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第1話 深窓の令嬢、田舎へ引っ越す。

 イマは人生に退屈していた。なぜなら彼女のこれまでの生涯には、おおよそ彩りと言えるものがなかったからだ。

 白いシーツの病床が彼女の城であり、イマは一日の大半をそこで過ごす。窓のカーテンは厚く、わずかに陽光が差し込んで室内を照らすだけだった。

 気分がよくても、イマは庭の散策すらほとんど許されず、せいぜい枕元の本をめくるか窓から遠い空を眺める程度。両親は、彼女が幼いころに外遊びで風邪をこじらせて熱にうなされた事件を、ずっと重く受け止めていた。その時、イマは命を落としかねなかったのだ。


「外の風は命を縮める!」


 そう主張する両親は、イマを屋敷の奥深く、深窓の令嬢として閉じ込めた。外気はイマを殺してしまうと本気で考えているため、完全なる善意と娘の健康を願う切実な気持ちからだった。食が細く、体調を崩しがちな彼女の体質も、その思い込みを後押ししてしまった。

 週に何度か訪れる家庭教師は古文や算術を教え、常時控える医師は脈を測り、身の回りの世話をするメイドは枕を整える――それがイマ・ファン・レースト、十八歳の世界のすべてだ。

 退屈はイマの胸に重くのしかかり、時折、鏡に映る青白い自分の顔を眺めては、つぶやいた。


「このままでは……わたくしはいつか、退屈で死んでしまう……」


 しかし、昨年。

 彼女の人生に朱を差す事件が生じた。

 メイドが暇つぶしにとイマへ手渡した週刊誌――その中にあった、とある温暖な地方町の特集記事。そこに載っていた写真が、イマの心を鷲づかみにし、胸に火を灯した。

 記事を切り抜いてまとめるだけに飽き足らず、イマはその雑誌を普段の読書用に五冊、保存用に二十冊、いつかの布教用に三十冊ほど、メイドに買い集めさせた。


「……ああ、もうすぐね」


 暦を指折り数えつつ、イマはその日に思いを馳せる。


 イマはカーテンを開け、遠く続く曇り空をじっと見る。この空は、イマの憧れの地まで続いているのだ。

 ぼんやり思うだけでは足りない。この想いを――願いを、現実とせねば。死なずに成人したのだ。そろそろ、外を見てみたい。

 イマは、退屈死の危機を乗り越え、その特別な日を自分も迎えたいと願っている。しかも、できることならば、その土地で――!


「ねえ、先生(ドク)、お願いがありましてよ」


 イマは振り返った。その視線の先には、真剣な表情で新聞の経済欄に目を落とす薄茶色の髪の男性がいる。


「お嬢、それはいけません。退屈死など現代医学に存在しませんよ」


 一昨年からイマの主治医を務めるヨーズア・メールディンク氏は、彼女をちらりとも見ず切り返した。

 丸メガネの奥の飴色の目は新聞に向けられたままで、まるでイマの言葉に興味がない様子だ。真剣な表情で、いつも携帯している手帳を手で弄んでいる。日頃から彼は、その中の帳簿へ細かく金儲けの結果を記している。よって、それに類する情報の収集に余念がないのだ。


 前任の高齢医師がぎっくり腰で引退し、たくさんいた弟子の中からイマの主治医へと選ばれた彼は、腕は確かだが金にしか心を動かさない。

 たとえば――白金の長い髪、空色の瞳、白磁の肌――美しく年頃のイマに、彼はかけらも関心がない。本当にない。だからこそ、両親はヨーズアを深く信頼し、イマを任せたのだ。


「まあ、わたくし、まだお願いを口にしてすらおりませんのに!」


 イマは頬を膨らませ、ヨーズアへ歩み寄って抗議した。微かな風が絹の寝間着を揺らし、彼女の心もそわそわと踊る。彼女の胸はいまだかつてなく高鳴っている。

 どうしても、ここでヨーズアを説得しなくてはならないのだ。イマの計画には、彼の協力が必要不可欠だった。彼女は肌身離さず持っている扇子を開いて口元を隠し、もう片方の手の青白い指で、自分の髪を梳きながらヨーズアへ言った。


