ、僕は無茶苦茶に暴れて冷たい腕から逃れた。
玄関扉に強く背中をぶつけたようだが、痛みは全く感じない。闇に浮かぶ少女を凝視したままガクガクと震え、手探りで慌ただしくドアノブを求める。
(許して、許して、許して、許し……)
汗で滑る掌が金属製のドアノブを掴んだ途端、突然それがガチャガチャと回り出した。
「……っ!!」
心臓が激しく跳ね、カラカラに渇いた喉からは悲鳴さえ出ない。
もはや失神寸前の僕に追い打ちをかけるように、鉄の扉がドン! ドン! と鈍く揺れる。
「……っ、……っ!!」
激しく何かが扉に体当たりする音、金属が激しく軋む音に混じって聞こえた、醜く歪んだ獣のような怒号。
『開けろ!!!』
(……!?)
全身を冷たい汗でびっしょりと濡らしながらも、僕は辛うじて硬直した体を捻ることに成功した。
ガチガチと歯を鳴らして恐怖に涙を滲ませながら、恐る恐るドアスコープを覗き込む。
魚眼レンズの歪んだ視界の向こう。
それを見た瞬間、僕はついに腰を抜かして玄関に崩れ落ちた。
『開けろ!! 開けろ開けろ開けろおおお!!!』
醜く歪んだ怒鳴り声。
『お前お前お前よくもあたしのあたあたしの娘の写真ををををを!!』
扉の向こうでは、髪を振り乱し目を真っ赤に充血させた中年女が、すごい勢いで包丁を振り回していた。
(娘の遺体を見て、気が触れた、母親……)
脱力した僕の股間がじわりと温かくなり、玄関の床に水溜まりが広がる。
薄ぼんやりと浮かび上がっていた少女は、そんな僕に視線を落とすでもなく。
ただ悲しげに目を伏せ、溜め息のような音を残して、ひっそりと闇に溶けて消えていった。