第2話 深窓の令嬢、冒険に出る。
「なんで俺までいっしょに」
ゆったりとした馬車の座席で、ヨーズアは腕を組み、眉を寄せてぼやいた。今日だけでも何度目かわからないセリフだった。窓の外では畑が延々と広がり、羊がのんびり草をはむ。あまり手入れされていない町道をガタゴトと進む走行音と、牛の大きな鳴き声がときどき窓越しに届いた。
「あなたはわたくしの主治医ですから」
扇子を口元に当てながら窓へぴったりと額をつけ、食い入るように外を見つつイマは言う。これも何度目かわからない返答だった。扇子を使っているのは、そうしないと息で窓が曇り、外が見えなくなるからだ。
ヨーズアが、イマの両親を説得するために書いた診断書には、しっかりと『イブール』の名が記された。そこには『気候が気分を晴れやかにし、退屈死を防ぐ効果が見込める』との所見がついていた。よって、一人娘を溺愛している両親は、すぐさま人を遣わし、イブールで一番立派な屋敷を買い上げて家具や絨毯まで抜かりなく整備した。
そのおかげで、次の月の頭の現在……イマはこうして、憧れの地へと移住できたのだ。
生まれて初めて、イマが自分を押し通してでも行ってみたいと思った土地――イブール。その実際の牧歌的光景を前に、彼女は胸の高鳴りをおさえられなかった。
ここまでの道のりは、約一週間と短くはない。体力のないイマのために適宜休息を入れたので、余計に時間がかかっている。本当に遠くまでやって来た、と彼女はため息をついた。
世間知らずのイマにとって、この旅はただの移動ではないし、確実に人生を変えるものだ。
自分の足で生家以外の場所を訪れることすらも、イマにとっては大冒険なのだ。それに、ぶ厚いカーテン越しに見る風景しか知らなかった彼女の価値観に、大きな影響を与える事件でもある。
すでに窓の外を流れて行く景色は、イマの心に新しい色を差していく。
立場上すぐに動くことのできない両親は、当然のごとく自分たちの代わりにヨーズアをイマに帯同させた。移動中、彼は昼も夜もずっと文句を垂れ流していた。そして『ようこそ! イブールへ』と書かれたアーチをくぐり抜けたあたりで、首を振る。
「――なんですか、これは。町の中に入っても畑と牛と埃ばかりじゃないか。とんでもない田舎だ。信じられない、俺は帰ります」
「きっとこちらではお金を使う場所がなくて、貯金が捗りましてよ」
イマはすかさず、扇子を振って明るく応じた。ヨーズアは「それも一理ありますね」と真顔で頷き、懐から手帳を取り出してなにやら計算を始めた。
イマは金に誠実な彼を心から信頼している。
イブールは、昨今町おこし事業が盛んな温暖気候の地方町だ。イマの実家がある都心とは違い、夏の光が柔らかい。窓を開けてみると、驚くほどキレイな空気が入ってきた。
野花が手入れされずそのまま道路脇に咲き乱れる様子は、いくらか緊張していたイマの心を解いていく。
週刊誌記事や掻き集めた関連資料を切り抜いてまとめた『イブール♡だいすき帳』を開いて、イマは数々の写真と実際の町の様子を熱心に見比べた。
そして、つぶやく。
「……本当に。イブールへ、来ましたわ……!」
ぜったいに間に合いたいと思っていた日付は、明日。イブールが開拓民村から町へ昇格した日である、町政記念日だ。必ず来ると――イマは胸を高鳴らせ、暦を数えてこの日を待ったのだ。過ぎゆく景色が涙でにじむ。
記念日ならば、祭りである。古今東西、そういうものだ。準備されている最中の屋台に下がるのれんや、提り下げ灯が穏やかな風に揺れている。週刊誌情報によると、今日は前夜祭のはずだ。きっと明日は朝から賑わうのだろう。
埃っぽい道を走る子供たちや、働く町民たちの姿。その中には、イマとヨーズアが乗る見慣れぬ馬車を指差している者もいる。人々の笑い声がさざめいてイマの耳へ届く。
