第18話 深窓の令嬢、がんばって謝る。
イマは、イブールに来て初めて、眠れない夜を過ごした。
十八年間人づきあいの生じない生活を送ってきた彼女にとって、だれかを怒らせてしまうことなどこれまで皆無で、なにを、どうすればいいのか見当もつかなかった。
ヨーズアへ謝ればいいのはわかっている。けれど、その謝り方がそもそもわからない。
これまでイマはなにもかも許される一方だった。イマがなにかをしたい、と言えばそうなり、なにもしたくない、と言えばそうなった。それが当然なのだと、イマは知らず知らずの内に考えてしまっていたようだ。
けれど、きっとそうではないのだ、と思い至る。
自分はどれだけ恵まれた環境で過ごしているのだろうと、あらためてイマは実感した。そしてそれが恥ずかしいことだと感じるようになるまで、時間はそんなにかからなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打って、日付が変わるころに「いやあああああ」と枕に顔を埋める。
起き上がって、イマは文机に歩み寄った。オイルマッチで手燭に火を着ける。
町長たちから受け取り、自分で署名した書類を手に取って眺める。
正直なところ、イマにはこの書類に記されている内容の、なにが悪いのかがわからなかった。さすがに、それが町議会となんらかの約束を結ぶものであるのはわかる。
副町長が言っていた「ペペイン温泉を『町と一体となった地域振興』と位置づける」ための書類だ。小さな文字で難しい言葉が並んでおり、知らない単語がいくつもある。真夜中だったが、イマは辞書を片手にそれを読み解き始めた。
ヨーズアが怒ったのは、この書類にイマが相談もなく勝手に署名をしたからなのだ。
一時間ほどして。
「……わかりましたわ。……たぶん」
イマは、単語の意味を書き出した紙と、署名した書類を持ってそっと部屋を出た。廊下は等間隔で壁の提り下げ灯が床に光を落としているのみで、暗く静まり返っている。
みっつ隣りの、ヨーズアの部屋の扉の前にそっと立つ。
みんな眠っている時間だ。彼も起きているわけがない。そう思って、ひとつ息をついて戻ろうとしたところで、扉が開きイマは書類を取り落とすほどに驚いた。
出てきたのは、当然ヨーズアだ。シャツを着崩して、いつもの丸メガネもしていない。
「……なにしてんすか、こんな時間に」
「……謝りに来たんですの。……ドクに」
ヨーズアはじっとイマの顔を見た。イマはそれに少しだけひるむ。扇子を持ってこなかったので、顔を隠すこともできない。
細いため息の後に、ヨーズアはイマが取り落とした数枚の紙を拾った。
イマが署名した文書へは目を通すまでもないと言いたげに一瞥しただけだった。そして、イマが辞書を調べて書き込んだ用紙に目を落とし、じっくりと眺める。メガネがなくても読めるのかしら、とイマはちょっと思った。
「……で。わかったんですか。自分がやったこと」
問われて、イマはうつむき「ごめんなさい」とつぶやいた。
そして正直に「わたくし、なにをどうして怒らせてしまったのか、ちゃんとはわからないんですの」と告白した。
「――でも、ドクに嫌われるようなことをしたのは、きっと、たしかなのです」
ヨーズアの顔を見上げられなくて、イマは足下を見ていた。
イマは室内用の上履きだが、ヨーズアは日中用の革靴を履いたままだ。ずっと、眠る準備もせずにそのまま過ごしていたのだろうか、とイマは思った。
頭上から「……あんたに、悪気がないってのは、わかってますよ」という声が降ってきた。
「……入ってください」
扉を開け放してそのまま固定し、ヨーズアが言った。そのまま彼は中へ入り、カンテラの灯りを大きくした。
物が少なく整頓された部屋の中で、丸テーブルの上だけ乱雑に書類が散らばっている。ヨーズアは、そこにイマが持ってきた書類を重ねて置いた。
ヨーズアは椅子をイマへ勧め、自分はベッドに浅く腰掛ける。イマがそわそわと座ったところで、前傾姿勢のヨーズアは「……俺が何に怒ったのか、わかってないのに謝っても、意味はないんですよ」と言った。
「……はい」
「でもまあ」
ふいっと、テーブルの上の書類へ目をやって、ヨーズアは言った。
「あのややこしい文面に辞書で立ち向かったんなら……まあ、その根性は買いますよ」
イマはその言葉にほっと息をつき「……その書類のことだと思って……意味は、ぜんぶじゃないけれど、少しだけわかって。でも、たぶん肝心なことが、わたくしには、まだ……」と述べた。メガネをかけていないヨーズアと対面して話すのは初めてで、イマはなんだかドキドキした。
「……教えてもらえませんか? どこが、いけなかったのか」
イマが勇気を振り絞ってそう伝えると、何拍か黙って、ヨーズアは立ち上がった。そして壁際にある文机の上から丸メガネを取り上げると、ゆっくりとその鼻梁にのせた。――イマの体調を調べるときの顔になった、とイマは思った。
「じゃあ教えましょう。お嬢がなにを『町に売った』のかを。――このままだとあんた、ずっとこの町の奴隷だ」




