第43話 深窓の令嬢、お別れする。
食堂のテーブルには、焼き立ての肉と香草のパイ、季節の果物、洋菓子、ワイン――いつもの夕餉とは比べ物にならない品数が並んでいる。普段長いテーブルを囲んで食べているが、今夜は島状に配置され、立食形式が取られていた。
屋敷の者たちが声を弾ませ、ヨーズアの門出を祝っている。イマがヨーズアへ任せていた仕事の関係者たちや、レネ氏、それにイブールの診療所の医師や看護婦たちも招かれている。……ヨーズアの壮行会をやっていいか、とイマがメイドや使用人たちより尋ねられたとき、イマは全面的に任せた。すると、こんな大掛かりな会になっていた。
玄関広場にもテーブルをいくつか置いているため、飲み物を手に中庭で会話に興じている者もいる。屋敷全体がわいわいとお祝いの空気に包まれていて、場はさながら大きな宴会の様相だった。
「メールディンク先生が、町からいなくなるのは、本当に惜しい」
診療所の高齢の医師が、葡萄酒の一杯で酔ったのか、玄関広場の端に設置された長椅子にてずっとその言葉を繰り返している。――イマは知らなかった。ヨーズアが、イブールの医療関係者とも交友を結んでいたことを。
「本当にねえ。医者にしておくには惜しいくらいに書類仕事の速い方ですし。それに、金融知識にめっきり強い」
イブール銀行の頭取まで来ていて、高齢医師の隣に座ってあいづちを打っている。こちらも、何度目かわからない言葉だ。彼は、経済の動向についてヨーズアと議論を交わすこともあったらしい。……イマには、それも初耳だった。
明日、都へと出立するヨーズアについて、みんなが笑い合って、惜しみ合っていた。
イマは……そのどの輪にも入れなかった。
「イマお嬢様、なにかお持ちしましょうか」
気づいたメイドがそっと声をかけてくるが、イマは首を横に振って小さくほほ笑んだ。
大丈夫。ちゃんとわかっている。――今は、笑うべきとき。
「イマお嬢様、なにか弾いてください!」
だれかの声が玄関広場に響き渡った。一瞬その場が静まり返り、周囲の視線が、一斉にイマへ向く。白いピアノに寄りかかっていたイマは驚いて背を正した。そして、次々に肯定の言葉があがってくる。
イマはひるんだ。けれど逃げ出すわけにもいかなかった。みんなさっきまでヨーズアの話をしていたのに、期待するような瞳をイマへ向けている。
主役のヨーズアが、応接室の扉からひょっこり顔だけ出した。それを遠目に見て、イマは「ええと……あの。なにを、弾けば……」とつぶやく。
「なんでも! あっ、それか、あのキレイなやつ」
「ぜんぶキレイだろ」
「それはそう」
笑い声が満ちた。みんなほろ酔いで、気分がよくなっているのだろう。
「メールディンク先生、なんか曲選んでくださいよ!」
最初に声をあげた者は、ヨーズアへそう言った。ヨーズアは部屋から出てきて、肩をすくめた。
「――じゃあ、お嬢。練習でよく弾いていた、四曲あったでしょう」
「はい……」
「どれもいい曲だ。そのうち……今、お嬢が弾きたいと思ったの、聴かせてください」
そう言われて、イマはゆるゆるとピアノの椅子に着いた。少しだけのざわめき、それに自分へ集まっている視線。ペペイン温泉の説明会のときのことを思えば、なんてことはない。
指が鍵盤に触れた瞬間、会場がふっと静かになった。深呼吸し、イマは鍵盤を押す。
最初の音が柔らかく響き、夜の湖面に波紋が広がるように旋律が流れた。
イマは目を閉じ、音の世界に身を委ねた。人々の視線も、ざわめきも、すべてが遠のいていく。細い指が鍵盤を滑り、感情を込めてひとつひとつの音を紡いでいく。
これは、別れの曲だ。イマはヨーズアの門出を祝う気持ちを込めて、弾いた。
ほろ酔いの軽やかな空気が、悲哀が織り込まれた静けさへ変わっていく。だれもが固唾を呑んで、その寂寥感あふれるイマの演奏に聴き入っていた。
イマの右手の小指が、最後の音を紡いだ。ゆっくりと両の手を鍵盤から離した後も、イマの演奏は余情を残し、人々を棒立ちにさせている。