「――ああ、ああ、イブール!」
イマは馬車の窓から顔を出し、感嘆の声をあげた。空は青く、人々の活気が肌に伝わる。見る物すべてが初めてなのに、イマはずっと前から知っていたような気持ちになった。そしてそれは、彼女にとって心躍る経験だった。
イマの実家からともにやって来たメイドや召使いは、都会のあくせくした空気から逃れたくて志願した者ばかり。皆、イマの箱入り娘ぶりにも慣れた古株で、気心の知れた者たちだ。なのでイマは、今後の生活に一切不安がなかった。
ほとんどの者は、環境を整えるため、かなり前にイブール入りしている。イマとヨーズア一行の到着により、全員無事、用意された屋敷へたどり着いた。
両親は「小さな屋敷しかすぐに用意できなかった」と繰り返しイマへ謝っていた。たしかに、イマの実家にある使用人館と同じ程度の大きさだ。しかし、それまでのイマの城がベッドだったことを考えるなら、今目の前にしている屋敷は、彼女にとってたくさんの可能性にあふれた秘密基地のようで――光り輝いて見えた。
イマは、すぐにでもイブールの町の探索へ出かけたいと思っていたが、体力の限界だった。よく整えられている自室へ入ると、彼女はそのまま翌朝まで寝入ってしまった。
そして、次の日。
健やかにすっきりと目覚めたイマは、朝食の席でメイドに言いつけた。
「この手紙を、イブール銀行へ届けてちょうだい」
二時間後には、冷や汗をかいた中年の銀行頭取が、数名の警備員とともに鍵がかかった大きなカバンを抱えてきた。イマは客間でそれを受け取ったが、自分では持ち上げられない重さだ。
ヨーズアが妙にキリッとキラキラしながら「イマお嬢様、私がお手伝いいたしましょう」と言ったので、玄関ホールへと運んでもらう。
そして、すべての使用人たちを呼び寄せる。
「みなさま。わたくしとともに、イブールの地へ来てくださってありがとう。さっそくですが、みなさんに慰安休暇を差し上げたく存じます」
メイドたちは目を丸くし、召使いは帽子を握って顔を見合わせる。イマは、個人資産から出金したのだ。カバンの中に詰まった数々の袋から札と硬貨を手に取り、ひとりひとりへ小遣いを渡す。金額は多いのか少ないのか、妥当なのか、イマにはさっぱりだ。けれど、皆へ平等に渡した。
ヨーズアが恋人を見つめるように穏やかな瞳でじっとイマの手元のカバンを見ている。イマは、最後に残った中から紙幣を一枚取って懐へ入れ、あとはカバンごとヨーズアへ渡した。うやうやしく受け取ったヨーズアは、幸せそうにカバンをぎゅっと胸に抱きしめた。やはり恋人だったようだ。
「遊んでいらっしゃい。――祭りですもの!」
使用人一同はわっと声を上げた。
仕事を放棄して羽目を外していいという、屋敷の主人直々のお達しだ。メイドは庭から摘んだ花の髪飾りをつけ、召使いは気に入りの上着を着込んで飛び出して行く。皆、新しい土地での生活と都会の空気からの解放に、浮足立っているところだったのだ。
何人かから「お嬢様をひとりにするわけには」という言葉があったが、イマが「わたくしも、ひとりでゆっくりとイブールの風を感じたいのです」と背中を押して玄関を出すと、振り返りつつ出かけて行った。
最後に残ったヨーズアをじっと見る。
「――え、これ貯金しちゃダメなんすか? 使って来いと?」
ヨーズアはカバンを抱きしめたまま真顔で言ったが、イマの有無を言わせぬ笑顔に渋々ながら出発した。
イマは皆の羽ばたく背中を見届け、わくわくと胸を躍らせる。
「もちろん……わたくしも!」
扇子を握り、青白い頬に気合いを込め、イマは冒険に出た。
――退屈死の危機は、これで防げますわね。
イブールの夏が、彼女を待っている。
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