第30話 深窓の令嬢、胸の内を話す。
屋敷の門の閉まる音が、背後で静かに響いた。
母ヘルディナと、イブールの町を巡るのは、イマにとって想像以上にたのしい経験だった。
パンを食べた。大根のポタージュも食べた。パンケーキは、ふたりではんぶんこにした。素焼きのカップから立ちのぼる湯気を、顔を寄せて一緒に眺めた。
路地裏で見つけた風車に指を差して笑い合い、土産物屋ではふたりして同じ色のスカーフを手に取って悩んだ。
思えば、都にいたときのイマは体が弱くて――母といっしょにそんな経験をしたこともなかった。ふたりで笑った。そして、ふたりでちょっとだけ泣いた。
「もう、迷わないのね?」
玄関の扉をくぐるとき、母が小さく尋ねた。
イマはうなずいた。
「はい」
玄関広場に立ち、イマはふと顔を上げた。
深く吸い込んだ屋敷の空気は、町の喧騒とはちがって、落ち着いた木の香りがした。心の中にあった不安は、音もなく解けていく。
イマはメイドに父の居場所を尋ねて、ヘルディナとともに談話室へと向かう。足取りは迷いなく、廊下に響く靴音も穏やかだった。
重い扉を開けると、談話室には父バスティアーンがいた。傍らにはヨーズアもいる。
バスティアーンは読み物から顔を上げ、イマの姿を一目見るなり、わずかに口元を緩めた。
「――おかえり」
その声には、なにもかもを悟ったような、静かな重みがあった。
一呼吸おいて、バスティアーンは言った。
「ヨーズアから、おまえが、ここイブールでなにをしてきたか……細かく聞いたよ」
その眼差しはまっすぐで、そこに責める色はない。ただ、イマ自身の意志を確かめるような、まっさらな視線だった。
イマは一歩進み出て、姿勢を正した。息をおなかいっぱいに吸い込む。そして。
「お父様、お母様。……お話があります」
ヘルディナは、バスティアーンの隣に並んで座った。反対にヨーズアは、立ち上がって壁際へ下がった。
状況は整って、バスティアーンはイマへと「なんだい。聞こう」と促す。
「わたくし……都には、戻りません」
イマのその声は、談話室内で静かに広がった。バスティアーンも、ヘルディナも、ほほ笑んでその言葉を受け止める。
ヘルディナは、その笑顔のまま、確認するように言った。
「もう、元気になったのに? 療養はもう、必要ないでしょう?」
その声はやわらかで、批難する響きは一切ない。だから、確認なのだ。
イマは両親を見つめ、ごまかすことなく言葉を紡いだ。
「――はい。けれど、わたくしはイブールに留まりたいのです」
「それは、どうして? 都の方が便利で、たくさん良い物があるわ。それに、あなたが大好きだったピアノのお稽古だって、こちらではできないでしょう? 先生がいないもの」
「そうですわね。でも、都には――イブールがありません」
イマにとって、結論はそれだった。ペペインを推すためにやって来たこのイブールという土地は、イマにとって、もうかけがえのない土地だった。
実際にイマがイブールに住んだ月日は四カ月程度だ。けれど、五年にも十年にも思えるくらいの経験をした。
祭りに参加したし、家を建てようと動けば温泉が湧いたし、いざこざを治めるため自ら演壇に立って聴衆へ話もした。地均しを手伝おうとして「お嬢、じゃまです!」と言われ、酒を名付けようとして「感性が古い」と言われたりもした。
すべてが、かけがえのない出来事で。
泣き、笑い――イマは、イブールに来て、初めて「生きている」と感じた。
「なにもかも、初めてでした。最初は、大好きな歴史上の人物ゆかりの土地、というだけだったんです。でも、今は違うんです。わたくし、ここで生活して、毎朝目が覚めることが、うれしいんです。夜眠ることがたのしみなんです。だって……明日はどんなことがあるかしらって、思えるから」
ヘルディナが唇をきゅっと横に引いた。バスティアーンはかすかにうなずいた。ふたりの目は少しだけうるんで、けれどじっとイマを見ている。
「すごく、いろいろな経験をして……今はもう、ペペインや、他のだれかのゆかりの地ではないんです。――わたくしの、ゆかりの土地なんです」
感極まってヘルディナが涙を流し、ハンカチでそれをおさえた。バスティアーンがその肩を抱く。少しの間だれも、なにも言わなかった。談話室に差し込む陽の光が、床の敷物の模様をゆっくりなぞる。イマはなにを言うべきか考えて、そして飾らない言葉を差し出した。
「――わたくし、ここで生活したい。できることならこれからも、ここで生きて行きたい。……そう、思っています」
ヘルディナは小さくうなずき、かすれた声で言った。
「……あなたが、そう思える場所に出会えたことが……なによりうれしいわ」
バスティアーンはイマから視線を外さず、ぽつりとつぶやいた。
「おまえの口から、それを聞けてよかった。……ようやく、本当の声を聞けた気がするよ」
ふたりの瞳がうるみながら、そろってイマにほほ笑んだ。
その日、イマは初めて――父と母と同じ目線の高さで向き合えたような気がした。背伸びするのではなく、自分の丈の高さで。
ふと、壁際にイマは目をやった。
ヨーズアがなにも言わず、腕を組んで背中をもたれている。その瞳は丸いメガネに隠れて見えなかったけれど、イマを見て、笑ったように思えた。




