終章
「――大分、城の修築も進んできたな」
「はっ! 城内外の根の除去は粗方完了しつつおります」
ここは清州城を遠くに望める小高い丘の上。
かつて信長が父親の『遺言』を聞いた場所に、信長、千代、恒緒、サルの四人はいた。
信行の謀叛鎮圧から、はや数か月。
長かった冬もようやく明け、頬に当たる風も柔らかくなりつつある。
反信長派の旗頭であった信行が斃れ、勝家や蔵人といった有力家臣が帰順したことで、尾張は信長の下、急速に統一に向かいつつあった。
「ふぅ……後は堀や塀の修理か……」
信長は丘の頂上に聳える大杉の根に腰を下ろし、脱力したようにその幹に背を預ける。
「はい、少しずつは進めているのですが、未だ芳しくなく――」
「儂に普請奉行をやらせて頂ければ、もっと早くできるんじゃがのう……」
「草履取りに奉行が任せられる訳ないでしょ。やりたければ、あたしみたいに武功を挙げなさい?」
『信行は信長暗殺を企てたが露見し、側近の池田恒緒に返り討ちにされた』。それが表向きの公式発表だった。
あの時。
「――千代、頼みがあるの。信兄ぃが目を覚ましたら………信行様を討ち取ったのはあたし、ということにしてくれないかしら?」
「それは………殿の為か?」
千代の問いに恒緒は頷く。
謀叛を起こし、素戔嗚の覚醒を誘引したのも信行である以上、命を落としたとしても応報というものだろう。
だが信長の方はどうだろう?
この乱世に、まるでそぐわない優しさを持つ信長自身が、自ら実の弟を手にかけた、ということに耐えられるだろうか?
「しかし、本当にそれでいいのか? お前は殿を――」
この手の事に鈍感な千代にも、恒緒が信長にどんな想いを寄せているくらいは分かる。
「――『別の奴』にも言ったけど………あたしは信兄ぃに自分を見て欲しいんじゃない。信兄ぃと同じ方を見て、同じ方へ歩きたいのよ。たとえそれが信兄ぃ自身に気付いてもらえなかったとしても」
「――!」
真っ直ぐに言い放つその言葉に、決意に、どれほどの想いが込められているのだろう。
千代は思わず息を呑む。
それはともすれば、想いを拒絶されることより辛い。そんな茨の道を進む、と迷いなく断じた恒緒に、
「――承知した」
千代はただ頷くことしかできなかった。
幸い、『あの場』にいたのは恒緒、千代、サルの三人のみ。壁に叩きつけられ昏倒していたサルも、救援が駆け付ける前には意識を取り戻したことで口裏を合わせ、素戔嗚の覚醒は闇に伏せられることになった――。
「――恒緒殿のように、自ら敵大将を討ち取る大手柄なぞ、儂にゃあ少々荷が勝ちすぎるわい!」
サルは巧みに話を合わせているが、
「そうだな――」
信長の反応はどこか鈍い。あからさまに疎んじたりはしていないが、流石に思うところがあるのか、あの日以来、恒緒絡みの会話にはどこかぎこちなさがあった。
心なしか、恒緒と目を合わせないようにしているように見えるのは、気のせいだろうか?
(ここはそれがしが――)
「よ、よ~し、そ、それがしも、負けてはおれぬな!」
場の空気を何とかしようと一念発起した千代の口上は、傍らの恒緒がため息をつくような棒読みだったが、当の本人は大真面目だ。
「殿! これからもそれがしは犬の如く殿に仕え、忠勤に励む所存――」
まだ信長の中の素戔嗚の脅威が去った訳ではない。
だが、『担い手』である信長の有り様が変わらない以上、自分はそれを信じ、守り続けよう――。
「じゃあ、『犬千代』だな」
「――へ?」
密かな決意とともに紡ごうとした口上を遮られ、千代の口から呆けた声が漏れる。
「名前だよ。君は今日から『犬千代』ってことで」
その表情にはいつもの悪戯が成功した時の悪童の如きものだ。
「ちょっ……殿っ!」
「諦めなさい。信兄ぃが一度決めたら聞かないのは知っている筈でしょ」
「だ、だが――」
思わぬ展開に、千代は堪らず抗弁しようとするが、
「それより行くわよ。清州城の修築に、領内の見回り、やることは山積みなんだから」
恒緒がいつも通り澄ました様子で、『千代』改め『犬千代』を引っ張っていく。
◇
「くくく………うまく誤魔化しましたな?」
二人が去った後、サルがもう堪え切れない、と具合に腹を抱える。
「……よく分かったな?」
「主君の思惑くらい汲み取れなきゃ、『草履取り』は務まりやせん。まあ、儂の見たところ、恒緒殿も何やら察していたようですが――で、人払いしてまで儂に何か話でも?」
「ふふっ、相変わらず察しが良いな………」
信長は思わず苦笑する。
「なあ『ヒヨシ』、僕は決めたよ」
「グビッ、グビッ………何をです?」
本当の名である『諱』で呼ばれたサルは、瓢箪の水に口をつけながら答える。その鷹揚な態度は、主君を前にした家人のものではなく、他家であれば無礼討ちになってもおかしくないようなものだったが、信長の方は気にした様子はない。
諱で呼ぶ時は無礼講。それが二人の間の決まりだった。
「……僕は、この天下全てを一つにしようと思う」
「ぶほっ!?」
思わずむせたヒヨシの手から瓢箪が滑り落ち、けたたましい音を立てる。