「――わたくし、先日成人いたしまして」

「よく存じておりますよ」

「子どもの身分ではできないけれど、成人でなら自由にできることがなにか、おわかりになりまして?」

「さあ。夜中に自分ひとりで手洗いに行けるんじゃないですか」


 ヨーズアは手帳へとペンを走らせつつ淡々と答えた。丸メガネの縁が鈍く光っている。イマの退屈死の危機よりも、彼にとっては株の配当金情報の方がはるかに重要なのだ。

 イマはパチン、と音を立て扇子を閉じた。そしてどこかから手品のようにさっと取り出した通帳を開き、ヨーズアの目の前へ掲げる。


「個人資産の銀行口座から出金するのに、両親の許可が必要なくなりました」

「なんなりとお申し付けくださいませ、イマお嬢様」


 瞬間、ヨーズアは床に片膝をついて頭を下げた。飴色の瞳がギラリと光る。

 イマも両親と同じく、彼を信頼している。金に対して恐ろしく誠実だからだ。


「では、わたくしの言った通りに診断書を書いてくださいません?」

「おおせの通りに」


 そうして、イマは『すぐに田舎の土地へ療養に出ないと、退屈で夢見が悪くなり、衰弱して死ぬ』病気にかかった。

 衰弱演技はさすが堂に入っていた。ベッドで咳き込み、額に手を当て「もうダメかも……」とつぶやく姿に、メイドたちすら目を潤ませた。


「――イマ!」


 イマの父親であり、ハウデンフラクト連合王国の元老院に所属しているバスティアーンが、大きな音を立てて娘の寝室のドアを開け飛び込んで来た。母親のヘルディナが、まさにイマの手を取りさめざめと泣いていたときだ。

 平日の真昼間、そして貿易に関する小難しい決議案の、可否が問われている本会議が開かれている真っ最中である。

 ヨーズアが先週、経済新聞をにらんで舌打ちしながら「ファン・レースト議長はしばらく忙しいでしょうねえ」と、父バスティアーンの仕事の内容についてボヤいていたので、なんとなくイマはそのことを把握していた。

 こうなること――イマの一大事の報告を受け、父が議会を放り出し数々の懇願と制止の声を跳ね除けて帰宅すること――はもちろんわかっていた。が、イマにとっては国益やら貿易よりも、一世一代の自分の計画の方が重大事項だ。


「お父様……イマは、もう、ダメです……」


 動悸が激しく、イマは本当にダメな気がしてきた。しかも、結婚で引退するまで売れっ子の舞台女優だった母ヘルディナが、大真面目にずっと、イマの傍らにて全身全霊で嘆いている。


「ああ、イマ……! わたくしの愛する小鳥、わたくしの宝……! 死なないで! わたくしを、置いていかないで……!」


 本気の号泣とともに、この世のすべては舞台なのだと錯覚するくらいの朗々としたセリフが響き渡る。

 それを聞き――今こそがクライマックスだ、とイマは直感した。ゆえに、ホロリと涙が出た。これは血のなせる技だろうと彼女は思った。

 父バスティアーンは、妻のヘルディナの肩を抱くように、イマのベッド脇へと近づいた。そして、イマの手をヘルディナの指先といっしょに両手で包み込む。


「……メールディンク君。イマは……イマの、状態は……」


 ヨーズアは、いかにも誠実な青年風の空気をまとい、バスティアーンの質問に目を伏せる。


「……まことに残念ながら……『すぐに田舎の土地へ療養に出ないと、退屈で夢見が悪くなり、衰弱して死ぬ』と言われている、現代医学では証明できない奇病でございます」

「なん……だ、と……」


 動揺するバスティアーンへ、ヨーズアは小声で、しかしはっきりとした口調で告げる。ヨーズアも舞台俳優が務まるのではないかとイマは思った。


「その名も……『退屈病』。お嬢様がこちらを発症されたのは、おそらく――幼少期かと」


 父バスティアーンは、絶句し立ち尽くす。そして、目元を手で覆い喉を鳴らして嘆いた。まさか父親が泣く場面に遭遇するとは思わず、イマはびっくりした衝撃でもらい泣きをしてしまった。


「すまなかった……イマ。ずっとつらかったのに……気づいてやれなくて。――本当に……」


 寝室内は、最高潮の盛り上がりだ。イマ、イマの両親、ヨーズアと、祈るようにひっそりと壁際に控えたメイドたち。

 その場のだれもが沈痛な面持ちで、ヨーズアを除く全員が涙を流している。そして、ひとり冷静なヨーズアが厳かな口調で述べた。


「――ひとつだけ。イマお嬢様が、元気になられる方法が」

「なんですって⁉」

「それはなんだ、メールディンク君!」


 即イマの両親が食いついた。詰め寄られたヨーズアは、丸メガネを指で押し上げながら「それは――」と告げた。


 そうしてイマは――『すぐに田舎の土地へ療養に出ないと、退屈で夢見が悪くなり、衰弱して死ぬ』病気の療養のため、憧れの土地――雑誌に記されていた『イブール』という名の地方町へと引っ越すことになったのだ。


ちょっと現実逃避したくて、こっちにもあげます

カクヨムで先行連載作品です

【19:06追記】

いちおうカクヨム版のURL置いておきます

https://kakuyomu.jp/works/16818622176656490806

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