第41話 深窓の令嬢、慰められる。
「では、ごきげんよう。よい夜を」
ラフィニア公女が先に席を立ち、割り当てられた部屋へ戻る。それに続いてイマも食堂を出たが、まっすぐに自室へ戻る気になれなかった。
背筋を伸ばし、すまし顔で「お庭を見てきますわ」とメイドへ告げ下がらせたけれど、胸の内側はぐちゃぐちゃで、呼吸をしているのも不思議なくらいだった。
ヨーズアは、なにも言わなかった。
なにひとつ、イマに――言ってくれなかった。
――言わないまま、行くの……? わたくしを置いて……?
それとも、あの場では言えなかっただけで、後で説明するつもりだったのかもしれない。あるいは、もしかすると、そもそも『相談すべきこと』だとは、思っていなかったのかもしれない。
――……だって、ラフィニア様が言っていた。……「あなたの『想い』とは関係なく、世界は動くのよ」って。
ふらりと中庭へ出た。濃紺の空には、うすく雲がかかっていて、月の光がぼんやりと滲んでいた。庭の植え込みはきちんと剪定され、バラのアーチが夜でも美しい。かすかに甘い香りがしている。
いつだったか――ついこの間のことなのに、もう遠く思える夜に――イマは、自分がいかに恵まれていたかを思い返していた。成人しイブールに来るまでは、世界は小さく、すべてが思い通りだった。
でも現在は、そうではない。ひとりの大人として、自分以外の人々のことを考え、言動もそれに準じたものへ変化させなければならない。それに気づいて……気づかせてもらえて、少しは成長できたのだとイマは自分について考えていた。
そうでもなかったのだな、と夜気を感じながらイマは自嘲した。
世界は、イマがなくても動くのだ。
バラの花は、恥ずかしそうに花芯を隠してしまっている。都から着いてきてくれた高齢の庭師が、丹精込めて手入れしてくれているそのひとつに手を触れて、イマは自分も草花のようになりたいと思った。愛情をかけられ、それに寄り添って咲く草花に。
イマは、本当にたくさんの人々に愛されていると思う。そして、助けてももらっている。けれど、バラのように朝に開き、夜に閉じるような、従順さを持ち合わせてはいない。だから、これほどに恵まれた環境なのに、多くの問題を抱え込むのだと思った。
――わたくし、きっと、ドクに嫌われてしまったのね。
じゃなければ……なにも言わずに去るだなんて、できるはずもない。
もし、なにか彼を傷つけるようなことをしてしまったのだとすれば、それを謝りたいと思った。けれど、ずっとヨーズアはイマへ同じぶっきらぼうさで接していて、なにがいけなかったのかわからない。ペペイン温泉の契約の件では、たしかに怒らせてしまった。だからすぐさま謝りに行ったし、彼も許してくれたのだ。それ以外に……彼はなにも変わらなかった。
イマは、かすかに首を振った。イマがどれだけヨーズアのことを考えていても、それはなににもならないと思った。
彼がリエントへ行ってしまってもイマの生活は変わらずに続くし、イマがなにを思おうと、世界はひとつも止まってくれない。
それが、現実なのだろう。
視界の端に人影が揺れた。そちらを見ると、そこにクーン氏がたたずんでいた。
「……眠れないのですか」
クーン氏は、低い声で静かにイマへ尋ねた。イマは、少しだけうなずく。
音と言えば、さわさわとイマと草花をなでる少しだけ冷たい風と、山の方角から聞こえて来る夜行性の鳥の鳴き声だけ。雲があっても月の光は強くて、迷いなく足を運べるように道を照らしてくれる。
イマの進むべき道も、照らしてくれればいいのに、と思った。
東屋へ行く。あの、ラフィニア公女とヨーズアが、医療提携のことで話していた場所。もしかしたら、あのときにはもう、ラフィニア公女はヨーズアを連れて行くと決めていたのかもしれない。だからそんな話をしたのだ。そう考えながらイマは椅子に座った。クーン氏は、少し離れて控えていた。
「……クーン様は、ずっとハウデンクラフトに?」
しばらくの後にイマが前を向いたままぽつりと尋ねると、クーン氏はわずかに間を開けてから「お聞きになったんですね」と言った。
「おそらくは、そうなります」
「ラフィニア様は、あなたを『置いていく』って……言っていた」
イマは、少しだけラフィニア公女へ義憤を込めてつぶやいた。まるで、クーン氏やヨーズアが替えの利く道具であるかのような物言いに、どうしても納得がいかなかったのだ。
クーン氏はそれに対してはなにも言わず、ただふっと笑うように答える。
「求められた場所で、役割を果たすだけです」
「……悲しくないの? 自分が住んでいた土地から、ずっと離れるんでしょう?」
「悲しい、ですか?」
イマがクーン氏を見ると、彼はやさしげな笑みのまま、少し首を傾げた。
「どこであろうと、自分という存在を必要としてくれる場所があるなら――それだけで、私は満たされます」
その言葉に、イマは訓示を受けたような気持ちになった。それも――ペペインから。
ペペインは、自分の存在を証明するなにかが欲しくて、ハウデンクラフトへと渡ってきたのだという。自分が生まれ、生きた証が欲しいと。そして、ここ――イブールを開墾し、名を残した。
どこであっても、必要とされるところへ――ペペインは、そう生きた。
――ドクも、そうしたいのかしら。……わたくしよりも、ドクを必要としている人のところへ……――
「――あなたは、どうされたいんですか」
イマは、はっとした。その言葉は、クーン氏のものだとわかっているけれど、やはりペペインからの問いかけのように思えた。イマはじっと考え……しばらくの後に、首を振る。
「わからない。……わからないです」
声が、かすれて震える。イマは、涙があふれてくるのを飲み込もうと上を見た。いろいろな感情が胸の内を巡って、イマの心を余計にせつなくさせる。
言ってほしかった。相談してほしかった。なにかイマに不足があるなら、そうと伝えてほしかった。どうするのか自分で決めたっていいから、ただ、ひとこと。
自分がしたいこと、成したいことではなくて、してほしかったことばかりが思いつく。こんなだから、なにも言ってもらえないのだと、イマは自分で結論づけた。
そんなイマの隣まで来て、クーン氏は静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「――あなたが泣くと、花の香りが、強くなる気がします」
思いもよらぬ言葉に、イマはぴたりと動きを止めた。
「バラではありません。きっと、あなた自身の匂いでしょう……泣いているときだけ、かすかに甘くなる」
ものすごくキザな言葉に、イマは思わず目を見開いてクーン氏をまじまじと見てしまった。涙はすっと止まってしまった。
「……まあ、なんてことでしょう。まるで物語の登場人物みたいなセリフですわね……」
「気づいてしまったんです。すみません」
クーン氏はまっすぐに言った。あまりにも真顔で悪びれた様子もない。イマは、鼻をすすって小さく笑った。きっと、イマの涙を止めるため――慰めるために、言ってくれたのだ。
イマは自分の頬を袖で拭い、顔を上げる。
「――ありがとうございます。なんだか、気分が上向きましたわ」
イマがそう言うと、クーンは目を細めて笑った。精悍で美しいその表情に、イマは少しだけどきりとする。
「私は、薬師なので……痛みがあるときは、お傍に参ります」
イマは、臆面もなく甘い言葉をささやくクーン氏に「まあっ」と言っていくらか頬を染めた。
「クーン様、それは……日頃から女性にそうおっしゃっているのではなくて?」
「心外です。私の心はイマお嬢様の元にありますよ」
クーン氏は驚いた表情を作って胸に手を当てた。イマは笑った。