「げほっげほっ! えっと……今何て?」
咳き込み、瓢箪を拾い上げながら聞き返す。
「天下を一つにする、って言った」
どうやら聞き違いではなかったらしい。
「……正気ですか?」
正直、気でも触れたか、と思った。
何せ群雄割拠の世である。これを奇貨とし、のし上がれる者はほんの一握りでしかない。
親から継いだ国を保てれば上出来。自らの代で領国を一、二カ国でも増やすことができれば十分に名将扱いされるといっても過言ではない。今この乱世で領国を持ち得ている、という事自体、相応の『異能』を有していることに他ならないのだから。
尾張一国をようやく統一したばかりの信長が、それらを飛び越えてこの日ノ本を統べる、とは夢物語もいいところだ。今この国中で争っている全ての大名を見渡してみても、そんな大層なことを考えている者はいないだろう。
だが、そういう信長の瞳には一点の曇りも無く、一時の伊達酔狂で言っているようには見えない。
「僕は……ずっと素戔嗚が怖かった。この日ノ本全てを滅ぼしかねない強大な力を。何よりその力に頼ろうとする自分自身に」
だから紋様術の腕も磨かず、才能の無いうつけを装った。
自らの手の届く範囲だけでも守れれば。
民と共に穏やかな生活が送れれば。
それだけで良かった筈だった。
だが、現実は甘くなかった。
乱世は、信長個人の意志など斟酌することなどない。
「――結局僕は自力で尾張を……いや村一つでさえ守りきれず、素戔嗚の力に頼り、挙句暴走させてしまった。だが最後に救ってくれたのは、国を滅ぼすほどの一箇の強大な力ではなく、犬千代と恒緒とお前と………信行の想いだった」
「まさか殿………記憶が?」
信長はその問いにただ頷くと、懐から一枚の銅銭を取り出してみせた。
「それは……落宝金銭!? 壊れた筈じゃあ……?」
「一枚だけ、なんて誰が言った?」
「なんと……それで『記憶の消去そのものを打ち消した』、と?」
「ああ、恒緒とは生まれた頃からの付き合いだからな。上手く隠しているつもりかもしれないが、『何か』あったことくらいは察しが付く」
いつものいたずらっ子のような顔で言う信長に、
「やれやれ、では殿はそこまで知りながら、儂らの猿芝居に付き合って頂いていた訳ですか?」
ヒヨシは呆れたような顔で返す。
「すまない」
「まあ、もうええですが……何故、儂にその様なことを?」
「この乱世には何かがある。人を狂わせるような大いなる何かが――。僕はもう恒緒に………いや皆にあんなことはさせたくない。しなくてもいい世を作りたい。その為にお前の力を貸して欲しいんだ」
由緒ある家の血筋でもない、一介の百姓出の者が紋様術を操る。
長い紋様術の歴史の中でも、おそらく前代未聞である。
百姓出のヒヨシが、力を行使できるなら、踏みつけにされている民の希望に、世を変えることができるかもしれない。
だが翻せば、このことが術の力を背景に圧政を敷いているような国に知れれば、一揆、騒乱の芽ともなりかねない。
「……本当のところ、この力が何なのか、儂自身にも分からんのですよ。生まれつき、としか……。殿は、そんな得体のしれない者を用いると?」
「ああ、素戔嗚のような力や一部の術者のみが蔓延り、親兄弟の絆さえも狂わせてしまうような世はどう考えたっておかしい。僕は……皆が笑って暮らせる世を作りたいんだ」
「……そんなお優しい考えで、日ノ本を統べることなどできるとお思いか?」
「やるよ。それが素戔嗚ほどの大いなる力を継いだ者の責務だ」
「この乱世、立ちはだかる者も多かろうと思いますが?」
「覚悟の上だ……たとえ後の世に悪鬼羅刹、天魔と誹られようとも、死してこの身が朽ちるまで!」
ヒヨシの問いに信長は宣言するようにそう言うと、下ろしていた腰をゆっくりと上げる。
「それが今の僕の夢で、望みの全てだ――」
「くくく……強欲なことですな」
武士だけでなく、民百姓までが笑って暮らせる世を作る。それはともすれば、日ノ本全てを我がものとするより、余程難しい。
「知らなかったか? 僕は我が儘なんだよ」
「ふぅ……分かりました。儂も鼻持ちならない武家の連中に虐げられてきた百姓の出だ。出来る限りのことはさせて頂きます」
そう言いながら、ヒヨシは根負けしたかのような笑いを見せる。
「ですが、その道程でまた素戔嗚みたいな物騒な力が暴走したらどうするんです?」
「その時は――お前の手で僕を討ち果たしてくれ。その手段は教えてやる」
「な――」
ヒヨシが虚を突かれた隙に、信長が唐突に駆けだした。
「と、殿っ!? どこへ?」
「そろそろ城に戻らないと、恒緒にどやされる! さっきの答え、考えておいてくれ!」
信長はまるで夜遊びへの誘いの如く気軽に言いながら、丘を駆け下りていく。
ヒヨシはそんな主君の背を、溜息と共に見やりながら、
「――だ、そうじゃよ、お二人さん――」
そう一人ごちると、信長の後を追うべく走り去っていった。
二人が去った後、大杉の陰より季節外れの蝶が二羽現れ、どこへともなく舞い飛んで行った――。




