第32話 深窓の令嬢、よろこぶ。
白布がするすると引かれていく音とともに、陽光が照らし出したものを見て、イマは息を呑んだ。目の前には、たった今布を取り去られたばかりの、筋骨隆々な男性の銅像が堂々とたたずんでいる。
周囲にはたくさんの人々の拍手が。しかし、筋肉の神とも呼べるその姿に心を囚われたイマには、その音も聞こえなかった。
本日は、ペペイン温泉の入り口である『和み苑』の玄関先へ、ペペインの銅像を建てた除幕式である。町役場に設置してある物の他に、新たに銅像を建立することは、イブールに来た当初からのイマの夢だった。
本当はイマの屋敷の庭に建てたかったのだが――ヨーズアからは「あんた、まさかそんな趣味悪いこと、マジでやったりしませんよね?」と真顔で言われた。メイドや使用人たちからもそれとなく拒否され続け、結局、名前をもらった温泉に建てるなら、と多くの人の承認を得られたのだ。
町長が汗を拭き拭き、あいさつ口上を述べている。そんなことはおかまいなく、ペペイン像を見上げるイマの目はキラキラと輝き、まるで恋に落ちた少女のようだ。
ペペインは――肩幅の広い立ち姿で、片足を一歩踏み出している。膝丈までの革の腰巻をまとい、上半身は裸で、熊皮の長い袖なし上着。
全身の筋肉は、ただ鍛え上げられたものではなく、まるで戦場で生き抜いたかのように引き締まり、気高い光を放っていた。右手には弓を、そして左手にはつがえる矢を。視線は鋭く前方を見据えている——それだけで、ここに秩序と威厳が満ちるようだった。
イマはまぶたの裏に、自室に飾っている数々の肖像画を思い浮かべる。けれど、今ここに立つこの像は――それを超えていた。――完璧だ。
「――なんて分厚い大胸筋でしょうか! まるで大陸同士がぶつかったみたいですわ! あの溝の深さ、底が見えません! 胸のキーリド山脈です、最高ですわ!」
「お嬢、声が出ています。恥ずかしいのでやめてください」
イマはふらふらと近寄って手を伸ばしそうになり、はっと我に返った。そして両手で頬を覆って赤面する。
「ダメダメ、触っちゃダメです! でも、この腹筋……! 八つに割れて……! なんて美しい……」
「だから、脳内妄想がダダ漏れですって。子どもたちが見ていますよ、やめなさい」
ヨーズアの声がやっと耳に入り、イマは周囲を見回した。じっとイマを見上げるちびっこの瞳に「あら、いやだ」とイマは顔を覆った。
しかし、堪えられなくてこそこそと小声でヨーズアに話しかけた。
「――でも、ドク。ご覧くださいまし。あの二頭筋の盛り上がり…… まるで鉄球を詰め込んだようですわ! 血管の浮き出しまでしっかり彫り込まれて……これはもう本人と言っていいのでは?」
「んなわけないでしょうが」
「職人さんには金一封を……」
「もうあんた散々金出したでしょう。向こう十年は創作活動に専念できるって感謝の手紙来てたの忘れたんですか」
「三頭筋も……ああ、馬蹄形が完璧すぎます! それに大腿四頭筋……まるで古代神殿の柱ですわね! 大腿二頭筋の線の鋭さは、もう芸術を越えました……!」
「なんであんたそんなに筋肉の名前知ってるんですか……しかも全部合ってますよ、ドン引きします。気色悪い」
「辞書で調べました! 気色悪いとはごあいさつですわね! ペペインを賛美するのに、言葉を尽くすのは当然です!」
イマは憤慨した。どうやらあいさつは終わったらしく、町長が汗を拭き拭きイマのところへやって来た。そして「すばらしいペペイン像ですな! これは温泉も繁盛間違いなしです!」と言った。
「そうでございましょうそうでございましょう! まあ、町長様、あなたは話がわかるお方ですわね!」
「町役場の銅像と同じく、コーゾ三号を着た像と聞いたので、あれをそのまま想像していたのですが。いやはや。生き生きとして、まるで今にも動き出しそうですなあ」
「で、ございましょう⁉ ああ、動いてくださらないかしら、ペペイン様……!」
町長の後にレネ氏がいた。イマを見て、そしてペペイン像を見上げる。
「――遠いなあ。……まあ、がんばるだけだ」
その声には、ほんのわずかに焦りの色が混じっていた。そして、どこか悔しそうにも聞こえる。イマは少し驚いて、心の中でそっとうなずいた。本当に見上げた心がけの若者だとイマはあらためて思う。
集まった人々へ飲み物の振る舞いがあり、そして式は解散になった。
「――あの、イマお嬢様」
レネ氏が、ためらいがちにイマへ話しかけてきた。良い目標を持つ若者には親切にすべきだと思うイマは、扇子を口元に当ててにこやかに「はい、なんでございましょう?」と答えた。
「まずは、ペペイン像の除幕、おめでとうございます」
「ありがとうございます! 職人さんが、本当にがんばってくださいました!」
「本当ですね。僕もこんな風になりたいものだ」
「すばらしい目標です、お励みください!」
「はい」
笑ったレネ氏は、その笑顔のまま、どこか真剣な目でイマを見る。どきっとしてしまった。思わず、彼から目をそらす。ちょっとだけペペインに似ている、などという思考は、いけない気がした。
「あの、先日お話した、ピアノ教室の件ですが」
「あっ……あの、はい。なんでしょう?」
思わず、イマは声が裏返ってしまった。
知らない人……しかも子どもたちに教える、ということに、イマの中であまりにも苦手意識があり過ぎて、話はまったく進んでいない。
「――考えてみたんです。いきなり知らないだれかを教えるなんて、とてもできることじゃない、と」
「そっ、そうなんですわ! あの、わたくし、教わることはたくさんありましたけれど……だれかに……教えるなんて……」
だんだん声が小さくなっていく。イマに自信など、どこにもない。レネ氏は穏やかなほほ笑みで「わかります」と言った。
「僕も、町役場に勤めて、初めて部下を持ったときは、どう教育していいかわからなかったです」
「まあ、レネ様でも?」
「はい。なので……僕を教えてみませんか」
イマは、一瞬言葉の意味を受け取りそこねてきょとんとした。目をまたたいて、そして「えっ、レネ様を?」と声に出す。
「はい。僕なら……緊張したり、しません……よね?」
むしろレネ氏が緊張した声色で言った。イマはじっと彼を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。そして「まあ、それはすばらしい考えですわ!」と言った。
レネ氏は、ほっとしたような、でもどこか悔しそうな顔をした。