拍手があがった。イマがそちらを見ると、レネ氏だった。そしてそれに続いたのはラフィニア公女。すぐにそれは玄関広場全体に広がる。
イマは立ち上がって一礼した。こうして自宅で演奏し、それを客へ聴かせるのは都でもたびたびあったことだ。なのでいくらか懐かしい気持ちながら、程よい緊張感で演奏を終えられた。
やはり、自分はピアノが好きなのだろうとイマはあらためて思った。
「お嬢。よかったですよ。ちょっと外出ましょう」
すぐ隣からヨーズアの声がし、イマはびくっと飛び上がってしまった。
そのまま腕を取られて玄関を出る。夜はとっぷりと暮れていて、庭に建つ数本のガス灯と星明りが、言葉なく庭を横切って歩くイマとヨーズアを照らしている。
「さて。ちょっと話しましょうか」
庭に据えられたベンチを指し示されて、イマはしかたなくそこへ座った。ヨーズアも隣に座り、背もたれに肘をかけて前方を睨む。
「……で。なんであんた、俺を避けてたんですか」
現在、庭には他に人がいない。先ほどイマが室内でピアノ演奏をしたため、皆そちらへ移動したのだ。
イマはヨーズアと視線を合わせないように、膝に乗せた自分の手を見つめながら、どうにか言葉を探す。
そのまま、言ってしまおうかとイマは思った。最初、ヨーズアが自分の元に留まるとはっきり断ってくれなかったのが、悲しかったのだと。
けれど、それは明日、都に――リエントへ旅立つヨーズアの、足を引っ張る言葉だ、と思った。
結局しぼりだせたのは「なんでもありません」という言葉だった。
「なんでもないなんてことはないでしょう。実際に俺から逃げ回って」
「ドクが、ラフィニア様と仲良くなるには、それがいいと思ったんですわ。たくさん話せましたでしょう?」
心にもないことを言ってしまった。イマは、なんでもない表情を作ってそっぽを向きながら、心臓の音がヨーズアに聞こえるのではないかとひやひやした。
ヨーズアの顔を……そちらを、向けなかった。
「……ああ、はいはい。そういうことにしときましょうか。――あんな顔で、あんな曲弾いときながら、よく言いますね」
その言葉の意味がわからなくて、イマは少しだけヨーズアの方を向いた。メガネの奥の瞳がやさしくほほ笑んでイマを見ていて――イマは少し、ドキッとした。
そして片手でガシガシと頭をなでられた。せっかくメイドがキレイに結ってくれたのに、と抗議しようとすると、ヨーズアは立ってイマを振り返り、言った。
「まあ、今のあんたなら……前よりずっと体力も着いたし、体調は、心配はないと思いますが。俺みたいな抑え役がいなくなるぶん、自分でちゃんと考えて動くんですよ」
それが、ヨーズアからの……ヨーズアらしい別れの言葉だ。イマは胸が詰まって、なにを言えばいいのかわからない。
けれど、いっしょうけんめい言葉にした。つっかえて、キレイには言えない。
「――ドク、も……お体に気をつけてください。そしてどうか、ぜひ、お勤めを……」
――なにを? 名医として? リエントの医学博士として? それとも、ラフィニア様の侍医?
最後まで言い切れず、イマはうつむいた。
ヨーズアは、少しの沈黙の後、イマの目の前へ手を差し出して来た。イマはその手を見る。イマよりずっと大きくて、幾度もイマを助けてくれた手。
「――さあ、戻りますよ。変なウワサ立てられたらかなわんですからね。立って」
イマがその手をとって立ち上がると、エスコートではなく、ヨーズアはそのまま手を握って歩き出した。
玄関をくぐって屋敷の中へ入ると、みんな元のにぎやかさに戻っていて、少しだけイマはほっとする。
「ほら、厨房行って。あったかい牛乳でももらって、休みなさい」
握った手を引いて、解いて。ヨーズアがイマへ言った。
イマは口の上で「そうですわね」と言って笑おうとしたけれど、上手く笑えなかった。
胸の奥に、言葉にならない感情がじんわりと広がっていく。
ヨーズアとの時間が、本当に終わってしまうんだと――イマは強く実感していた。




